【13】伝説の武器
ロザリアは苔むした岩壁に右手を添わせ、慎重な足取りで滝の裏の足場を渡る。
できるものならば一気に駆け抜けたかったが、そうすれば確実に足を滑らせてしまうだろう。
気ばかりがはやり、焦燥感が募る。
滝のお陰でチェーンソーの音は聞こえない。
一旦、足を止めて首を捻り、背後の様子を確認した。
すると殺人鬼が螺旋階段を登り切って洞窟の中から滝の裏の足場へと姿を現したところだった。
左手にぶら下げたチェーンソーの刃は、相も変わらず凶悪な勢いで回転していた。
「ひぃっ……」
ロザリアは再び前を向いて足場の上を渡り始めた。リスクを覚悟して少しだけ歩みを速める。
すると彼女の身長ほどはありそうな丸太が、すぐ左側の滝の中を上から下へと通過する。
ロザリアは驚いて思わず足を滑らせてしまった。
丸太は見る見る間に小さくなり、小指の先ほどの大きさとなって、滝壺の飛沫の中に飲み込まれていった。
ロザリアは何とか立ち上がろうとするが膝が笑ってままならない。
「ひっ……ひっ……ひぃっ!」
疲労と恐怖。
もう既に彼女は限界だった。
殺人鬼は巨体に見合わぬ軽快な足運びで、どんどんとロザリアの方へと近づいて来る。
この怪物には、足を滑らせて落ちてしまうかもしれないという恐怖心がいっさいないらしい。
まるで散歩中に、どこかの塀の上をふざけて渡り歩くときの様な足取りだった。他者の命だけではなく自分の命に対しても無頓着なのだ。
「……ミーシャ! ミーシャ! ミーシャッ!!」
ロザリアは後方を見ながら、どうにか岩壁に寄りかかって立ち上がろうとする。
しかし、再び足を滑らせてへたり込んでしまう。
殺人鬼はもうすぐそこだ。今から逃げ出しても手遅れだろう。
「ミーシャ……」
ロザリアは狭い足場の上で背を丸めて頭を抱える。
殺人鬼がチェーンソーを左腕一本で無造作に振り上げた。
回転する刃がロザリアに振り下ろされる……。
ミーシャは渾身の力で階段を駆け登る。
そうして、滝の裏に通じるアーチ状の出口までやって来た。
その目に飛び込んで来たのは、滝の裏に沿って延びた細い足場の先でチェーンソーを振り上げる殺人鬼の背中だった。
「姫!」
ミーシャは叫んだ。そして懐の中に手を入れてグリップを握る。
安全装置を外しながら、両手で構えて引き金をひいた。
スライドが勢い良くブローバックし、輩出された薬莢が足元に転がる。
耳をつんざく様な破裂音は滝の音に溶け込んで消える。
最初の一発が命中した瞬間、殺人鬼は動きを止めた。
更に二発、三発、四発……。
放たれた9㎜パラベラム弾はすべて殺人鬼の背中に命中し、赤い銃創を描く。
五発目で殺人鬼の巨体がぐらりと傾いだ。
左腕が力なく垂れ下がり、チェーンソーが落ちてゆく。
あとを追うように、殺人鬼も足を滑らせ、滝壺へと身を投じた。
背を丸めていたロザリアが首を捻って、後ろを向いた。
その瞳にはアーチ状の洞窟の向こうで拳銃を構えるミーシャ・ベックの姿が映り込んでいた。
「ミーシャっ!」
ロザリアは涙をこぼしながら顔を綻ばせた。
その表情を見てミーシャは、肩の力を抜いて微笑む。
「ご無事な様で何よりです。姫様」
めでたく笛吹き男と合流する事のできたロザリアとミーシャであったが、すぐに転移術という訳にはいかなかった。
ロザリアの疲労は酷かったし、何より転移術はこの近隣で、もっとも次元のゆらぎが大きい滝壺の周辺でしか使えない。
しかし、戻ろうにも洞窟の入り口があった滝壺の東側は、火蜥蜴の喉袋液によって発生した火災によって危険な状態にあった。
火の手はかなり広範囲にまでおよんでおり、その様子は滝の裏側からも窺えた。
仕方がないので他の安全な出口を探す事にした。
そんな訳でロザリア、ミーシャ、パミーナの三人は滝の裏側を渡り、西側の洞窟の入り口を潜り抜ける。
そこには、東側と同じ様な円筒形の空間があり三人は螺旋階段をつたって下へと降りた。その底で一旦、休憩を取る事にした。
保存食を口にしたあとロザリアは早々に眠りへとついた。
「……さっきのあの鴉の仮面を倒したの……あれって漂流物?」
パミーナの質問にミーシャは懐から拳銃を出して見せる。
「ええ。これはG23F。骨董品の玩具みたいなものだけどね」
「そんなものどこで手にいれた訳?」
パミーナは訝しげに眉をひそめる。
漂流物は基本的に用途不明な瓦落多がほとんどだ。
そういった物ですら、かなりの高値で取引されているというのに、実用的で高い威力を誇る武器ともなれば、その値段は計り知れない。よほどの金持ちでなければ、一個人が所持できる様なものではないのだ。
ゆえに、“骨董品の玩具”という言い方が少し気になった。
「……父が使っていた物よ」
「あなたの家の家宝か何かって事かしら?」
そこでミーシャは吹き出す。
「そうそう。これ家宝なの。我が家に代々受け継がれる伝説の武器G23F」
そう言って、更にゲラゲラと笑う。
そんな彼女を胡乱げに見詰めたあと、パミーナは「おほん」と咳払いをひとつする。
「ところで……」
「何?」
「漂流物は異世界に持って行けないのは知っています?」
「知ってるけど。一回、漂流物となった物はもう一度、次元の穴を通る事はできない」
そっけなく、ミーシャはそう答えて、再び拳銃を上着の下のホルスターに戻した。
するとパミーナが、妙に媚びた声音で言う。
「あなたが異世界へ行く時、その“じーにじゅうさんえふ”を私にちょうだい?」
「がめついわね……もう報酬は払ったでしょ?」
ミーシャ達は既に多額の報酬を、笛吹き男との連絡窓口である片足のドワーフに支払っていた。
「別にいいでしょ? 向こうに持って行けないんだし。それとも異世界へと行く前に換金するつもりだったのかしら?」
「別にそういうつもりでもないんだけど……」
ミーシャは困り顔で少し考え込んだあと、にっこりと微笑む。
「……まあ良いよ。あたしが異世界へ帰ったあとなら、このG23F、あんたの好きにしていいわ」
「本当に?! タダで?!」
「良いよ。タダで、あげる」
パミーナは瞳を輝かせる。
売れば、この世界では一生遊んで暮らせるレベルの富を得る事ができるだろう。
「その代わり、最後までしっかりと仕事の方は頼むよ?」
ミーシャのその言葉に、パミーナは力強く何度も頷いた。
稲光。
雷鳴が轟く。
外はいつしか激しい豪雨となっていた。
それにより、大規模化した森林火災は、ひとまずその勢いを弱めていた。
このまま雨が降り続けば火の手は収まってくれるだろう。
水蒸気と煙が焼けただれた森に立ち込めていた。
そして、それは火災のあった一帯より、滝壺の南を流れる渓流を挟んで対岸の川原だった。
その川縁の浅瀬でうつ伏せになった巨体の背中には、五発の銃創があった。
異世界の殺人鬼の慣れの果てである。
更に彼の近くには水没して、その動きを止めたチェーンソーが沈んでいた。
殺人鬼は動かない。心臓も止まっていた。
当たり前である。彼が普通の人間ならば、もうとっくに死んでいる。
豪雨によって増水した川の流れに時おり揺られ、水際をたゆたい続けるだけだった。
すると川原と森の境目にあった樫の木の天辺に雷光が突き刺さった。
木の中の水分が弾ける音が鳴り響き、天辺近くの幹が縦に割れて燃える。
しばらく間を置いて、再び雷が黒雲よりほとばしった。
今度はその樫の木よりも少しだけ渓流の川縁に近かった。
そして、三発目の落雷。
薄暗い空を切り裂く雷光は、水に浮かんだ殺人鬼の背中を直撃した。
眩い光に包まれ、全身を激しく痙攣させる殺人鬼。
彼の巨体から白い湯気が立ち上る。
その瞬間だった。
停止していた彼の心臓が、ゆるやかに……そして、徐々に強く、邪悪なる鼓動を取り戻す。
投げ出されていた彼の両手の指先が動いた。
次の瞬間、背中の銃創の中から弾丸が、くるくると渦を巻きながら浮き出す。
そのまま背中からこぼれ落ち、水の中に落ちる。
すると殺人鬼は浅瀬の水底に四肢を突いて、勢い良く立ち上がる。
凄まじい吼え声。
それは既に人間のものではなかった。
獰猛な肉食獣――いや、それ以上に凶暴な何か。
鴉の仮面の奥で、右眼が禍々しい赤に輝いていた。
殺人鬼はチェーンソーを拾い上げた。
すると、その瞳と同じ様にチェーンソーが赤い光に包まれる。
そして、動くはずのない刃が突然、激しく回転し始めた。




