第十二章 神隠し
1
最後に憶えている光景は、地上から差し込む光だった。
きらきらと光を反射しながら伸びる、黄金色の柱。
それはまるで、神様がぼくに向かって差し伸べてくれた手のようにも思えた。
何かに絡まり自由に動かせない手足、水に押さえつけられ音をシャットアウトされた耳。それに代わって視覚だけが、その神々しい光景をぼくの脳内へと伝えてくれた。
ああ、なんて静かなんだ。
なんて、自由なんだ。
なんて、心地よいんだ。
確実に死に向かって進んでいたはずなのに、ぼくの心は、穏やかなまどろみの中に浸っていた。
自分を縛り付けていた様々なものからの解放。それが、やっと訪れると思った。
これまでのぼくの人生は、怯えの中でもがくことしか出来なかった。
父の言いつけを守り、その意思に従い、母の言葉や思いを信じ、どんなに悲惨な状況に追い込まれようとも、必死に抗って生きてきた。
でも、結局、全ては無駄だった。
今のぼくには、生きる希望も、理由も何も無い。
自分以外には誰も存在しない水の底。こんな場所に探していたオアシスがあったらしい。
地上から伸びる光の柱が細くなる。ぼくはそれを追うように腕を伸ばした。
途切れ途切れになった意識の中、幸せだった頃の母と父の姿が見えた気がした。
お母さん、お父さん……!
ぼくを置いていかないで、待って――!
ぼくは二人が手を掴んでくれると思っていた。
一緒に、あの明るい光の下に行けると期待していた。
それが叶わない夢だとは分かっている。それでも、どうしても諦め切れなくて、ぼくは必死に腕を伸ばし続けた。
水面から差し込む光を掴み取ろうとしたのだけれど、どれだけ頑張っても、それに触れることは出来なかった。
目の前が真っ暗になる。深い――深い闇だけが、僕の体を包んでいた。
2
コンクリートの壁に唾液が飛び散った。
腹を強く蹴られたせいで、口の中から飛び出してしまったのだ。
真一は痛みに耐え切れず、思わずその場に膝をついた。手が当たった影響でゴミ箱が倒れ、中のものが狭い裏路地に散らばった。
「うわぁ、きったねえぇ。こいつ唾飛ばしやがった」
蹴りを入れた坪井が、排泄物を見るような目を向けてくる。真一はそんな彼を、うらやましげに見上げた。
「いつもいつもうじうじして、気持ち悪いんだよお前。そうやって子犬みたいに震えてないで、少しは反撃してみたらどうなんだよ」
鼻を鳴らし、真一の頬をはたく坪井。その様子を見て、彼の背後にいた二人の男子が腹を抱えて笑った。ナイフを突きつけられるような笑顔だった。
「無理だって。こいつにそんな度胸があるわけねえぇだろう。知ってるか。こいつ、昼休みいっつも俺たちに会わないように、トイレで飯食ってるんだぜ。笑えんだろ?」
取り巻きの少年が真一を指さして鼻をつまむ。
「まじかよ、どうりで臭ぇと思ったわ」
坪井は再び真一の腹を蹴った。勢いに負けて体が後方へ押し飛ばされ、腰がくの字に曲がる。痛みと恐怖と喉奥の苦しさで、思わず真一は吐いてしまった。
「なんだぁ? 口からも用を足したいのか? 変態だな、お前」
げらげらと笑いながら真一の頭を踏みつける坪井。まるで足についた汚れを拭うかのように、靴の裏を髪に擦り付けた。
何で、何でいつもぼくばかり……。
吐瀉物まみれの地面に唇を押し当て、溢れ出た涙を見つめる。
これが何らかの復讐劇だというのであれば、嫌ではあるがある程度は納得が出来た。だが真一は彼らに対して恨まれるような覚えも、憎まれるような真似をしたこともなかった。ただ大人しいから、不器用だから、上手く会話ができないからという理由で、理不尽な暴力を受け続けていたのだ。
きっかけは小さな出来事だった。
社会科見学のグループ決めを行う際、友人のいなかった真一は一人余ってしまい、ちょうど人数が足りなかった坪井の班に入ることになった。
真一は慣れない集団の中において、自分なりに頑張ろうと努力したのだけれど、彼らのノリやコミュニケーション手段、話題についていくことができずに、空気を乱してしまうことが何度かあった。一緒に作業を行うときもまともに話を伝えられず、そのたびに彼らの怒りを買ってしまった。
そんなことが積み重なっていくうちに、いつしか真一は「罰金」と称してお金を取られるようになっていった。上手く話せないと罰金、グループの作業を失敗すると罰金、気に食わないことを言ったり素振りを見せたら罰金。最終的には、何もしていないのにお金を取られる日々が続くようになった。
中学生の真一に継続的に放出し続けられる財産などあるわけもなく、小学校から必死に溜めていたお年玉はすぐに底をついた。しかし簡単にお金が手に入るという事実に味を占めた坪井らは、真一の泣き言を許さなかった。「無いなら、親の財布からでも盗ってこいよ」と、指示してきたのだ。安い給料で毎日深夜まで働く父、その助けになろうと家事やパートに追われる母。彼ら二人の日々を知っていた真一に、そんなことを行う度胸はなく、結局、暴力を受ける機会だけがその頻度を増していった。
よだれと涙が吐瀉物に混ざり地面を汚す。
もういい。もういっそ殺してくれ。そうしたら、楽になる。
強い痛みと悲しみを感じながら、真一は心の底からそう願った。もうこんな辛い生活は沢山だ。もう、うんざりなんだ。終わらせて欲しかった。
坪井が足を上に上げ、真一の頭に叩きつけた。ぐにゅりという感触が走ったかと思った瞬間、恐ろしい痛みが顔の前面に走り、血が吹き出る。どうやら前歯が折れたようだった。
悲鳴を上げて転げまわる真一を見て、坪井とその背後の少年が再び耐え切れないように笑い出す。
自分が吐いたものとゴミと涙で全身をぐちゃぐちゃにしながら、真一は呪った。
自分の人生を。
彼らを。
この運命を。
全てに絶望し、思考を手放しかけたとき、急に彼らの笑い声がやんだ。
あまりに突然の無音に思わず顔を上げる。
……何だ、……どうしたんだ?
目の前で、少年が一人倒れていた。坪井の背後から真一を嘲笑していた二人の片割れだ。どういうわけか、そのもう一人が前に立ち、鉄パイプを握りしめている。
「お、お前何してんだよ」
目の前の異常事態に目を回した坪井が呼びかけるも、少年は答えない。そればかりか、持っていた鉄パイプを倒れた仲間に向けて、勢いよく振り下ろした。何度も、何度も、何度も。
相手がぴくぴくと痙攣し、やっと反応を示さなくなったころで、鉄パイプの少年は顔を上げた。
彼の表情を見て真一はぞっとした。あれは先ほどまで自分を見て笑みを浮かべていた男の目ではなかった。表情も、雰囲気も、いつもの彼とはまるで別人だった。深い嫌悪感と憎しみが、彼の顔には籠っていた。
「な、なあ、何なんだよ、やめろって……!」
両手を前に出し、後退する坪井。しかし少年は寒気がするような笑顔で、彼に向かって鉄パイプを突き出した。
真一の吐瀉物にまみれていたコンクリートは、ザクロのような赤へとその配色を変えた。
何度も鉄パイプを振り下ろされた坪井は、もはや蟲の息だった。肉塊といってもおかしくはない状態だった。
鉄パイプの少年がくるりと体の向きを変え真一を見つめる。
あまりの恐怖に真一は体が動かなかった。
そんな真一を見た鉄パイプの少年は、表情を一変させ、急に人懐っこい笑顔を浮かべた。
「だ、大丈夫。こ、これでお前を苛めるやつはもういない。お前は自由だ」
何も答えることができず、狂気に満ちた少年を見つめ返す真一。
鉄パイプの少年は血に塗れた鉄パイプを持ち上げ、自分の頭上に掲げると、
「もう、この体は役に立たないな……」
勢いよく自分の頭部へ叩き付けた。
鈍い音が路地に木霊し、少年の体が崩れ落ちる。
真一はこ自分でもわからないうちに涙を流していた。何がどうなっているのか、さっぱり理解できなかった。とにかく、怖かった。
少年はぴくぴくと体を痙攣させ、口元から大量の白い泡を吐き出していた。
「ど、どうして……」
どうしてこんなことを……。
先ほどまで彼は坪井たちと一緒になって、楽しそうに自分のことを笑っていたはずなのに、何故急にこんな暴挙に出たというのだろうか。まったく持って意味がわからない。
虐待でも受けていたのだろうか。少年のシャツの隙間からは、浅黒い腫瘍のようなものが姿を覗かせていた。
3
猛暑とは、このことだろう。
僕は海と山に囲まれた爽やかな場所に引っ越してきたつもりで、実は南米に来てしまっていたのだろうか。
拭いても吹いても汗が滝のように流れ落ちるので、いつの間にかハンカチもぐったりとしなびてしまっている。
仕方がなく滴り落ちる汗を手の甲で拭うも、気休め程度にしかならない。前列に座っている桂場は既に夏服を脱ぎ捨て、‶ロマンス〟とプリントされたシャツをこれでもかと周囲に見せびらかしていた。
普段だったらそんな格好をしている生徒がいれば、すぐに教師にどやされるものだったが、状況が状況なので彼らも桂場の行動を黙認してくれている。
僕も上着を脱ごうと思ったのだけれど、塩が浮き出てたら嫌だったのでやめておいた。別に目の前の光景をみたからではない。
昨日まではエアコンを使用していたからそれほど暑さは感じなかったのだが、今日になって突然そのエアコンが壊れてしまった。何十年も前に買ったやつを、無理に使い続けていたつけが回ってきたらしかった。
黒板に歴史の内容を板書している教師の表情も、かなり虚ろだ。やる気がまったくないのがありありと感じられた。彼の額には大量の汗が浮かんでおり、大きめのお腹はプールに突撃してきた直後のようにずぶ濡れだった。
「しかし、これだけ暑いと、喉が渇くなぁ」
独特な間をおく話し方で、湿度に満ちた息を吐く教師。
「……中国にこんな話がある。菜根譚 という古典だ。『暑さを除かなくとも、暑さに苦しむ心を除けば、涼しい場所にいるのと同じである。貧しさを追い払わなくとも、貧しさに悩む心を追い払えば、豪華な家にいるのと同じである』。――つまり暑いと思わなければ、暑くなくなり、貧しいと思わなければ、貧しくは無いという、ことだ。お前たちも授業に集中すれば、こんな暑さなんて、問題はなぁい。なあ、桂場ぁ」
「え、――あ、はい」
話を聞いていなかったのか、桂場は慌てて頭をあげた。それを見た教師は、表情を変えずに喉を唸らせる。
「さすが桂場だぁ。授業なんて聞かなくとも、聞いていると思えば聞いているのと同じというわけだなぁ。まさに、身をもって菜根譚の説明をしてくれたわけかぁ」
「え、いや、違います。すいません。ちょっと寝ぼけてました」
頭を押さえながら、桂場は謝った。急に攻められてかなり焦っているようだ。
冗談っぽく教師が睨み、桂場が苦笑いを浮かべる。小さな笑いが起こったところで、チャイムが鳴り響いた。
「時間か。……もうすぐ期末試験だぁ。しっかりと勉強しておくように。赤点者は、まさか、いないよなぁあ」
そういって再び左方向を見る。桂場は微妙な笑顔で頭を上下に動かした。
日直が皆を立たせ、お決まりの礼を済ませる。これで三時間目の授業がようやく終わった。
教師が出て行くと、僕は大きく伸びをして顔を机の上に押し付けた。少しだけひんやりとした感触が頬に伝わって気持ちよかった。
そのまま横になっていてもよかったのだけど、喉がカラカラだったので立ち上がった。このまま何も飲まないで次の授業を乗り切れる自信はなかった。ちょっと急いで歩けば、ペットボトルの一本くらい買ってくる時間はある。席を立ち、扉の前まで移動すると、タイミングよくスタイリッシュと鉢合わせた。
「お、どこ行くん?」
「いや、飲み物を買おうと思って」
僕が答えると、彼は賛同するように手で自分の顔を扇いだ。
「あ、なら俺もいくわ」
4
金属音が響き、自販機の受け取り口にペットボトルが落ちる。僕は教室でそれを飲むつもりだったのだけれど、スタイリッシュはそこでキャップを開けて口に咥えた。
「いやぁー、生き返るな」
実に幸せそうな表情で、ごくごくと何度も喉を動かす。あっという間に中身が半分になっていた。
「そんなに一気に飲むとお腹壊すぞ」
僕がそう言うと、最後にもうひと口だけ飲み込み、スタイリッシュは口を離した。
「俺、暑さにほんと弱いのよ。これくらい飲まないと死んじゃうって」
「まあ、気持ちはわかるけど。……――行こうか」
歩き出そうとしたのだが、スタイリッシュは動かなかった。飲み物を胸の前に維持したまま、何かを考えるように斜め下を見ている。
「どうしたの?」
休憩時間は十分ほどしかない。早く帰って休みたかったのだけれど、仕方なく僕は足を止めた。
「なあ、何か桂場の様子おかしくなかったか」
「桂場? いや、いつもと同じように見えたけど」
今日の桂場に別段変わったところはなかった。あの明るさも、どこか抜けているところも、いつも通りのことだ。
「なんていうかなー。心ここにあらずという感じなのよ。さっきのあれも、何だか体調が悪そうに見えなかった?」
「え、そうかな……?」
「う~ん。俺の気のせいかもしれないし、変な風に感じなかったんなら、別にいいわ。ごめんな、何かちょっと気になっちゃって」
遠慮がちにこちらを見ながら、キャップを閉めるスタイリッシュ。
「まあ、僕はまだそれほど付き合いが長いわけじゃないからね。なんともいえないけれど。単純に暑さでやられたとかじゃないかな」
「暑さねぇ。それだけならいいんだけどなぁ……」
どこか納得がいかなそうに教室の方を眺めるスタイリッシュ。彼の中では何らかの疑問が確信となっているようだった。
「そんなに気になるなら、あとで本人に聞いてみれば? 悩み事でもあるのかもよ」
「……いや、無理にこっちから踏み込むのは止めとくわ。プライベートな問題かもしれんし。……ごめんな。急に変なこと言って。あんま気にせんといて」
人体自然発火事件に、少女誘拐未遂。そして謎の交通事故。ここ数日の明社町は、妙な事件が頻発している。
無意識のうちにみな警戒心を強めているのだ。次に犠牲に遭うのは自分にならないように。親しい誰かが傷つかないように。
「うん。わかったよ」
僕は場を和ますようにそう微笑んだ。
5
教科書を鞄にしまって立ち上がると、斜め後ろの席に座っていた千花の姿が目に入った。
クラスメイトの女子と話していたようだったが、一瞬だけ視線が合う。今日は今後の行動について話す約束をしていたため、その意を込めて無言で頷く。千花は顔を少しだけ傾けると、再び友人たちとの会話に戻った。
学校内では誰かに話を聞かれる可能性も高いし、二人っきりで行動していれば変な勘違いをされる危険もある。別に言葉にして伝えたわけではないけれど、最近はなんとなく、お互いに教室内での接触を控えるようになっていた。
「お、穿くん帰るの?」
教室の後ろにつくと、能天気そうな声が聞こえた。日比野さんだ。僕はすぐに彼女に向き直り、控えめな笑みを浮かべた。
「ちょっと今日は用事があってね。日比野さんは部活?」
「まね。‶触れない男〟について、記事を書いてるの。学級新聞に載せようと思ってさ。見てみる?」
目をきらきら輝かせながら、顔を近づけてくる。自分の作品を自慢したくて仕方がないといった様子だった。
僕は千花の様子を確かめながら、
「……ごめん。今日は時間がなくて。また今度見せてもらうよ」
「そっか。残念。力作なのに」
日比野さんは唇をへの字に曲げてみせた。
「‶触れない男〟に関する新情報とかもあるんだよ」
「新情報?」
「前に中学生が行方不明になった事件、知ってる?」
「ええっと、‶触れない男〟を見ると、行方不明になるってやつ? 確か、実際はただの家出だったとか」
「そう。それそれ」
目を大きくして、頷く。彼女は目の前の机に腰を下ろすと、そのまま組んでいた足をほどき、小さくぶらぶらと交互に揺らし始めた。
「一か月くらい前かな。突然にね。複数人の少女が行方不明になったの。警察も駆り出されて大々的に騒がれたんだけど、彼女たちは行方不明になった三日後に突然帰ってきたんだ。誰が何を聞いても、その間何をしていたのかも、どこに居たのかも、一切答えようとはしなかった。
警察が家族に話を聞くと、彼女たちはみんな失踪前に不思議な人影を見たり、声を聞いたって証言をしていたことがわかったんだって。ちょうどその頃、町のあちこちで‶触れない男〟なんていう怪しい人物の目撃情報が増え始めていたから、彼女たちの失踪は‶触れない男〟による影響なんじゃないかって言われていたんだけど――……」
‶触れない男〟がこの町でカナラを探していたのなら、間違って同年代の少女にちょっかいを掛けてしまうこともあり得ただろう。皐月さんの時のように。
三日後に帰ってきたというのは、別人だとわかって解放されたからということなのだろうか。彼女たちは‶触れない男〟の起こした現象に恐怖し、口を閉ざした。そう考えれば納得できないこともないけれど、同時に複数人という言葉が気になった。
「最近になって、行方不明になっていた子たちについて、また妙な噂が広まり始めたの」
「妙な噂?」
「そう。家出から帰ってきた子たち全員が、夜な夜なおかしな行動をとるようになったんだって」