【03】不気味なもの
西側に面する大きな硝子張りの壁からはビル群が窺えた。少し離れた場所には、セントラルパークの芝生が見える。
そこはマンハッタンのアッパーイーストサイドに位置する高層マンションの一室だった。
その窓際の応接でテイル・クーパー捜査官は、カッシーナのソファーに腰を埋めながら外の景色を眺めていた。
彼の対面のソファーには二十そこそこといった年齢に見える、いかにも金持ち然とした女が、リチャード・ジノリのカップの縁に唇をつけたところだった。
北欧系の顔立ちで、こちらも闇エルフに負けず劣らず、ぞっとするほど美しい。
カシミヤの白いチュニックにデニムというラフな格好で、三つ編みにした金髪をまるでティアラの様に結っていた。
彼女が白エルフこと、ミレス・ブレンダである。
しかし……。
「耳、普通ですね」
クーパーが窓の外に向けられていた視線を室内に戻して、そう言った。
彼女の耳は闇エルフのそれとは違い、人間とさして変わらない様に思えた。
女はカップを静かにソーサーに置くと、何事かを呟きながら両手で左右の耳をなでる。
すると、その一瞬で丸かった普通の耳が、長く尖ったエルフ族特有のものに変化する。
「うわお……」
クーパーの反応に女は、満足げに少しだけ唇の右端をつりあげる。
「認識阻害の魔法です。私達エルフはこうやって身元を隠してますの」
「それは、こっちの魔法?」
「そうです。こっちに来た者はまず、この魔法を覚えます。色々と便利ですからね」
「覚える? どこで、その魔法を?」
「それは教えられません」
きっぱりとミレスは言う。興味をそそられたが、深くは突っ込まず、クーパーは質問を変えた。
「それじゃあ、耳を触らせてもらっても良いですか?」
クーパーは身を乗り出すと右手を伸ばした。
「……どうぞ」
ミレスは少し迷ったのちに頷いた。
クーパーは、そのまま彼女の右耳を握る。
「ん……」
ミレスは少しむずかゆそうに、頬を赤らめて、されるがままになっていた。
「どうですか?」
「いや、本物ですね……びっくりしました」
目を丸くする彼を見て、ミレスはくすりと笑った。
「でも……エルフ相手に、あまり耳を触らしてくれなんて、言ったら駄目ですよ?」
「なぜです?」
「耳を触るという言葉や行為は、エルフ族にとってセクシャルな意味合いが含まれていますので……大抵のエルフは、突然そんな事を言われれば照れてしまうでしょうね」
「あ……」
クーパーは闇エルフのリアクションを思い出し赤面する。彼女も確かに戸惑い気味だった。
気まずそうに咳払いをする。
「そういう意味ではなく、単純な確認という事だったのですが……」
「わかってます。でも……やめた方が無難です」
「あー……」
クーパーは強引に話題を逸らしにかかった。
「確かご主人は、人間なのですよね? こちらの世界の」
「ええ。……私達、エルフ族は二十歳を越えると加齢による外見の変化が止まりますので、今は主人と並んで歩くと親子みたいになってしまいましたけど」
ミレスは口元に手を当てて上品そうに笑う。
そのあと彼女は、遠くを見る様な眼差しで手元のカップに視線を落としながら、感慨深げに言った。
「主人と出会えた事は幸運でした。本当に……」
「ご主人との間に子供は?」
「いません……」
と、ミレスは少しだけ表情を曇らせる。そこでクーパーは、自分の失言に気がついた。
「ああ……すいません。ご主人は人間でしたね」
ミレスは寂しげに微笑みながら首を横に振る。
「いえ。エルフと人間の間にも子をなす事はできますけど……エルフは寿命が人間の何倍も長い変わりに、繁殖力は人間に比べて極めて弱い種族なんです」
「そうなんですか」
「奇跡を願いましたが、結局、主人との間には、子供はいません。今のところ」
「本当に失言でした……重ね重ね申し訳ない」
肩を落とすクーパーの言葉に、ミレスは首を横に振り、明るい笑顔を浮かべた。
「いいえ。そんなに気にしないで。……それで、闇エルフさんからの紹介ですけど、本日はどういうご用件でしょうか?」
「ああ……ええ。えっと、いくつか質問があります。答えられる範囲で構いませんので」
「どうぞ」
「あなたは、異世界からこちらにやって来た。それで間違いはないですよね?」
「はい。間違いありません。こちらに着いたのは、ベルリンの壁が崩壊した年ですから一九九〇年ですね、確か……。発ったのは、向こうの暦で七〇一年の事でした」
「あれ?」
クーパーは首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「確か、闇エルフさんは異世界を向こうの暦で一〇二五年に発ち、この世界に一九七九年に着いたとおっしゃっていましたが……」
一方のミレスは、闇エルフより三百年近くも先に向こうを発ったにも関わらず、こちらに到着したのは十一年遅い。
「ああ。次元の穴は、それぞれの世界のどの時間のどの場所に通じているのかわからないんです。転移術を使っても、それを任意で選ぶ事は出来ません」
「なるほど。つまり僕が今、向こうの世界に行ったとして……あなたの産まれる前の時間に着くかもしれないし、あなたがこちらに来たあとの時間に着くかもしれない……という訳ですね?」
「その通りです」
白エルフは首肯する。クーパーは更に質問を続けた。
「では、次にあなたは、どうやってこちらの世界に?」
「偶然、開いた次元の穴に落ちてしまって」
「……これは興味本意の質問ですが、あなたは、元いた世界に帰りたいとは思いますか?」
ミレスは思案顔で少しだけ天井のスワロフスキー製の照明を見上げたあと、再びクーパーに目線を戻して言った。
「いいえ」
ミレスは左手の甲を、いとおしげになでながら目を細める。その薬指にはカルティエのエンゲージリングが輝いていた。
「……私は今とても幸福ですから」
「そうですか……」
クーパーは彼女の幸せの象徴が燦然と輝く左手を見詰めながら相づちを打つ。
「他には何か?」
ミレスが小首を傾げた。
「えっと、それじゃあ……」
クーパーは鞄の中から例の書物を取り出す。ローテーブルの上に置いた。
「これは、ある事件現場に遺されていたものなんですけど……」
ミレスは、そのビニールに入った書物を見た途端に大きく目を見開く。
「それは……」
「もしかして、心当たりがおありですか?」
「いいえ。……でもそれ漂流物ですよね? 手にとっても?」
「はい」
「では、ちょっと失礼します」
ミレスは、いったん離席するとシルクの手袋をはめて戻って来た。ソファーに座り直し、書物をビニールから取り出して綺麗にそろえた膝の上で開く。
目線を落とし、頁を開きながら言う。
「これ、イトー写本ですね……値打ち物ですよ」
「……それは、どういった物なのですか?」
「昔……向こうの世界の昔という意味ですが、日本からやって来たイトーという人物が、自分の故郷……つまりこちらの世界の日本の事をまとめた本です」
ちなみにそのイトーという人物は向こうの世界ならば誰でも知っている伝説の英雄で、十一人の妻がいたのだとか。
「自分の嫁でフットボールチームでも作るつもりだったんですかね?」
ミレスは「さあ」と苦笑して、書物を再びビニール袋に納めるとクーパーへと返却した。
「……早く犯人、捕まると良いですね」
「それが……実は、この事件の犯人……闇エルフさんに色々とお話を聞いて、わかってきたのですが、どうやら、向こうの世界……つまり異世界へと向かった可能性が出てきました」
「まあ……」
ミレスは口元を両手で押さえて、両目を見開く。そして、
「ならば、安心ですね」
と、言って心底、ほっとした様子で微笑んだ。
そのあとクーパーはミレスに別れを告げて、エレベーターでマンションの地下にある駐車場へと向かった。
車の鍵を開け、運転席のシートに身体を埋め、懐からスマートフォンを取り出した。
すると、父の葬儀で実家に帰っていた同僚のダイアナ・エヴァンスから、メッセージアプリに『電話が欲しい』とあった。
クーパーは通話ボタンをタップする。
受話口を耳に当て、何気なくルームミラーに目線をやった。
すると後部座席に不気味なものがうずくまっている事に気がついた。
それは、とても形容しがたく、おぞましい姿をしている。大きさは折り畳み傘を開いた程度だ。
しいて例えるなら蜘蛛とブリッジをした人間を掛け合わせた様な姿をしている。
クーパーが驚いて振り向いたところで、ソレが飛びかかってきた。
そこで、彼の意識は途切れる。
次にクーパーが目蓋を開くと、見慣れた部屋だった。
シンプルなデザインの応接ソファー、買い換えたばかりの三十二インチテレビとオーディオセット、わずかに埃のたまったブラインド。
ラックを重ねたカウンターの向こうに広がる綺麗なままのキッチン……。
ニューアーク市内にある、彼の自宅のリビングだった。
その中央に彼は立っている。
「え……は?」
クーパーは困惑しながら、見慣れた
部屋を見渡した。
すべては夢だったのか。
呆然と立ち尽くしていた彼は、そこでふと思い出し、慌てて自分の首元を触る。
すると、それは確かにそこにあった。
『これさえあれば、もう一度、会えるから』
あの闇エルフからもらった魔除けのペンダントである。
クーパーは、それを握り締めたままソファーの上に力なく腰を落とした。