第十章 死者
1
霧が晴れたかのように、意識が覚醒する。
まるで深い水の底から地上に飛び出したような感覚だった。
目の焦点が目の前の物体――‶触れない男〟の瞳と交差した瞬間、僕は首元に強い熱と痛みを感じ、思わず悲鳴を漏らした。
肋骨から首元にかけて、蛇がのたうち回った跡にも似た焼け跡が続き、ちょうど肩の上で‶触れない男〟の指が止まっている。
――そうだ、僕は……――
記憶がようやくはっきりしてくる。
僕は隣で座り込んでいた千花の手をとり、後ろへ飛びのいた。
すぐに追撃がくるかと思ったけれど、‶触れない男〟は動かずにその場に固まっていた。悪夢の再来を見たがごとく虚ろな表情を浮かべている。
今のは、今見た記憶は、経験は、一体何だったんだ?
僕がサラリーマンになって、そして……
謎の脳病によって死んだ、あの男――本田克己。今の経験は、あれは‶触れない男〟のものなのか? 何で突然そんなことが……。
記憶を盗み見るというよりは、自分が‶彼〟そのものになって、その経験を追体験していた。苦しみも、痛みも、悲しみも、全てはっきりとした実感をもって認識することができた。
こんなことがありえるのだろうか。
僕が混乱の極みに達していると、短く千花が声を漏らした。
「い、痛い……!」
「あ、ごめん」
動揺のあまり強く握りすぎていたらしい。僕は咄嗟に手を離し、千花を自由にした。彼女は苦痛を和らげようと自身の指に息を吐き、片手で包み撫でる。その様子をみて、僕ははたと気がついた。
あの記憶を見たのは、経験したのは、千花に触れた瞬間だ。‶触れない男〟と拳を交えようとした間際、僕の指は彼女の手に乗った。カナラの記憶を持つ彼女の手に。
「千花は、今の見た?」
「今のって?」
「今の記憶だよ」
僕が多少強く言葉を吐くと、千花は目を二度瞬まばたかせた。
「記憶って……まさか、穿くんにも見えたの?」
「――……うん」
頷き、肯定する。
やはり、そうなのか。
今の反応、彼女がこういった経験をするのは初めてではないのかもしれない。あまりに驚きが少なすぎる。
記憶を覗く。
つまりそれは、他者の精神に介入するということ。
人を寄せつけず自由に行動を操っていた、カナラのように。
やはり、何らかの繋がりがあるのか?
僕は千花にそれを確かめたかったのだけれど、砂を擦るような音が前方から響いたため、はっと顔を上げた。
「何だ今のは? 何をした!?」
膝を伸ばした‶触れない男〟の目には、強い不快感と不信の色が浮かんでいた。あちらが今の現象をどのように感じたのかは知らないが、相当お怒りのようだ。強く足を踏み込み、砂から煙を立ち上らせている。
僕たちはじりじりと後ろに下がりながら、背後の車の裏に回ろうとした。
‶触れない男〟は目ざとくそれを目で追い、頭に当てていた腕を下ろす。
「……嫌なものを、思い出させやがって」
憎憎しげに喉を震わせながら、足を強く地面にめり込ませた。かすかに煙があがり、地面がほのかに赤く熱を持つ。
僕は千花の手を引き、背後の車の裏に回ろうとしたのだが、回りきる前に‶触れない男〟の手がそれを滑り飛ばした。
さながらボーリングの玉のように、僕の数倍もの大きさの車が猛烈な速度で突き進む。壁にぶちあたり蜘蛛の巣のようなひび割れを刻んだところで、それはようやく動きを止めた。
人が物体を動かすとき、それが重ければ重いほど物体は深く地面に沈みこみ強い摩擦を生む。しかし、最初いくら動かしにくくとも、一度移動を始めてしまえばその重さが助けになって、摩擦抵抗の影響を受けずにスムーズに動かすことができる。‶触れない男〟は摩擦を操作することで、押し始めから全力で物を突き飛ばすことができるようだった。
僕は息を呑んだ。
これでは今までのように車の背後に回ることは、かえって危険である。彼がその気になれば、周囲の全ての車を僕たちに向かって放つことができる。それは巨大な鉄塊を撃たれているのも同然だ。
やはり直接‶触れない男〟の動きを止めるしかない。
体中の繊維を後ろに向かって引っ張られているような気分だった。
いつでも蟲喰いを起こせるように用心したまま、僕はその場に踏みとどまった。
その様子を目にした‶触れない男〟は静かに口角を引き上げる。
「心配するなよ。足の腱を壊すっていっても、スタンガンで気絶している間に事は終わる。それなら怖くないだろ? ――いいかげん諦めろよ。お前のそれは確かに怖いけどさ、要はナイフを持っているだけのガキと同じだ。切っ先にさえ注意すれば問題無い。足の速さじゃあ、圧倒的に俺のほうが上なんだからな。……それに、お前に俺を殺す度胸はないはずだ。さっきも当てることができたのに、何も起きなかった。人殺しになる覚悟がないんだ」
痛いところを突かれ、僕は歯軋りした。
彼の言ったことは全て当たっている。僕は、どうあってももう人殺しを行うことはできない。それは別に正義感を振りかざしているわけでも、自分の手が汚れることを畏れているわけでもない。勝手に身体が動かなくなるのだ。
殺すと意識してしまった瞬間、手が、足が、意識が動きを止めてしまう。
間違いなく、それはトラウマとなっているあの出来事が原因だった。
突き出した腕。
押された身体。
飛び散る血。
泣き叫ぶ、声――
僕は呼吸を荒くして、必死に手の震えを無くそうとしたが、一向にその振動は収まらなかった。
やるしかないんだ。
やらないと、僕も千花もあとがない。
あいつに連れて行かれてどうなるかはわからないけど、まともな人生は絶対におくれなくなる。先ほどの台詞……もしかしたら、解剖されるかもしれない。喰われるかもしれない。そんなのはご免だ!
そうだ、心臓に当てなければいい。
致命傷を与えなければいいんだ。
足にダメージを与えれれば、それだけであいつは僕たちを追えなくなる。
動脈さえ傷つけなかったら、死ぬことなんてないはずだ。
頭ではそう理解していたけれど、実際に意識を集中してみれば、まるで蝋で固められたかのように身体は動かなかった。
自分の呼吸が、心臓の音が、‶触れない男〟の足音が、ゆっくりと印象的に、圧迫的に、静かに僕の精神を蝕んでいく。
怖い。
怖い……!
くそ、くそ……!
動揺がピークに差し掛かる。
今手を出さなければ間違いなく負ける。負けるんだ……!
焦点の定まらない目で腕を振り上げる。‶触れない男〟が冷笑するようにこちらを睨めつけた。
僕は右足を強く地面に押し付け、身を投げ出そうとした。強引に押し出そうとした。
そんな状態で対峙したところで、ろくな結果は生まないことはわかっているはずなのに。
覚悟のない行進。
恐怖にあふれた小蟲のような抵抗。
自ら死に向かって突き進もうとしたまさにその瞬間。
――ふわりと、千花が僕の肩を叩いた。
2
首元よりも僅かに長い黒髪。
桃色の、ぎゅっと結ばれた唇。
まつげの長い、不自然なほどに澄んだ目。
、こんな状況だというのに、僕は思わず彼女に見とれてしまった。その姿があまりに凛として、美しかったからだ。
「大丈夫、穿くん。嫌なことを無理にする必要はないよ。今ので私、思いついたことがあるんだ」
「思いついたこと?」
千花が僕の顔の側に唇を寄せ、一つの提案をする。その案を聞き、僕は我が耳を疑った。まさか、彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったからだ。
これまで何一つ‶触れない男〟と関わりが無く、偶然巻き込まれただけの女の子だったはずなのに、気丈に振舞って僕を責めずに冷静に行動してくれている。そんな彼女を見て、僕は情けなさを感じると同時に、酷く心が落ち着くのが分かった。
息を吐き出しながら右手の掌を上に向ける。親指で下からその他の指をなで上げ、どのようにその作戦を成功させるか、思考を巡らせた。
それを諦めだと悟ったのか、‶触れない男〟は満足したように肩の力を抜いた。
「そうだ。生きている以上、どうにもならないこともある。……俺はな。あの日々が嫌で仕方なかった。毎日毎日、機械のように働いて、生きる目的も意思もなく、ただただ日々を浪費しているだけだった。頭痛が酷くなるにつれ、恐怖を感じながらも、本当は期待していたんだ。これで楽になれるかもしれない。これで、このゴミみたいな人生を終えられるかもしれないってさ。時には、諦めることも救いだ。諦めることで、救われることもある」
説教でもするかのように言葉を綴つづりながら近づいてくる‶触れない男〟。
僕は軽く千花の服を引き後ろに下がらせた。彼女は僕の動きに戸惑いを見せたのだけれども、僕が小声で指示を出すと、すぐに理解し引いてくれた。
「毎日女の子の尻を追いかけることが救いなんですか。とてもそうは思えませんが」
「これは必要なことなんだ。彼女の協力が得られれば、俺はこれ以上こんなことをしなくて済む。自由に生きれるようになる。だから、これが最後の仕事なんだよ」
‶触れない男〟は自嘲するように、下を見て軽く笑った。
「あなたは……あの本田克己なんですか? 記憶の中であなたは確かに死亡していた。今のあなたは……一体何なんですか」
「だからさぁあ、ついてくれば全て教えてやるって。普通のサラリーマンだった俺が、何でこんなことをしているのかも。何故こうなったのかも、な」
どうあっても今この場で情報を漏らしてくれる気はないらしい。僕は仕方がなしに、千花の提案した作戦を実行する用意を始めた。
‶触れない男〟は膝を僅かに屈ませ、右足を前に伸ばす。じゅうっという煙の立ち上る音が、そこから舞い上がった。
今現在、僕と千花の周囲に廃車は無い。‶触れない男〟がこちらに危害を加えるためには、直接自分の手で触れるしかない。
あの摩擦操作によって高熱を起こされれば確かに深い傷を受けるだろうし、痛みも激しいかもしれないが、直接的な殺傷力と破壊の広がる速度では圧倒的にこちらが上なのだ。
口ではああ言っているが、彼は僕のこの現象を畏ている。普通に考えて、直進してくるようなことはないだろう。だとすれば、考えられうる彼の次の行動は……。
目の前の‶触れない男〟の姿がいきなり消える。
僕が咄嗟に左を向くと、辛うじて彼の服の一部を視認することができた。
攻撃の浸透する速度ではこちらが上。だが、肉体そのものの移動速度は圧倒的に向こうが勝っている。
僕は‶触れない男〟の姿を探すことを諦め、右手の塀の側へ駆け込んだ。迫ってくる方向を制限しようとしたのだが、その前に背後から強い風が押し寄せた。
彼が欲しいのは千花。つまり、最優先で危害を加える対象は僕になる。
その予想通り、‶触れない男〟は千花を突き飛ばし、未だ背後をむいている僕の肩に向かって手を突き出した。横目で辛うじてそれが見える。
腕さえ押さえてしまえば蟲喰いの影響は受けないと判断したのだろう。僕は左腕を捻ねじるように後ろに引かれ、右腕の付け根を強く握り締められた。やつは両手の筋を摩擦で削り取るつもりなのだ。
「――っう……!」
僕は全身に鳥肌を立たせ息を呑んだ。
弱い痛みが掴まれた皮膚に走り、段階的に大きくなってく。既に皮は溶けだし、血が滲み出しているようだった。痛みに肉が悲鳴をあげ、波のような熱烈な痛みが脳髄へ駆け上がってくる。
暑いとか、痛いとか考える間もない。ただ恐ろしい量の衝撃だけが、意識を押しつぶそうと充満する。
こんなもの、耐えられるわけがない。
僕はあまりの痛みに悲鳴を上げかけたのだが、その直前、‶触れない男〟が大きく仰け反り、手を離した。
霧のように舞った血の中で、驚いたようにに自分の腕と胸を見ている。
息を止めたまま振り返り、腰を回す勢いで拳を前に伸ばす。これが最後のかけだった。
この蟲喰いという現象を発生させるための起点は、手に限らない。やろうと思えば身体のどこからでも発生させることができるのだ。直接相手の体内に発生させず、最初から現象を外に作っておくことで、相手は勝手に痛みを感じ最低限の損傷で身を引く。‶触れない男〟の摩擦を起こす手を見て咄嗟に浮かんだ方法だった。
彼の目を見つめ全力で腕を伸ばす。腕の傷を見た‶触れない男〟は僕の蟲喰いを恐れて一気に後方へと滑り下がった。辛うじて彼の服の一部が宙に舞う。
いくら足が速かろうと、いくら物理的推力を低減させられようと、僕の蟲喰いだけは無効化できない。そしてその現象は、近距離ならば僕の周囲三百六十度どこにでも発生させることができるのだ。
この状況で‶触れない男〟が行う行動は一つしかなかった。
ずっと僕のそばにいた千花が、今は一人で後方の地面に手をついている。‶触れない男〟は瞬く間に彼女の背後に回ると、その首を腕で強引に固めた。苦しみに喘ぐ声が、千花の口から漏れる。
元々彼の目的はある少女を捕らえることだった。僕という邪魔者を排除することに失敗した以上、残された道はそれしかなかったのだろう。
「おいおいおい、何だなんだぁ、やっと殺す覚悟が出来たってか?」
腕の傷から血を滴らせながら、唾を飛ばす。
「でもまあ、これで俺の勝ちだ。考え方を変えるのが遅かったな。この女さえ手に入れば、あとはもうどうでもいい。さっさと帰らせてもらうぜ」
反撃された悔しさと、得物を捕らえることの出来た喜びとが混じった複雑な笑みを浮かべる。それはどこか、自虐めいた表情だった。
だが千花を奪われるという最悪な結末を前にしても、僕は酷く冷静だった。
その場に留まったまま息を大きく吸い込み、肺を満たす。身体が酸素の侵入を歓迎している気がした。
「僕は……あなたを殺さない。ただ、追い詰めるだけです」
「はあ? 何言ってるんだよ」
「ただの女の子だからと、油断しましたね」
突如、‶触れない男〟の体が大きく痙攣した。目を見開いて口を上空に向ける。複数の風船を同時に割ったかのような歪な炸裂音が、数度周囲に響いた。
「あっ、がっ――!?」
短い悲鳴と苦悶の声。
痛みに立つこともままならないのか、‶触れない男〟は目をぐるぐる回しながらその場に崩れ落ちる。
拘束から逃れた千花はすぐさま僕の横へ移動すると、手に持っていた黒いY字型の機械を握り直した。先ほどの僕の伸ばした腕は、‶触れない男〟本人を傷つけるのではなく、彼のポケットを裂いてこれを取り出すことが目的だったのだ。
‶触れない男〟の口元には泡のようなものが浮かび、倒れてもなお痙攣を続けている。
流石に心配になったのか、千花は口元に手を当てた。
「な、何か穿くんのときより反応が激しいような……」
倒れている彼の体の周囲では小さなスパークがいくつも起きている。それは小人が花火大会を開催しているようですらあった。
「摩擦は周囲の空気に電荷を溜め込むっていうし、その影響かな。この人の周りにはそうとうな電気が集まっていたのかもしれない」
適当な推測を僕は述べた。
「……――く、そ、この、ふざけんなよ……!」
自分の腹部を押さえて丸まりながら、‶触れない男〟は震える腕を前に伸ばした。泡を吐き、強力な火傷の傷みとショックに苦しんでいるというのに、信じられない執念だ。
「そ、その女が居れば、目的が達成できるんだ。やっと見つけたのに、こんなとこで……!」
「何でそこまで……」
僕は下がることも忘れて彼の動きを見つめた。
「俺はこの身体になって救われた。ただ無意味に日々を過ごすんじゃない。目的をもって行動できる喜びを思い出せた。その女がいれば、もう一度人生をやり直せる。全てを取り戻せるはずだったんだ……!」
彼の手首が僕の足元の砂を強く握り締めた。
僕は僅かに躊躇いを憶えたものの、その気持ちを押さえ込み、千花からスタンガンを受け取った。
「あなたがどんな目に遭って、どんな理由があってこんなことをしたのか知らないけれど、僕たちには関係ない。もう、これ以上関わらないで下さい」
屈みこみ、スタンガンの先を‶触れない男〟の首に当てる。数秒電流を流すのが普通の使用法らしいが、この分では一瞬だけでいいだろう。意を決して指をトリガーに乗せる。冷たいプラスチックの感触は、蟲喰いを起こすよりは何倍も気が楽だった。
どうあがいても勝ち目がないことを悟ったのか、‶触れない男〟はそのままの格好で僕を見上げた。
「くそっ……! お前はその女の価値を何も分かっていない。俺といっしょに来れば、本当の意味で生きる目的を――」
彼が言葉を言い切る前にスイッチを押す。青白いスパークが横一文字に走り、皮膚から血管に、そして血液を通して脳へと電子の刃が走り抜ける。
――直後、‶触れない男〟の手から力が抜けたのが、わかった。
3
あれほど恐ろしかった‶触れない男〟も、こうして寝ていれば普通の人間だ。
白目をむいて転がっている彼の姿を見つめ、僕はようやく、危機を乗り過ごせたことを理解した。
「この人、どうするの?」
少し離れた位置からこちらを覗くように千花が聞いてくる。僕は後ろのポケットから端末を取り出し、彼女に見せた。
「不審者に襲われたって、警察に連絡しよう。皐月さんのときにこいつの指紋は入手されてるはずなんだ。一度でも犯罪者として警察に目をつけられれば、指紋も顔のデータも全部記録されるからね。それでこの人が何者か分かればいいんだけど」
摩擦操作などという、オカルトちっくな現象を起こせること、自分のことを一度死んだと認識していたこと、千花――カナラかもしれない誰かを追っていた理由。その全てが明らかになるかは微妙だけれど、少なくとも少しは手がかりが得られるはず。
彼は元々そういった事態を避けるために、都市伝説などというものを利用し、自身の正体を警察の目から逸らしていた。彼の噂が広がるきっかけとなった警官に手を出さなかったのも、同じ理由からだろうが、これで全て終わりだ。
たとえ何らかのきっかけで逃げ出すことが出来ても、警察は彼を追い続ける。僕は最善までとは言わないまでも、ある程度納得のいく結果に終わったことに満足し、胸を撫で下ろした。
「……警察へ連絡するのは構わないけれど、私たちはここを離れたほうがいいと思う」
「え、何で?」
「穿くんは、例の発火事件とか瑞樹さんの誘拐未遂とか色々と関わってるでしょ。さらにこんな事件に関与したってなれば、余計な詮索を受けることになると思うよ。警察に‶触れない男〟のデータを渡すだけなら、別に私たちがいる必要はないんじゃない」
「まあ、言ってることはわかるけど」
彼女は本当にただの高校生なのだろうか。あまりにも冷静過ぎるその言葉に、僕は不信感を積もらせた。
千花は疲れたような顔で眼下の‶触れない男〟を見つめる。その表情が少し気になったので、僕はすかさず質問した。
「どうしたの?」
「この人、本当になんだったのかな。あのとき見えた記憶……」
「あのサラリーマン時代のやつ? フィクションでよくある九死に一生を経て超能力に目覚めたってやつなのかな。何で君を捕まえようとしたのかは謎だけれど」
「違う。そうじゃないの。穿くんは見てないの?」
「何を?」
彼女の意図していることが分からず、僕は首を傾げた。どうでもいいけど、首元の傷が結構痛い。病院にいくべきなのだろうか。それほど深くはないと思うけど。
「この人…この人の中には、あのサラリーマンの他にも記憶が見えた。女の人や、中学生くらいの子供の記憶まで……。一番はっきり見えたのはやっぱりこの人のだけど」
「……何を言ってるの?」
「この人、変だよ。見た目は一人の男性なのに、まるで頭の中に何人も別の人が住んでいるみたい。凄く気味が悪い」
「何人も……?」
僕が見た記憶はあの本田克己という男のものだけだ。ショックで千花がおかしくなったのかと思ったものの、すぐに考えを改めた。
記憶を覗くとうあの現象は、僕が彼女の手に触れたことで起こったものだ。もしかしたら千花は、僕以上に深くまで‶触れない男〟の精神に介入していたのかもしれない。そう考えれば何となく言っていることも理解できる。
でも、もしそれが本当だとして、彼の頭の中に複数の人間の記憶があるとは、一体どういうことだ?
頭を悩ませていると、伸びるような警報の音が聞こえてきた。パトカーが来たのだ。僕は思考を中断し、組んでいた腕を下ろした。
「またあとで話そう。――……もう行こう」
廃屋の裏手に回り奥を覗く。ずっと木々が続いていたけれど、少し先に標識のようなものが見えた。あそこまで行けば道路には出れそうだ。
〝触れない男〟を一人この場に残すことに若干の躊躇いを覚えはしたが、流石にあの傷では警察の到着までに目を覚ますことはないだろう。
しばらく歩いてから反対側の道路に目を向けると、パトカーの警告灯がくるくると明るく輝いていた。
4
教育棟最上階。狭く小さな屋上。そこに立てられた今にも風に吹き飛ばされそうなプレハブの扉の前で、僕は中庭を眺めていた。
ずっと寄りかかっていたためか、柵の上で体重を支えていた腕が痛い。僕は支点の位置を変え、再び目を下に向けた。
まだ放課後になったばかりなので、多くの生徒が行き交い、談笑や掃除などの付加活動を行っている。
反対側にある専育校舎の壁面に取り付けられた時計を見ると、現在は十五時四十分。クラス担任によっては、まだホームルームが終わっていない教室もあるはずだ。何か予定があるわけでもないから、僕は気長に千花を待つことにした。
入部こそしていないものの、情報収集という目的のため頻繁にオカルト研究部を訪れていたせいで、僕は日比野さんから自由にこのプレハブへの出入りを許可されていた。外で千花を待っていたのは、単純に風や自然の空気を吸いたかったからだ。
日比野さんは今日、歯医者に行くためここに来ることはない。千花とじっくり話すには、まさに場所もタイミングもうってつけだった。
さらに十分ほど時間を潰し、そろそろ中に入ろうかと思い始めたところで、彼女はやってきた。
いつもと違い、シンプルな白いヘアピンで前髪の一部をまとめ、左耳を出している。そういえば結構髪が長くなってきたから、そろそろ美容室へ行きたいと話していたことを僕は思い出した。
「外で待ってたの?」
「何となくね。暇だったから」
「はいろー」
シャツの端を引っ張って整えながら、はにかむように彼女はそう言った。
プレハブの中、いつもと同じ椅子を引きそこへ座る。千花も鞄を丁寧に壁際に置き、僕の向かいへ座った。
「なんか机が大きいから凄く遠く感じるね。ちょっと話しにくい、かな」
「資料をいくつも広げるために日比野さんが自分で作ったものらしいよ。基本的には一人で使うだけのものだったから、会議ならともかく、普段の会話をするには不便なんだ。だから日比野さんも僕や皐月さんが来たときは横に座るか、机の上に腰を寄りかけて話をしてる。あんまり行儀がいい真似ではないけど」
「ふ~ん。……じゃあ、私もそっちに行くね。なんかこれだと変に緊張しちゃうよ」
千花は立ち上がり、僕の右にある椅子へ座った。ちょうどいつも日比野さんが座っている位置と、水平に逆方向の席だ。
これはこれでなんとなく緊張するのだが、彼女が気にしてなさそうなので、口には出さなかった。
エアコンは設置されていないから、気温を下げるために窓と扉は全開になっている。女子生徒の高い笑い声と、部活動に励む野球部員の声が風に乗って聞こえてきた。
僕は椅子の背板に寄りかかり、前脚を僅かに浮かせて体重の全てを後方の二本へ移動させた。
「……それで、これからどうする?」
千花が落ち着いた声で尋ねた。
「あの本田克己が本気になれば、脱出するのは朝飯前だ。一度警察に目をつけられた手前、すぐに変な真似は出来ないだろうけれど、また襲ってくることも十分に考えられる。今の内にそのときの対処法でも考えておこう」
結局のところは一時しのぎでしかない。根本的な解決は何もしていないのだ。だが、彼の姿も、性格も、その怪しい現象も全て把握している以上、前よりは対策も打てる。僕は今後再び彼と遭遇する危険に備えるために、神妙な顔でそう言った。
千花は頷くと、ちらっとこちらを見た。目が合った途端、彼女は慌てて前に向き直る。
どうしたんだ?
僕が怪訝そうに見つめると、千花は両手を股の間に挟みこみ、恐る恐ると言った調子で顔を上げた。
「その、結局穿くんのあれ、何だったの? ロープをちぎったり、鉄柱を折ったり……。トリックを使ってって言う風には見えなかったけど」
ああ、やっぱりその話か。どこかで聞かれるとは思っていた。
僕は腕を組み、浮かせていた椅子の前脚を地面に付けた。
彼女はカナラと何らかの関係がある。証拠も根拠もなかったけれど、僕にはそうとしか思えなかった。だから、普段なら適当にごまかすところだったけれど、今後のことも考えて全て正直に話すことにした。
四年前に不審者に襲われたこと。
カナラという友人が居たこと。
何故‶触れない男〟が僕たちを狙ったのかも。
なるべく分かりやすく伝わるように努力し、僕は全てを話した。
千花は始めのうちは頷いたり相槌をうったりしていたが、そのうち僕の説明に聞き入るようになり、いつの間にか口を開いているのは僕だけになっていた。
5
一通り話し終えたところで、彼女はようやく口を開いた。
「……そっか。それで、いきなりあんな目にあったのにずっと冷静だったんだね。何だか普通の高校生らしくないから、びっくりしちゃった」
千花は驚いているように見えたけれど、どことなく落ち着きがあった。
普通だったらいくら実際に見たからといっても、こんな話はなかなか信じられるようなものではない。僕は彼女の態度にどうしても違和感を感じざるおえなかった。
「千花も随分冷静だったよね。あんなことがあったのに、けろっとした調子でこうして学校に来てるし、何の恐怖も感じていないみたいだ。何だかそういうことに慣れてるように見える。……僕の指が千花の手に触れた瞬間、‶触れない男〟の記憶が浮かんだ。しかも君はまるで、普段からそんな体験をしているような口ぶりだった。君は……一体何者なの? 本当にカナラと何の関係もないの?」
千花は僕の問いつめるような質問に対し、一呼吸の間を開けた。ちらっと僕の目を見たあとに、遠慮気味に話し始める。
「穿くんの言ってるカナラっていうのが誰のことかはわからないけれど、私には確かに穿くんと一緒にお出かけしてた記憶はあるよ。一緒に遊んで、絵を描いているのを眺めて……あの暴漢にも襲われた。これはまぎれも無い、私自身の体験。‶触れない男〟のときみたいに、盗み見たものじゃない」
「盗み見たって……」
千花は身体の向きを真っ直ぐ僕へ向けた。
「穿くんと同じように、私も小さい頃から変な出来事が良く起こってたんだ。怖そうな人が前から歩いてきて、遠くにいって欲しいって思ったら、急にその人が回れ右をしたり、道を曲がったり、‶触れない男〟のときみたいに過去の経験を追体験することもあった。でも、穿くんと違ってこれは私の意志では動かせないみたい。いつも偶発的に起こって、見る人も、見る経験も全て適当。半ば通り雨みたいなもののように感じてた」
「それって……」
僕の記憶の中にあるカナラの起こしていた現象そのものだ。記憶がどうのこうのっていうのは初耳だけど。
「もしかしたら、私のこの変な影響のせいで、穿くんの記憶が捻じ曲がってしまったんじゃないかな。……その、カナラっていう子の思い出と」
「そんな、そんなわけないよ。僕は確かにカナラと一緒に遊んだ。一緒に過ごした」
――むしろ、記憶に無いのは君との思い出だ。
僕は自分の気持ちが荒ぶるのが分かった。冷静に勤めようと必死に意識し、息を吐く。そんな僕を見て、千花は困ったように眉を寄せた。
「穿くんの記憶が見えれば、すぐにわかるんだけどね。憶えていなくても、記憶の中にはあるはずだから」
僕の記憶?
‶触れない男〟のときのように、まるで自分がその記憶の持ち主本人になったかのように、事実を体験する現象。あれがもし自分自身に行われたら。
僕は顔を青くして、その提案を否定した。
「それは、ちょっと遠慮したいな。色々と知られたくないこともあるし」
「え~なに? なんか悪いことでもしてるの?」
「いや、してないよ。そういうわけじゃない」
小悪魔っぽく笑う千花を見て、僕は慌てて否定してしまった。これではまるで何かあるといっているようなものだ。
だが幸いなことに、千花はそれ以上僕の事情に踏み入ってはこなかった。
「まあ、誰にでも一つや二つ見られたくないこともあるよね。心配しないで、ただの冗談だよ。そもそも、私の意志でどうにかなるものでもないもん」
冗談ぽっく片目を上げ口元をやわらげる。それを見て、僕も安堵のため息を吐いた。
彼女がああ言っている以上、少なくとも直接的にはカナラとの関係は無さそうだ。嘘を言っているようにも思えない。僕はひとまず千花の話を信じることにした。
目の前に小さな羽蟲が飛んできたので、片手で追い払う。しばらくしつこく付きまとってきたので、こっそりと蟲喰いを使用し、打ち落とした。
千花は開け放された窓の外に目を向け、夕焼けを眺めている。僕は彼女の横顔を眺めているうちに、ふと気になっていたことを思い出した。彼女の引越しの理由だ。
確か、父親の仕事の関係ということだったが、転勤かなにかだろうか。偶然この街に来て、僕と遭遇して、一緒にこんな事件に遭うなんて、何だか出来すぎているような気もする。普段はどことなく聞く機会が無かったかれど、今なら答えてくれるような気がした。
僕は興味本位と探りを入れるつもりで口を開きかけたのだけれど、ちょうどそれに呼応するかのようなタイミングで、プレハブの入り口から足音が轟いた。
「やっほー! 真希ちゃんいる?」
そう笑顔で踏み込んできたのは、日比野真希の親友、森原皐月だ。あの夜の誘拐未遂以降顔を見ていなかったので、僕は妙な気回しをしてしまい、咄嗟に答えることができなかった。
「今日は休みだよ。歯医者さんだって」
変わりに千花が応じた。
「そうなの? 残念ー」
花のような香りを散らしながら、慣れた動きでテーブルの上に腰掛ける。しばらく休んでいたと聞いていたが、もう大丈夫なようだ。彼女は前と変わらず明るい表情をこちらへ向けた。
「穿くん、久しぶりー。元気だった?」
「あ、うん。まあ一応」
何事もなかったように話しかけられたので、僕はぎこちなく微笑み返した。
皐月さんは僕と千花の顔を交互に見比べると、楽しそうに目を細める。
「穿くんって、意外と手が早いんだね。千花さん、まだ転校してきたばかりなのに、もうこんなところに連れ込んでるんだー? 真希ちゃんがいないのをいいことに……」
「え? い、いや違うよ。日比野さんに用があるっていうから……」
「歯医者に行くって知ってるのに?」
意地悪そうに顔を乗り出す皐月さん。僕は言葉の選択を誤ったことを酷く後悔した。
「穿くんは案内をしてくれただけだよ。私がプレハブの中を見たいっていったんだ。普段来るようなところじゃないからね」
見かねたように千花がフォローをしてくれる。彼女としても余計な詮索を受けるのは避けたいのだろう。皐月さんはしたり顔でこちらを見ていたが、千花の言葉を聞いた途端、飽きたように表情を戻した。
「……ま、そういうことにしておいてあげる」
どこか含んだような笑みを浮かべたまま、足を組みなおす。香水でもつけているのか、再びローズ系の匂いがかすかに鼻に届いた。校則違反のはずだけれど、まったく気にしていないようだ。彼女の制服は他の生徒たちのものと比べて、若干色っぽく改造が施されている。ネクタイの結び目や種類、それにスカートやシャツの袖など、よく見なければ分からない小さな工夫だ。普段は気にならないけれど、この距離ならはっきりと違和感に気がつくことができた。
僕がそんなどうでもいいことを考えていると、思い出したように皐月さんは手を叩いた。
「そうだ、二人とも聞いた? 昨日の事件の話」
「事件……?」
僕は思わずびくりとしてしまった。
「何かあったの?」
そ知らぬ顔で聞き返す千花。僕は関心しつつも、皐月さんの言葉を待った。彼女は自分の巻き毛から手を放し、机の上に乗せる。
「昨日の夜に不審者を移送中のパトカーが事故って、長浜一丁目の民家に突っ込んだらしいよ。かなり激しくぶつかったみたいで、相当な事故だったみたい」
不審者?
何だか妙な胸騒ぎがする。
「乗っていた人は大丈夫だったの? まさか、その不審者がやったってわけじゃないよね」
「一応警察の見解はそれぽっいこと言ってたけど、ホントかどうかはわからないなー。だって――」
風に押されカーテンが大きく揺れた。
「乗っていた人、全員死んじゃったんだもん」