【10】腐肉と鮮血
「姫様……?」
部屋を出て、背後からロザリアの足音が聞こえて来ない事に気がつき、ミーシャは振り返る。
「なん……で?」
青ざめた顔で誰もいない背後の空間を数秒間だけ見詰めたあと、部屋へと戻った。
まず目についたのは、床に転がった姫の長杖だった。
魔術はワンドや長杖といった魔力の媒体となる器物を手に持たないと行使できない。これがなければロザリア姫は、ごく普通の非力な十三歳の少女でしかないのだ。もっとも、杖があったところで大した呪文が使える訳でもないのだが……。
そして、ミーシャはすぐに剥製が一体足りない事に気がつく。
ひとつだけ空いた椅子に触れるとほんのりと誰かが座っていた温もりがあった。
ミーシャは歯噛みする。
「糞! 油断したっ!」
すぐに冷静に返り室内を見渡す。そして壁に張り付けられた灰色熊の毛皮に目を止める。
そして、その裏側にあった通路を発見したミーシャは殺人鬼とロザリアの後を追った。
腐肉と血と汚物が混ざりあった臭い……。
奥へ行くにつれて、どんどんと強くなる。
鼻孔を刺す臭気に顔をしかめながら、やがてミーシャは、その空間に辿り着いた。
それは通路の先にあったアーチ状の入り口の向こうにあった。
大きな竪穴。
その湾曲した壁面からせり出した小さな足場。
ちょうど対岸にも同じ様な足場があり、そこまで木製の橋が渡されていた。
対岸の足場の奥にも、通路の入り口が開いていた。
そして、ロザリア姫を担いだ豚頭の巨体が橋を渡りきる直前だった。
「待って!」
竪穴は深く、辛うじてランプの明かりが底に届く程度の高さはあった。
どうやら、底には汚水が張っているらしく、酷い悪臭の原因はこれらしい。
赤錆の様な色合いの水面に、何やら乳白色の物が沢山浮かんでいた。そして水面近くを黒煙の様な蝿の群れが渦を巻いて飛んでいる。
ミーシャは橋を渡ろうとした。かなり不安定で彼女の右足の靴底が着いた瞬間に軋んだ音が鳴った。
同時に対岸へと渡りきった殺人鬼が大きく右足を振り上げて、橋を踏み折る。
ばきり、という音と共に橋は根本から折れて、穴の底へと落下して水飛沫を舞い上げた。
水面近くを漂っていた蝿の群れが一斉に舞い上がり、不愉快な羽音を響かせた。
右足をかけていたミーシャも落ちそうになるが、どうにか堪えて事なきを得た。
ミーシャは温存していた奥の手を使おうと懐に手を入れる。
しかし、姫に当たってしまうかもしれないかと思うと躊躇してしまう。
そうこうするうちに殺人鬼とロザリアは、対岸の足場の奥に空いた通路の入り口へと姿を消した。
「糞っ!」
ミーシャは思いきり舌を打った。
ミーシャはランプを腰に吊るし、足場から左側の壁面の石材の隙間に爪先と指先をかけた。
「ん……」
湾曲した壁面を横に這い、向こう岸を目指す。
壁の石材の表面は湿っており、滑りやすかった。
それでもミーシャは、慎重に少しずつ向こう岸へと近づいてゆく。
しかし、ちょうど中間ぐらいに来たときだった。
「ああっ……」
思わず足を滑らせてしまう。
壁面をずり落ちるミーシャ。どうにか底に届く直前で石材の隙間に指先を掛けなおすも……。
「う……」
堪えきれず、あえなく汚水の中に落下する。
水飛沫が舞った。
汚水の深さはそれほどでもなく、彼女の膝丈程度であった。
しかし、気が遠くなるほどの凄まじい悪臭である。
足場の上から見えていた水面に浮かぶ白い物は骨だった。
人の頭蓋骨やその他の動物の骨もあった。それらの骨の合間に赤黒く腐った臓物や白くふやけた腐肉が浮いている。
水面に蠢く無数の米粒の様な物は大量の蛆虫であった。
まるで砂塵のごとき蝿の群れが不愉快な羽音を立てながら周囲を舞っている。
「うおぇえ……!!」
ミーシャは何度か嘔吐いて、水面に吐瀉物を吐き散らす。
すると、その瞬間だった。
ミーシャの前方の水面が盛り上がり、巨大な水柱が立った。
汚水と腐肉の雨が降り注ぐ。
ミーシャは見上げる。すると、そこには彼女の身長の倍はありそうな蟲が鎌首をもたげていた。
虚ろな複眼。
頭から突き出た釣竿の様な触角がゆらゆらと蠢いている。
節くれた長い身体の左右で無数に蠢く黄色とオレンジの脚。
鋏の様な顎を開いて軋んだ鳴き声を上げるのは、大百足であった。
「次から次かへと……」
大百足とミーシャはしばらく睨み合う。
そして彼女が、腰の三日月刀を抜いた瞬間だった。
鎌首をもたげていた大百足の頭部が振り下ろされる。
ミーシャは、その一撃を後ろに下がってかわす。刹那のタイミングで百足の頭部が汚水に突っ込んだ。
飛沫の中でミーシャは、百足の頭を踏みつけて三日月刀を突き立てる。
大百足の尾が汚水から持ち上がり、激しくのたうつ。飛沫と骨の欠片が舞った。
「このっ! おとなしく死んでろ!」
ミーシャは何とか百足の頭部を踏みつけたまま、三日月刀を何度も突き立てる。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 邪魔をするなッ!!」
次の瞬間だった。
大きく捻れて跳ねた百足の尻尾が左からミーシャの事を叩いた。
ミーシャは吹き飛ばされ、壁面に叩きつけられる。
一瞬、意識が遠退いて、汚水の中に倒れかける。
頭がくらくらとして、足に力が入らなかった。
「やばい……」
それでも何とか壁に背をもたれて堪える。
すると、頭上から白濁した粘液が、ぼたぼたと彼女の頭に垂れ落ちた。
ミーシャは目線を上げる。
頭から三日月刀を生やした大百足が、白濁した液を滴らせながら大顎をカチカチと鳴らしながら見下ろしていた。
大百足がミーシャに襲いかかる。
次の瞬間だった。
大百足の頭に一本の矢が突き刺さる。
大百足は大きく仰け反って、軋んだ声で嘶いた。
更に二本、三本、四本と続け様に矢が降り注ぐ。
大百足の頭部は見る見るうちに針鼠の様になった。
鎌首をもたげていた大百足は仰け反り、水面に倒れ込むと再び長い身体をくねらせて飛沫を撒き散らしながら暴れ回る。
しばらくすると、弱々しくなり汚水の中に沈み込んだまま動かなくなった。
ミーシャは壁に寄りかかり、ふう、と溜め息を吐いて肩の力を抜く。
すると、頭上の足場から声が聞こえた。
「今、縄をおろすから待っていてください」
それは銀髪の狐顔の狩人、パミーナであった。
どうにか元の足場まで登ったミーシャは床にへたり込んだ。
すると、パミーナは腰のポーチから二本の小瓶を取り出す。
「これが回復薬、こっちが毒消し。病気にならない様に飲んでおくと良いわ」
しかし、ミーシャは受け取ろうとしない。
「どうしたの? 早く。姫様とはぐれたみたいだけれども……探さないと」
パミーナのその言葉の後にミーシャは素早く立ち上がり、三日月刀を抜いた。
そのまま彼女を斬りつける。
しかし、パミーナは、その一撃を狭い足場の上で何とかかわす。
「ちょっと! 命の恩人に向かって何なの?!」
「あんた、教会の連中と一緒にいたでしょ?」
「ああ……」
パミーナは苦笑する。
「あれは仕方なくですわ」
しかし、ミーシャは、その言葉を聞き入れない。
「あたし達を騙して教会へ売り渡そうっていってもそうはいかない!」
ミーシャが再び三日月刀を振り上げた。パミーナは慌てる。
「待って! 冷静になって。私は……」
彼女の言葉を遮る様にミーシャが言った。
「知ってる。あんたが笛吹き男なんでしょ?」




