【02】闇エルフ
ここではない異世界。
次元の穴からやって来る漂流物。
教授の口から語られる話は、すべて、にわかには信じがたいものだった。
しかし、クーパーはずっと気になっていた。
あのチェーンソー男とカリオンの山道で遭遇したトーマスの、『男の姿が青白い光に包まれて消えた』という証言だ。
もしかすると教授の話はすべて本当で、あの事件の犯人は、異世界へと逃亡したのではないか。
そんな突飛な考えが頭の中に浮かんで消えてくれない。
彼は思いきって教授に「何か証拠はないか?」と尋ねてみた。
すると教授は異世界から来た“闇エルフ”という人物を紹介してくれるという。
その人物ならば、くだんの書物を読めるかもしれないとの事だった。
異世界云々の話は置いておくにしても、あの書物が何なのか突き止めたいクーパーは、教授に教えられた住所へと向かう事にした。
翌日、クーパーはニュージャージーからニューヨークへと向かう。
車でハドソン川を渡り、そのままマンハッタン北東部のイーストハーレムへ。
スペイン語の看板がひしめく怪しい路地から少し奥まった場所に建つ、古いアパート前でエンジンを止めた。
クーパーは鞄を持って車から路上に降り立ち、今にも倒壊しそうな年代物のアパートの軒先を潜り抜けた。
かび臭い一階のエントランスホールから軋んだ音を立てるエレベーターに乗り、目的のフロアへ。
明滅する蛍光灯に照らされた薄暗い廊下を渡り、教授から教えられた部屋の前に辿り着く。
呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、ペンキのはがれた扉越しに女の声が聞こえた。
「誰?」
気だるげな声だった。
「グレッグソン教授からご紹介していただいたクーパーです」
そう言うと扉が少しだけ開いて、中から女が顔を覗かせる。
一見すると中南米系で、ぞっとするほど整った顔立ちをしていた。男なら誰でも、むしゃぶりつきたくなる様な身体つきをしている。
しかし、世界のすべてに絶望したかの様な疲れきった表情が、その美貌を台無しにしていた。負のオーラ。それが彼女の存在を侵食している。
紫のニット帽にピンクのキャミソールドレスという、少しちぐはぐな格好をしていて、首には革紐の首飾りをかけていた。
そのペンダントトップは二つの乳房の深い谷間に埋没しており見て取れない。
彼が身分証明書を見せると、女は黙ってドアチェーンを外した。
クーパーは、リビングへと案内される。
部屋の中は簡素だったが意外に片付いていた。
片隅のテレビには、古い映画のラストシーンが映っている。
画面手前から奥へと続く橋の上をゾンビの大群がねり歩いている。実に世紀末的な光景だった。
だが何故か真下の道路には沢山の車が普通に往き来していた。
「座って」
ぶっきらぼうにそう言われて、クーパーは室内の中央にある応接の古びた布張りのソファーに腰を下ろす。
「……で、教授が電話で言ってたけど……聞きたい事って?」
彼女は気だるげにそう言いながら、クーパーの正面に座った。
「まず、あなたの事は何てお呼びすれば?」
「闇エルフで良いよ。この世界に来てから色々な名前を沢山名乗り過ぎてね。本名なんて忘れちゃったし」
闇エルフはさして面白くもなさそうに言った。
「……他に質問は?」
「では、あなたは異世界から転移して来たという話ですが……」
闇エルフは、そこで不敵に微笑む。
「……証拠を見せろって?」
そう言って、紫のニット帽を脱いだ。そうして頭を振り動かし、髪の毛をかき上げて右耳をクーパーに見せる。
「……これは」
彼女の耳は、まるで映画の特殊メイクの様に長く尖っていた。
ここでクーパーは、ようやく教授から聞いた与太話を信じようという気になってきた。
「触っても、よろしいですか?」
その問いに闇エルフは似つかわしくない照れ顔で笑い、再びニット帽を被り直した。
「……カレシになった人以外には触らせない事にしているの」
「それは失礼しました」
クーパーは素直に引き下がり、質問を変えた。
「……あなたは本当に異世界からこちらにやって来たという事で間違いないんですよね?」
「だから、そうだよ。向こうを出たのは、あっちの暦で一〇二五年。こっちに着いたのは一九七九年。もうすぐ、年が明ければ、四十年目」
それが本当ならば、目の前の彼女は最低限、四十年以上生きているはずだが、クーパーの目にはとてもそう見えなかった。どうみても二十そこそこといった年齢にしか見えない。
「……それが、どうかしたの?」
「あなたは、どんな方法でこちらへと来たのでしょうか?」
「向こうで、そういう魔法を使える術師に頼んだの……転移術っていうんだけど」
「転移術ですか……それで二つの世界を自由に行き来できる?」
「できないね。一度、次元の穴を通り、漂流物となった存在は二度と漂流物になれないんだ」
「つまり、異世界転移は、一方通行という事ですか?」
闇エルフは首を縦に振る。
「そもそも、あっちの魔法はこちらでは使えない。多分こっちの魔法も向こうに行けば使えない。二つの世界の魔法の原理はまったくの別物なの」
さも当然の様に言われたが、この世界にも魔法が存在するらしい事にクーパー驚きを禁じ得なかった。
「それなら、これは、興味本意の質問なんですが……」
「何さ?」
「もし帰れるとしたら帰りたいですか?」
すると闇エルフはたっぷりと考え込んで言葉を選んだ。
「……帰りたいとは……もう、最近はあまり思わなくなったね。向こうには、ジントニックとチョコミントアイスがないから」
「あはは……なるほど」
クーパーが吹き出す。闇エルフも朗らかに微笑む。
ここでクーパーは疑問に思った。
なぜ闇エルフはこちらの世界へ来ようと思ったのだろうか。
真っ先に思いついたのは逃亡。
何らかの理由で向こうの世界にいられなくなった。
例えば、何かの犯罪を犯したとか……。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
闇エルフは黙り込んだクーパーを訝しむ。
「ああ。すいません……何の話でしたっけ?」
「向こうには、ジントニックとチョコミントアイスがないって話よ?」
「ああ、そうでした。あはは……」
クーパーは笑って誤魔化した。
「……まあ帰れないっていうのは聞いただけだから、本当は帰る方法も探せばあるのかもしれないけど……疲れちゃってさ、もう」
そこで闇エルフは、静かに時を刻んでいた壁掛け時計をちらりと見る。
「……あー、もう少し、あんたと話していたいけど仕事の時間まで、少し眠りたいんだ。質問がなければこれで終わりにさせてもらうよ……残念だけど」
「それなら、これを」
そこでクーパーは、例の書物を鞄から取り出して、闇エルフに見せた。
「……これは」
「ある事件現場から発見された物です」
「ある事件って……もしかして、カリオンの?」
クーパーは目を見開く。
「なぜ、そう思ったのですか?」
教授にも結局、この本は『ある事件の証拠品』としか説明しなかった。
「それを答える前に、ひとつだけ聞きたいんだけど……」
「何でしょう?」
「あの事件の犯人は、まだ捕まっていないんだよね?」
「ええ。ですが、あなたの話が本当ならば例の犯人は異世界へと逃亡した可能性が高いと考えられます」
クーパーは、トーマス・デュデュクが目撃した犯人の不可解な消失について話した。
すると闇エルフは、安堵の表情を浮かべる。
「それは多分、意図的に何かの手段を用いて逃亡したんじゃなくて、自然に発生した次元の穴に落っこちたんだろうね」
「そうですか。それは、困りましたね。異世界は流石に我々の管轄外ですよ」
「あはは。違いないね」
クーパーが肩をすくめて笑う。闇エルフも笑った。
そして、再び時計に目線をやりながら言う。
「なぜ、あたしがこの本を見ただけで、あの事件と関わりがあるとわかったか……だったよね?」
「ええ。是非ともその理由を教えてください。それから、できれば、この本の内容も」
クーパーは真摯な表情で訴えかける。
「申し訳ないけど、多分、長い話になる。だから、できれば日を改めたいんだけど構わないかな? 犯人が異世界へ逃げたなら、もう手の打ちようがない。急ぐ必要もない……違う?」
「ええ……まあ。本当にそうなら」
「代わりといっちゃあ何だけど、向こうから来た白エルフを知っている。紹介するから、本の内容については、そいつに聞けばいいよ。いけすかないヤツだけどね」
「ありがとうございます」
「それから、これを」
闇エルフはソファーから腰を浮かせる。
そうして、深遠なる胸の谷間よりペンダントトップを引き上げ、そのままクーパーの首にかけた。
「これは?」
「魔除けだよ」
それは、二十五セント程度のメダルだった。
中央に穴が空いており、そこに革紐が結ばれている。
穴の周囲には、見た事のない記号がいくつも刻まれていた。
「魔除け?」
「これさえあれば、もう一度、会えるから」
「いったい何を……」
闇エルフは、その問いに答えずに鹿爪らしい顔で言う。
「……それから、わかっていると思うけど、異世界の話は大っぴらにしない方がいい。どうせ、誰も信じない。狂人扱いされる」
「はあ。あなたの耳を見れば、みんな信じるのでは?」
クーパーの言葉に闇エルフは鼻で笑う。
「試しにあたしの事をYoutubeやインスタグラムにアップしてもいいよ。でも、必ず嘘だという事にされる」
「あはは。されるって、誰にです? JFKを殺した連中ですか?」
クーパーが冗談めかして言う。
しかし、闇エルフはにこりともせずに、ひと言。
「警告はしたからね?」