【12】鬼ごっこ
思わぬ反撃を受けた殺人鬼は、頭を振って立ち上がる。
左眼から血の涙を流しながら、彼はハンティングナイフを腰の革鞘に納めて、木棚の上のチェーンソーを手に取った。
「あの子は友達じゃない……そうね。殺しましょう……殺せ……殺せ! 殺せッ!!」
チェーンソーのスイッチを押してスターターロープを引っ張る。
肉食獣の唸り声じみた音が鳴り響き、チェーンに沿って並んだ刃が凶悪な音をがなり立て、凄まじいスピードで回転し始める。
排気される灰色の煙を撒き散らしながら殺人鬼は、逃げたロザリア姫を追いかけた。
「はあ……はあ……はあ……」
ロザリア姫は部屋から出ると必死に駆ける。
道なりに真っ直ぐ進むと、すぐに四つ辻に差し掛かった。
どちらへ行こうか迷い立ち止まる。
「ミーシャ! ミーシャ! ミーシャ!」
彼女の名前を叫ぶが返事はない。
すると背後から音がした。
鮮血と死をもたらす禍々しいあの音が……。
その音が自分のいる方向へと迫り来る。
ロザリアは一度だけ目にした“ちぇいんそう”の凶悪な回転を思い出し、恐怖に背筋を震わせる。青ざめた顔で息を飲み、四つ辻の右手の通路へと駆けた。
捕まったら殺される。
殺されてから弄ばれる。
自分の生きる意味も、大切な人のために死にたくないという決意も、このときはすべて頭の中から吹き飛んでいた。
かわりに彼女の脳裏をしめていたのは恐怖だった。
純粋な恐怖が頭蓋一杯に満ちて、ロザリアの二本の足を絶え間なく動かしていた。
あの音がどんどんと近付いて来る。
殺人鬼の方が足は速い。
追い付かれるのは時間の問題だった。
二人は、パミーナの持っていたフックつきの縄でどうにか対岸の足場へと渡る事ができた。
そのまま足場の奥にあった通路の入り口を潜る。
二人は通路を道なりに進む。
「姫! 姫! 姫ぇっ!」
ミーシャは必死に叫ぶ。
しかし、返事はない。
パミーナが暗い表情で口を開く。
「あまり言いたくはないけれど……もう手遅れって事は……」
「それはない」
ミーシャはきっぱりと断言する。
「少なくとも、姫はまだ生きている……」
「なぜそう言い切れるの? 女の子だからって優しくしてくれる様な相手じゃなさそうだけれど……むしろ大喜びで手にかけそう」
パミーナもあの恐ろしい八体の剥製を目にしていた。
今頃、姫も生皮を剥がされているかもしれないと想像して身震いする。
しかし、ミーシャは自信たっぷりに言った。
「私がいるうちは大丈夫よ」
「どういう意味なの、それ……」
パミーナは呆れる。
自分を物語の中の騎士か何かだと思い込んでいるのだろうか。
確かに彼女が物語の主人公ならば、最後には必ず囚われの姫君を無事に助け出す事が出来るだろう。
しかし、これは無慈悲で冷酷な現実なのだ。
何か皮肉を言い返そうと思ったパミーナであったが、ミーシャが先に口を開いた。
「……そんな事よりも、あんた、何でこんな森を待ち合わせ場所に指定したのよ? ここじゃなければ教会の追っ手は兎も角、少なくともあんな化け物と出くわす事はなかったかもしれない」
そのミーシャの疑問にパミーナが困り顔で答える。
「転移術は、どこでも簡単に使える訳じゃないの」
「どういう事よ?」
「次元の揺らぎが特に大きい土地じゃないと無理なの。そういった場所は、この世界にいくつかあって、その中でも、あなた達が潜伏していたベリントから一番近い場所があの滝壺の縁だった。冒険者が消えたという、おかしな噂は知っていたけれど、逆にその噂のお陰で誰も寄り付かなくなっているらしいと聞いたから好都合だと思ったの」
そこでミーシャは、ふと、それに思い至る。
「ねえ。ひょっとして……例の三年前に大勢の冒険者が消えたのって、あの鴉の仮面の仕業じゃ……」
「そうかもしれませんわね」
と、パミーナがそっけなく答えたところで二人は四つ辻に辿り着いた。
その中央で二人は立ち止まる。
「糞! どっちだ!」
ミーシャが歯噛みする。
「言葉使いが下品ね……それは兎も角、困りましたわ」
パミーナが左手のランプを掲げて、三方向の通路を照らした。
「待って!」
ミーシャが耳をすます。
「……チェーンソーの音が聴こえる」
「ちぇいんそう?」
パミーナが小首を傾げた。
「……あの鴉の仮面が持っている漂流物の事。エンジンで動いて……って、そんな事はどうでも良いから黙ってて!」
ミーシャは更に集中して、チェーンソーの音が聞こえて来る方向を探ろうとするが……。
「ああっ! 駄目。反響して解らない」
「ねえ」
そこで、パミーナが西へと延びた通路の手前で屈みながら床をランプで照らす。
「この染み……多分だけど靴痕じゃないかしら」
ミーシャは覗き込む。
それは、床にこぼれた大量の血液を踏みつけたブーツの靴痕の一部であった。
「ほら。あそこにも!」
パミーナがそのままランプを持った手を伸ばして少し離れた場所にある床を照らした。
ミーシャは西の通路へと駆け出す。
「待ちなさい!」
パミーナも彼女の後を追った。
ロザリアは暗闇の中を逃げる。走る。
しかし、既に体力の限界は近く、すっかり息は上がっていた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
チェーンソーの音が、もうすぐそこまで迫っている。立ち止まっている余裕はまったくない。
胸が内側から膨らんで今にも破裂してしまいそうだった。脇腹がじくじくと鈍く痛んだ。
頭がぼんやりとして、ふくらはぎが痙攣し、釣りそうになっていた。
しかし、立ち止まる訳にはいかない。
……嫌だ。嫌だ。あいつにだけは殺されたくない。
その一心で鉛の様に重い太股を持ち上げて脚を前に出す。
やがて、前方に天井の高い空間への入り口が見えて来た。
それを目指してロザリアは駆ける。しかし、とうとう、つんのめって転んでしまう。
「あっ!」
もうチェーンソーの音は、ほんのすぐそばだった。立ち上がろうとした。足が震えて力が入らない。
「ああ……あぁ……」
ロザリアはどうにか右側の壁に寄りかかりながら頭を上げた。
その瞬間だった。
ふと左の目尻に、わずかな風を感じた。
ロザリアは咄嗟に屈み込む。
頭上すれすれを回転する刃が猛烈な勢いで通過する。空気と闇が切り裂かれた。
耳障りな大きな音が鳴り響き、洞窟の石壁が削れて火花と石屑が散った。
「きゃあああああああああッ!!」
ロザリアは悲鳴を上げながら地面を這う。
すると、彼女の左足を大きな掌が掴んだ。
「あああ……あぁ……ああ」
ロザリアは腰を捻って後ろを振り向く。すると地面に膝を突いた殺人鬼が右腕一本でチェーンソーを振り上げていた。
ロザリアは咄嗟に手に持っていたランプで殺人鬼の顔面を左側から殴った。
眼を潰され、死角になっていたためにその攻撃は命中した。オイルがこぼれ、殺人鬼の頭部にぶちまけられて燃え上がる。
ぐもった絶叫が轟き、ロザリアの左足を掴んでいた殺人鬼の手が離れる。
ロザリアは渾身の力を振り絞って立ち上がり、前方の暗闇へと駆け出した。
そこは巨大な円筒形で、まるで塔の内部の様な空間だった。
周囲を取り巻く壁には細く小さな石段が上方に向けて螺旋を描いていた。
見上げればドーム型の天井のすぐ真下にアーチ状の出口があり、そこから水飛沫と共に光が射し込んでいた。
ごうごうと水の流れる音が轟いている。それは滝の音だった。
ロザリアは石段を登り始めた。
足元は狭く湿っていて苔むしている。手すりもなく滑りやすい。高所で足を滑らせてしまえば一貫の終わりだろう。
しばらく登ったあとで立ち止まり、下を見た。
すると、殺人鬼がちょうど階段を登り始めたところだった。
巨体の割に軽快な足取りで、ずんずんと階段を登って来る。
隻眼となった右眼でロザリアを射る様に睨めつけていた。獲物の魂を凍りつかせる狩人の眼差しだ。
「ひっ……」
その視線に込められた殺意を感じ取ったロザリアは、かすれた悲鳴を上げて再び階段を駆け登り始める。
やがて階段を登りきり、アーチ状の出口の向こうを覗き込んだ瞬間、ロザリアは思わず足を止めた。
そこは、あの水竜の滝の裏側だった。
左手には大量の水が、遥か下方の滝壺めがけて流れ込み、凄まじい飛沫を上げていた。右手には濡れて苔むした岩壁がせり立っている。頭上に目線を移せば、反り返った岩壁が屋根となっていた。
足場は狭く、人ひとりがようやく通れるほどしかない。当然ながら濡れており、いかにも滑りやすそうだった。
その足場を渡った先にも同じ様な洞窟の入り口が見える。
ロザリアは、ごくりと唾を飲み込んだ。
最初の一歩が踏み出せない。
しかし、そうこうするうちに、殺人鬼が階段を登って彼女に追い付こうとしていた。
ロザリアは唾を飲み込んで、一度だけ深呼吸をした。意を決して狭い足場へと右足を踏みだす。
ミーシャとパミーナは、その巨大な円筒形の空間へと辿り着く。
見上げると天井近くに空いたアーチ状の出口を潜ろうとする殺人鬼の姿があった。
「待てッ!!」
ミーシャが叫ぶ。
すると殺人鬼は下方の二人を一瞥したあと、出口の向こう側へと消えた。




