第十一章 不可解な死
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昨夜午後十一時過ぎ、***県***市において、廃墟前で保護いた男性を護送中に、警察車両が民家へ衝突。その際の衝撃により、搭乗員三名が死亡。警官二名は救急車で搬送中に出血死。保護されていた男性は心臓を折れ曲がった鉄柱で貫かれ、即死したと見られている。なお、民家の住民に怪我はなかった。警察はこの事故の原因を男性が逃走を試みた影響によるものと、事故の二つの観点から調査を行っており、詳しい原因は……――
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図書室の隅。僕と千花はニュースサイトを端末に表示させ、皐月さんから教えてもらった事件のことを確認した。
紙をめくる渇いた音すら大きく感じる室内だったので、出来るだけ声を落として会話する。
「これって……やっぱり‶触れない男〟のことだよね?」
不安そうな表情で千花が同意を求める。僕は悩む素振りを見せながら、
「たぶん、そうだろうね。時間と場所は一致してる」
「……逃げようとして、失敗したのかなぁ」
「わざわざ走行中にそんなことをしなくても、あの人ならいつでも脱走できたと思うけど」
ニュースサイトに書かれていた内容は、何となく釈然としなかった。
摩擦を操れる‶触れない男〟が鉄柱を胸に受けて死ぬなんて、そんなことがあり得るのだろうか。
「気絶から目が覚めたばかりの寝起きだったら、間違って事故に巻き込まれる可能性もあるかもよ」と千花。
「でも、あの人がそんな短絡的な真似をするとは思えないんだ。摩擦を操れば、いつだって車から無傷で出ることが出来るのに」
逃げようとして事故を起こしたとしたら、〝触れない男〟がハンドルを奪おうとしたか、警官に襲い掛かったということになる。そしてそのまま車の衝突に巻き込まれ鉄柱を胸に受けた。何でも滑らせて体から逸らすことが出来る彼が。――とても信じられなかった。
僕は右の親指で小指を撫で上げた。
もしこれが事故でないとすれば、‶触れない男〟に何かしらの意図があって起きた出来事だと考えることも出来る。例えば付近の浮浪者を利用して死を偽装したとか。生きている‶触れない男〟の顔を実際に見たのは死亡した警察官だけだから、その事実に気が付く人間はきっといないだろう。
僕はその考えを千花に伝えようと思ったのだが、口を開こうとしたところで、場違いに明るい曲が鳴り響いた。音源は千花の鞄からだった。
「あ、ごめん、マナーモードにするの忘れてた」
いっせいに周囲の生徒たちの視線がこちらに集中する。千花は恥ずかしそうに席を立ち、廊下へと出て行った。
通話を終え戻ってきた千花は、椅子へは座らず、周りを気づかうように口を僕に近づけた。
「皐月さんからだった。警察から連絡があって、遺体の顔の確認を頼まれたみたい。……一―今日は親が来れないみたいだから、付き添いとして一緒にいってみようと思うんだけど。もしかしたら私も顔を見れるかもしれないし」
遺体が本当に‶触れない男〟の物かどうか見極めることの出来る、願ってもないチャンスだ。僕はぜひ確認すべきだと思ったが、同時に千花のメンタルも気になった。
「君は、……大丈夫?」
「平気だよ。もう怖い目には何度も遭ってるし、今更これくらい、何でもないよ」
本当にこの前の事件など、気にしていないのだろう。そういう千花の表情に嘘はまったく感じられなかった。
「じゃあ僕も行くよ」
「あんまり大勢でいくと怪しまれるし、目立つと思うよ。特に穿くんは」
確かに、自然発火事件と、皐月さんの誘拐未遂の件で出向いたばかりなのだ。ここでまた警察に行
くのはあまり宜しい行動だとは言えなかった。
「……わかった。じゃあ、連絡を待ってるよ」
「うん。……確認したら、すぐにメールするから」
千花はにこりと微笑むと、鞄を手に取り、席を立った。
僕はしばらくネットサーフィンを続け、事件について調べてみたのだが、先ほどの文面以上の詳しい情報はなかった。事件が起きたばかりだから、その手の記事の書き手もまだ投稿までこぎつけれていない者が多いのだろう。
そういえば、長浜一丁目って日比野さんが言ってたな。
何気なく事故の起きた住所を確認すると、ここからそう離れた場所ではなかった。
僕は何となく腕時計を確認した。父が帰ってくるまで、まだいくらか時間はある。
千花だけに任せて何もしないのも落ち着かなかったので、念のために現場を見てみようと思い立ち上がった。
事故現場には、数人の警察官が残っていた。
少ないが、野次馬の姿も見える。
車が衝突した民家はブルーシートで囲われており、近づくと、視界の大半が青色で覆いつくされた。
僕はしばらく中を覗き込もうと頑張ってみたのだが、警察の囲いはかなりしっかりとしたもので、全く中の様子はわからなかった。まれに黒い影のようなものが見えるから、恐らくは中にも警察官かいるのだろう。
もしこれが事故ではなく、‶触れない男〟が故意に起こしたものであれば、衝突した民家以外にも何らかの痕跡が残っているかもしれない。
僕はブルーシートの前から少し離れ、道路上に目を這わせた。‶触れない男〟が摩擦を操作するときに生まれる足跡を探してみたのだが、それっぽいものは見つからなかった。代わりに、道路の右側からブルーシートの奥にかけて、うっすらとタイヤの痕のようなものが見えた。急ブレーキの影響だろうか。ゴムの可塑剤に混ざった着色料がコンクリートの上にじわりと浸透している。
これは……。
僕は無意識のうちに、右手の掌を軽く擦り合わせた。
タイヤの跡があるということは、摩擦で滑って事故を起こしたわけではないらしい。
そのまま周囲を見回していると、タイヤ跡の手前数メートルの位置に、不自然に広がった‶亀裂〟のような跡を発見した。まるで内側からエイリアンか何かが這い出てきたような跡だった。
じっとその跡を見ていると、どことなく蟲喰いでつけた傷に似ているような気がしてきた。あの現象でコンクリートを砕けば、もしかしたら同じような亀裂が出来るかもしれない。
偶然か? それにしても……――
どことなく気持ちが悪い。
身を屈め地面に顔を近づける。コンクリートの断面を確認すれば、どのような壊れ方をしたのか参考になると考えたのだが、手を伸ばそうとしたところで、後ろポケットに入れていた端末が震えた。
取り出しで画面を確認すると、一件のメールが届いていた。送信元は千花となっている。
下に文面をスクロールしていくと本文に一言、「本人だったって」と書かれていた。
本人。つまり、遺体はあの本田克己ということだ。
――……本当に死んだのか。あの‶触れない男〟が。事故で?
正直、半信半疑だったが、あの独特な顔を皐月さんが見間違えるとも思えない。
僕は「わかった」とだけコメントを打ち、千花に返信した。
2
翌日。学校内で会話するチャンスを得られなかった僕は、千花にメールを送り、家の近所のカフェで待ち合わせをすることにした。そこは田舎町には珍しくかなり雰囲気のあるカフェで、前々から気になっていた場所だった。
吹き抜けになっている二階の窓辺に腰を下ろし、メニューの値段の高さに愕然とする。しかしせっかくだからと適当なブレンドコーヒーを注文してみたが、普通のコーヒーとの違いはよくわからなかった。
「お待たせ」
遅れてやってきた千花は僕の向かいの席に座ると、迷わずタピオカ入りココナツラテを選んだ。最近話題になっているから頼んでみたそうだが、タピオカというものが何かわかっていなかったらしい。
不思議そうにストローでいじり、感触を確かめる仕草があまりに子供ぽかったので、僕は思わず微笑んでしまった。
「どうしたの?」
「いや、別に何でもないよ」
僕の顔を不思議そうに見返しながら、千花は真面目な顔を作った。
「……それで昨日のことなんだけど」
僕は椅子に座りなおした。他に人が居ないことを確認し、机の前に身を傾ける。
「皐月さんに遺体を確認してもらったら、間違いなく自分を誘拐した男だって言ってたよ。特徴も間違ってなかった」
「本当に?」
「うん。胸の傷の他に、わき腹にも大きな傷があったんだって。たぶん、穿くんが初めて彼にあったときにつけたあの傷なんじゃないかな」
「そっか……」
安堵か、拍子抜けか、僕は大きく息を吐いた。
まさか、本当に死んでいたとは……。
「それで、死因はなんだったの? 本当に事故で死んだとは思えないんだけど」
「それなんだけどね」
千花は困ったように眉を寄せた。片手でコップの中のタピオカを回す。
「正式な死因としては、鉄柱が心臓に突き刺さったってなっているんだけど、変なんだ」
「変?」
「皐月さんが言うには、胸に大きな傷があったのは確かなんだけど、まるで何かが爆発したようにそこからひび割れみたいな痕が広がっていたんだって」
ひび割れ? 僕は当然のようにあの事故現場の光景を思い出した。無関係とはとても思えない。
「まさか、誰かに殺されたっていうの?」
「わからないよ。でも可能性としては考えられると思うんだ。‶触れない男〟については結局まだ何もわかっていないんだし。どういう目的で、どういう存在だったのかとか」
「確かにそうだけど……」
こんな状況なのに随分と冷静だ。
一緒に‶触れない男〟と争い、困難から逃げ伸びた仲だけれど、僕は千花を信用しきることが出来なかった。カナラの記憶を持つ意味だけではなく、何か隠し事をされているような気がして仕方がなかった。
「……まあとにかく、‶触れない男〟が本田克己ってわかったんだ。そこから調べれば、何かしらの手がかりが得られるかもしれない」
「まだ調べるの?」
「うん。今後の安全のためにも、襲われた理由ぐらいは検討をつけたい。また同じ目に遭う可能性だってあり得るから。……別に、無理に付き合ってとは言わないけれど」
「穿くんが調べるなら、私も手伝うよ。私だって何だか気持ち悪いからね」
屈託のない表情でそう言い返す千花。
これで本当に終わりなのだろうか。
僕は穏やかな表情を浮かべている千花を見返しつつ、何故か、言いようのない不安を感じた。
3
休日を利用し、僕は本田克己という名前について、詳しく調べてみた。
ネット検索で有効な手がかりが得られるとは思っていなかったのだけれど、ダメ元で検索してみた結果、とあるソーシャルネットワークサービスの個人ページを見発見した。顔を確認すると、見覚えのある‶触れない男〟の笑顔が大きく表示された。
まさかこんな簡単に情報が出てくるとは思っていなかったので、意外に思いつつもマウスを動かし画面をスクロールする。ページには友人たちと一緒に遊んでいる様々な写真が投稿されており、学生時代はそれなりに人生を満喫していたらしかった。
どうみても普通の人間だ。どこにでもいる一般人にしか見えない。写真に映る彼の顔はどれも笑顔で、とても楽しそうにしていた。
やっぱりそう簡単に手がかりなんて得られないか。
僕はため息をつき、手の動きを止めた。
今のところ、本田克己についてわかっていることと言えば、サラリーマンを辞め病気で入院していたという事実だけだ。一体何故彼が、あんな現象を身に着け、‶触れない男〟などと呼ばれる怪人になったのだろう。全く持って見当がつかない。
指遊びをしながら彼のことを考える。確か、記憶の中で、本田克己は死ぬ少し前に、妙な男の姿を見ていた。視界がおぼろげだったから姿はよくわからないが、あの男が何かしら関係しているのは間違いないはずだ。
あの姿の見えない男が本田克己を選び接触したのは、何らかの理由がなければ不自然だ。まさか適当に病院を歩いていたたまたま苦しんでいる本田克己を見つけたらから、あんな声を掛けただけとは思えない。間違いなく、何らかの理由があって、彼に声を掛けたはずだ。
「もっと生きたいか」、「生まれ変わりたいか」確か男はそう質問していた。
見た記憶を何とか思い出そうと頑張ってみる。そういえば、その言葉は‶触れない男〟が以前書いたアンケートと内容が一致しているような気がした。
あのアンケートで何かが引っかかったから、本田克己という男に目をつけた?
可能性があるとすれば、それしか考えられない。どういう団体が指示したアンケートなのかは記憶の中ではわからなかったが、アンケートという体を取っているのならば、ピンポイントで本田克己にだけ渡したわけではないだろう。
僕は再びキーボードに手を置き、「病院」、「アンケート」というキーワードで検索してみたが、いくら探してもみてもそれらしき情報は見つからなかった。
続けて、アンケートの質問内容にあった「強い望み」、「コンプレックス」等で検索し直してみる。
精神科系のものがいくつか出てきたが、それに混じって一つだけ文面が一致する内容について書いてあるブログを発見した。どうやら著者は女性のようで、本田克己と同様、入院中にそのアンケートを書かされたらしい。
どうやら女性は医療関係の仕事をしていたらしく、アンケートの内容を不自然に思い、記載されていた団体名をメモしたそうだ。そのブログには、しっかりと境和研究所という名前が記載されていた。
僕はすぐにその名前を検索し直した。北関東の中部にある研究所のようで、主に終末医療や臓器移植等の研究を行っている場所のようだった。サイトを色々と見ていくと、献体契約サービスという項目を発見した。
――献体契約。本田克己の記憶の中で、彼は自身の死を客観的に認識していた。自分が死んだと、思っていた。もし本田克己がこの研究所によって‶触れない男〟などという怪物にされたとすれば、何らかの方法によって遺体を回収されたはずだ。そしてそれは、本田克己の家族が納得できる理由でなければならない。
机の上に置いていたアイスコーヒーを口に含み、興奮した神経を落ち着かせる。
とりあえず、今知ったことを千花に連絡しようと思った。彼女の意見も聞いて、次にどうするべきか考えるべきだろう。信用しきれない相手だが、彼女自身も狙われた以上、情報は共有しておいたほうがいい。
端末を取り出し、画面を操作する。数度のコールで、それは繋がった。
「あ、もしもし、佳谷間だけど……」
「――ごめん、今料理中で手が離せないんだ。あとで掛けなおしてもいい?」
「料理中? わかった。じゃあ一時間後くらいにまたかけなおすよ」
そういって電話を切ろうとした瞬間、千花が続きを述べた。
「――あ、穿くん、お昼食べた? ちょっと賞味期限ぎりぎりの食材がいっぱいあって困ってるんだけど、いっしょに食べない?」
「え、いいの?」
「うん。お父さんたち今日出かけててね、一人で昼食をとるのも寂しかったし、どうかな?」
「千花がいいなら、僕は構わないけれど」
「じゃあ、待ってるね。日輪出に大きなスーパーがあるでしょ。そこに迎えにいくよ」
肉を焼く鉄板の焦熱音が聞こえる。炒め物でもしているようだ。急に空腹感が溢れてきた。そういえば、朝から何も食べていなかったことを思い出す。
父は今日休日出勤で家にはいない。ちょうどいいと思い、僕はパソコンの画面を折りたたんだ。
4
千花の家は、随分と小奇麗な二階建てのアパートだった。
築五年程だろうか。彼女は階段を上ると、照れくさそうに通路の中ほどにある扉を開けた。
僕は埃ひとつないリビングを眺めながら、緊張した面持ちで料理が運ばれてくるのを待った。エプロンをつけた千花が、緊張した面でテーブルの上に皿を置く。先ほどの言葉通り、そのまま冷蔵庫にあったものを一緒くたに炒めただけの物だった。
「適当に作ったものだから、具材のアンマッチさはあまり気にしないでね。いつもはこんなんじゃないんだよ」
「いや、凄くおいしそうだよ。――頂きます」
僕は彼女が席に着くのを待ってから、箸を取りそれを口に入れた。
同じ炒め物でも、僕や父とはまた違った味付けだ。僕は中華風の味付けが多いのだけれど、千花のは西洋風な味付けだった。どんな調味料を使っているのか、少し気になる。
パクパクと口を動かす僕をにこにこと眺めながら、千花は満足そうに自分の箸を取った。
「ごめんね、つき合わせちゃって」
「いいよ、昼飯代が浮いたし」
カラスの声が窓の外から聞こえる。結局、夕方まで居座ってしまった。境和研究所と献体契約サービスの話を伝えるだけのつもりが、なんだかんだ雑談に花が咲いてしまったのだ。
玄関を開け外に出ると、千花が真剣な表情を作った。
「その、研究所については、私も調べてみるね。穿くんの言う通り、すごく怪しいと思う」
「僕ももっと情報を集めてるよ。本当に本田克己の遺体が献体として持ち込まれたのか、まだ確証はないからね。……でも、慎重に調べよう。‶触れない男〟は誰かを探していたみたいだった。変にちょっかいを掛けて、怪しまれるのは避けたいんだ」
そういうと、千花は神妙な顔で頷いた。
「……じゃあ、何かあったらまた連絡してね。お昼くらいだったらいつでもご馳走するから」
「期待してるよ。次は麺類が食べたいかな」
「いいよ、任せて」
冗談のつもりで言ったのだけれど、彼女はそれを言葉通りに受け止めたようだ。僕は苦笑いを浮かべつつ、そのまま歩き出そうとしたのだが、ちょうど階段の方からアパートの住人らしい中年女性が姿を見せた。
僕は後ろに避けようとしたのだけれど、すれ違いざまに僅かに当たってしまい、彼女が持っていた鍵が落ちた。
「あ、すいません」
慌てて謝り、それを拾って渡すと、女性は人の良さそうな顔でお礼を言った。
「あら、ありがとう」
「こんにちは」
お隣さんなのか、千花が軽い会釈を浮かべる。女性は僕を値踏みするように見たあとに、悪戯っぽい笑顔で話しかけてきた。
「あらあら、千花ちゃんの彼氏さん? かっこいい子ねぇ」
「ち、違いますよ。ただの同級生です」
若干照れたように千花が慌てる。別になんとも思っていなかったのだけれど、千花のその反応に何だか僕まで恥ずかしくなってしまった。
「千花ちゃん、いっつも興味ないとか言ってるのに、ちゃっかり相手がいるじゃないの。もう」
「だから、違うっていってるじゃないですかぁー」
女性がしつこく弄ってくるので、千花は困ったようにむくれてみせた。
「もう、じゃあね、穿くん。また明日学校でね」
てれを隠すように扉を閉める。いつもと違うその態度が妙に新鮮だった。
「あらあら、うぶねぇ」
いかにも世間話が好きそうといった表情で、クスクスと笑う女性。何だか捕まったら話が長くなるような予感がして、僕はすぐに立ち去ろうと思ったのだが――
「どこの子なの? 高校生?」
「あ、同じ学校の生徒です……」
あっさりと捕縛されてしまった。
「いいわね。一番楽しい時期だよねぇ。羨ましい」
ここで千花との関係を否定すれば、また面倒な悶着が起きてしまい時間が余計にかかる。僕は女性の勘違いを解くことはせずに、適当に話を合わせて逃げる算段をした。
「お姉さんも、まだまだ全然お綺麗じゃないですか」
「あらあら、そういうお世辞は別にいいのよ~」
口では否定しつつも、まんざらではないようだ。僕の台詞を聞いた途端、若干女性の表情が緩くなった。
「彼女とは、随分仲がいいんですね」
普通引っ越してすぐの隣人なんて、まったく顔も知らないような場合がほとんどなのに、千花とこの女性は親戚のように親しげに振舞っていた。よほどコミュニケーション能力の高い女性なのかと思ったのだが――
「そりゃあ、一ヶ月半もお隣で暮らしていれば、仲良くもなるわよ。あの子は一人みたいだし、何だか心配になっちゃってね。無駄におせっかいをかいっちゃってね」
僕は一瞬、女性の言葉を聞き間違えたのかと思った。
「一ヶ月半……?」
「ええ。最初はちょっと無口だったんだけどね。何度も挨拶を重ねるうちに段々話してくれるようになって……」
千花が転校してきたのは、僕がこの町に来た後。日数的にはまだ一週間と数日しか経過していない。
それなのに、それなのにこのアパートに一ヶ月以上前から住んでいる? 一体どういうことなのかわからなかった。
「――いえ、僕も彼女と初対面のときを思い出して。人見知りするタイプなんですかね」
「そうかもしれないわね。あの頃の千花ちゃんからは、今の姿なんて想像できないもの」
「あなたは、どこまで聞いているんですか?」
「そうね……ある程度はね。亡くなった両親のこととか、頑張って一人で生きていこうとしていることとか……。そんなに詳しい事情は知らないけれど、今の千花ちゃんの状態については理解しているつもり」
あくまで現在の千花がここで生活する上での、最低限の境遇のみ知らされているということか。はたから見て彼女が独りで暮らすことが納得できる程度の。
千花の部屋の方をちらりと見ると、廊下に面している窓が僅かに開いていた。あまりここでこの女性と長話をするのは、宜しくはないだろう。
僕は何気なく上を見上げてみた。すると、つられて女性も顔を上げる。
「あら、どうしたの?」
「ちょっと蟲が飛んででたもので……あ、何かたれてますけど、大丈夫ですか?」
女性の持っているビニール袋の内側に浮かんでいる水滴を指さす。彼女はそこを見ると、ぎょっと口元を縦長にした。
「あらやだ、卵が割れちゃったみたい」
「早くふいたほうがいいですよ。この時期すぐに悪くなりますから、野菜にも掛かってるみたいですし」
「あらあら、どこかにぶつけたのかしら、まったくいつのまに……」
口元を隠すこともなく、女性は大きなため息をはいた。せっかく運んできた買い物が損傷していたことが、よっほどショックだったらしい。普段家事をやることも多いため、気持ちはよくわかる。割ったことに少し申し訳なさを感じた。
女性は最後に「千花ちゃんを大事にね」と笑いかけると、いそいそと隣の部屋の中に消えていった。
家に向かって海沿いを歩く。
道路は海面より高い場所に位置するはずなのに、まるで海面がせりあがっているかのように錯覚して見える。波の上に反射している光は、橙色と桃色の中間を右往左往するようにきらめいていた。
そういえば、不思議なことにこちらに来てから夕焼けばかりみている気がする。部活をしていないから、帰る時間帯がちょうど夕暮れ時とマッチするせいだろうか。それとも、カナラの姿を目撃したせいで意識してしまっているのだろうか。この時間は、昔は彼女との時間だったから。
信号の前に出たので足を止める。横にはどこかの企業が所持している工場へと続く道があった。どことなく、その道は僕と千花が‶触れない男〟に拉致されたときの道に似ていた。
彼の噂が広まるようになったのは、僕が転校してくる数週間前だ。だが、実際に行方不明者や目撃情報が出始めたのは一ヶ月ほど前。
千花がこの街に来たのも、一ヶ月ほど前……。
僕には、この二つの事実がとても無関係には思えなかった。
父の転勤に付き合って引っ越してきただけだったのに、何故かどんどん状況がおかしなことになっている気がする。
潮風が地面の上を走り、足元を撫でる。夏とは思えないような冷たさに、思わず身震いしてしまった。反射的に海面を見ると、今まさに夕日が沈みかけているところだった。
どこからが太陽で、どこからが海なのか酷くあいまいな光景。僕は境界を見極めようしてみたが、はっきりしないままに、日の光は海の向こうへと消えてしまった。