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異世界のいけにえ  作者: 谷尾銀
第三章 異世界〈1025〉
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【08】死の工房


 蝿の羽音。


 ……がきれいな子……


 ……っている。


 ……もお友達に……


 遠くで囁く様な声が聞こえた。

 それは、まるで病気の獣の鳴き声の様だった。

 エミリアは目を覚ます。

 すると、すぐ目の前に鴉の仮面があり、その向こうから、あの見覚えのある青い瞳が覗いていた。

「嫌……嫌だ」

 エミリアの表情がくしゃりと歪む。

 そして彼女は次に自分が全裸である事に気がつく。

「やめて……お願い……やめて……」

 エミリアは木の台座の上に張りつけにされていた。

 両手首を縛った縄は台座の脚に結ばれている。

 そして台座の左右には木製の柱があり、その二本の柱には丸太が渡されていた。

 丸太から滑車がぶら下がっていて、そこから延びた縄が、エミリアの両足首をひとまとめに拘束していた。

 部屋のいたるところに人骨で作られた燭台が置かれており、揺らめく蝋燭の炎が、その大きな石造りの部屋を照らしていた。

 そこら中に蝿が飛び交い、酷い悪臭が漂っていた。

 それは肉と血と脂の織り成す腐敗の芳香アロマだった。

「……お願い、お願い……やめて……お願いだから……」

 殺人鬼はエミリアの涙をそっと右手の人差し指でぬぐうと顔を離し、彼女の裸体をべたべたと触り始めた。

「きゃっ。嫌! やめて……お願いだからやめて……お願い……やめてぇえ、うえええ……酷い事しないで……うええええ」

 まるで年頃の少女の様に泣き出してしまうエミリア。恐怖のあまり失禁してしまう。台座の上に排泄されたばかりの尿の水溜まりが広がる。

 エミリアは、自分がこれから恐るべき獣欲の贄となり、けがれてしまうと想像して絶望した。

 しかし、そんな彼女の身体を触る殺人鬼の手つきは、性的なニュアンスをいっさい感じない冷徹な物だった。

 まるで素材の善し悪しを確かめる職人の様な……。

 性的暴行とは違う意味で、彼女の尊厳を完膚なきまでに破壊する、そんな手つきだった。

「やめて……やめて……やめてぇ……」

 エミリアの全身をくまなくチェックした殺人鬼は、腰の革鞘からハンティングナイフを抜いた。

「殺さないで……お願い……やめてぇ……」

 エミリアは荒い息を吐き、胸部を激しく上下させながら、よりいっそう激しく咽び泣く。

 殺人鬼は、そんな彼女の喉元を容赦なく切り裂き、頸動脈を傷つけた。

「ああ……ああ……」

 首からおびただしい鮮血があふれる。

「あぁ……ああああ!」

 口から血を吹きこぼしながら、渾身の力で暴れるエミリアだったが、その動きはすぐに弱々しくなってゆく。

 同時に、荒かった息遣いが緩やかになる。

 その彼女の目つきは虚ろで、今にも目蓋の緞帳どんちょうが降りようとしていた。

「あ……」

 それから殺人鬼は、すっかりおとなしくなったエミリアの両手の拘束をほどき、左右の手首にも切れ込みを入れた。

 そのあと台座の右脇の柱に巻かれていた縄をほどいて、引っ張り始める。

 すると、滑車がガラガラと回り始めて、エミリアの身体が台座の上で逆さ吊りになる。

 まだ鼓動を続ける心臓がポンプとなって、両手首と喉の傷から体内の血液を排出しようとする。

 血抜き・・・が始まったのだ。

 殺人鬼は、鴉の仮面の奥から彼女の青ざめてゆく顔をじっと覗き込んでいた。

 やがてエミリアが、緩慢に口をパクパクと動かしながらゆっくりと、その目蓋を閉じた。

 そして、遠退く意識の中で彼女は思い出す。

 殺人鬼の仮面の奥の眼差しが、誰と良く似ていたのかを……。




 あの爆発と振動は、姫とミーシャの元にも届いていた。

 当然ながら事情を知るよしもない二人は地震が起こったと勘違いし、落盤が起こる可能性を想像して背筋を震わせた。どうにか、出口を探そうと躍起になる。

 そうして随分と歩き回った頃に、四辻の中央で休憩する事にした。

 ミーシャは、ロザリアに、少しだけ眠る様にと提案する。

 ロザリアは当然これを却下するが、ミーシャは漂流物デブリの腕時計を見せて「もうそろそろ眠る時間ですよ」と、にべもなく言った。

 因みに、この世界でも時間は六十進法で表され、一日は二十四時間、一週間は七日、一年は三百六十五日である。

 これは勇者イトーが魔王討伐後に、滅びた世界を復興するにあたって定めた基準であった。

 ともあれ、こんな状況で眠れるはずもなかったのだが「身体を横にして目を閉じているだけでも良い」と説得されて、ロザリアはようやく折れた。

 そして、ミーシャの膝に頭を乗せ、目を閉じている内に、結局眠ってしまう。

 眠りに落ちたロザリアは夢を見た。

 それは両親の夢だった。

 八歳の時に病死した母親と、自分を教会へと引き渡そうとした父親……。

 その二人と、幼き日の自分が色とりどりの花が咲き乱れる草原で笑いあっていた。

 そこは故郷のオルエグルムでも風光明媚として知られる名所であった。

 ロザリアは別に父親を怨んではいなかった。

 ただひたすらに悲しくて、申し訳なく感じた。

 自分さえ生まれてこなければ……。

 何度もそう思った。

 ロザリアは眠りながら涙を流した。




 ロザリアが眠りに落ちて、しばらく経った。


 ……パパ。ママは今……


 ミーシャの声でロザリアは目を覚ます。

「……おや。姫様、もうお目覚めになられましたか。おはようございます」

 ミーシャは懐の中へと右手に持っていた物をしまいながら、膝の上から自分を見上げるロザリアに笑いかける。

「ミーシャよ。何か喋っておったか?」

「何とも。姫様。寝ぼけていらっしゃいますか?」

「寝ぼけてなどおらんわ」

 ロザリアは上半身を起こす。

「あはは……お元気そうで何よりです」

 ミーシャが笑った。

 ロザリアは、多少、腑に落ちないところもあったが、本当に寝ぼけていただけなのかもしれないと思った。

 そんな事よりも、どうしてもミーシャにしてやりたい事があった。座ったまま自分の膝の上をぽんぽんと叩く。

「……ほれ」

 と、言うと、ミーシャは意味がわからなかったらしく、きょとんとした表情で首を傾げた。

「姫様、何を?」

「次は、そちの番だ。今度は余が起きて見張っているから、そちが眠るのだ」

 ミーシャは吹き出す。

「大丈夫ですよ、姫様。あたしは二日や三日、眠らなくても平気なんで」

 しかしロザリアは、むすっとした表情で首を横に振る。

「いいや。以前に、眠れる時には眠っておいた方が良いと申しておったのは、そちではないか?」

「そんな事、言いましたっけ? あたし」

「言ったぞ。確かに」

「いや、ですが、しかし……あるじの膝を借りるなど、恐れ多い」

「余が良いと申しておる。これは、命令であるぞ? 近衛隊長ミーシャ・ベックよ」

「もう、とうの昔に近衛隊長はクビになりましたよ。今は麗しの姫君をかどわかした、おたずね者にございます」

「混ぜっ返すな。そちに死なれたら余の命もないのだ。だから、頼むから休んでくれ……余に死んで欲しくないのだろう?」

 そこでミーシャは深々と溜め息を吐いて折れた。

「わかりました。あたしが眠ってから四十五分で起こしてください」

「たったのそれだけで良いのか?」

「ええ。人間は最低限、それくらい眠れば良いのだと、以前にどこかで耳にしました」

「ふむ。やはり、ミーシャは何でも良く知っている」

 関心するロザリアだった。

「……では、失礼いたします。姫様」

「うむ」

 ミーシャがロザリアの脚に頭を乗せる。

 しかし、なかなか目を閉じようとしない。

「……姫様」

「何だ? 早く寝ろ」

「なかなか、寝つけませんので、しばらくお話を……眠気が来るまで、お願いします」

「子守唄でも歌おうか?」

 ロザリアが悪戯っぽく微笑む。ミーシャはくすりと笑う。

「とても魅力的ですが、遠慮しておきます」

「では……そうだな」

 ロザリアは少し考え込んでから、さっき見た夢の事を思い出した。

 そして、こんな質問をした。

「そちの両親は、どんな人間だったのだ?」

 ミーシャは闇エルフの血を引いてはいたが、オルエグルムの出身ではなかった。

 彼女は旅の冒険者で、王都近郊の峠に出没した火竜を仲間と共に討った英雄だった。その功を労うために王が仲間共々、彼女を城へと呼び出し、そこでロザリアと初めて顔を会わせた。 

 王の「思うがままの褒美を取らせよう」という言葉に、仲間達は富を望んだが、ミーシャは別だった。

 彼女はロザリア姫の近衛に就きたいと望んだ。

 ちょうど、当時の近衛隊長が引退間近だったので、王はミーシャを後任へと抜擢した。

 反対する者も当然いたが、ロザリアとは初対面のときから妙にうまが合った。

 彼女達のなかむつまじい様子を、本当の姉妹の様だと評する者もいたほどだった。

 しかしミーシャは、あまり己の事を語ろうとしないので、ロザリアは彼女の事を良く知らなかった。

「……父は、何でしょうね……うーん。衛兵の様な仕事をしていました」

「ほう。衛兵か。……で、母親は?」

「母親は、あー……音楽家でした。楽器の演奏が得意で……」

「なるほど。戦いは父から……ゴルンボは母から習ったのだな?」

「父は、たいして強い人ではなかったですが……まあ、そんなところです」

 ミーシャは遠い目をしながら微笑む。

「……そちの両親は、今はどうしておるのだ?」

 少しだけ間を置いてミーシャは答えた。

「母は死にました」

「……そうか。それは悪い事を聞いたな」

「いえ。もう、ずいぶんと昔の事になりましたから……」

「そうか……。父親は?」

「父は多分……故郷の国で……今も元気にやっていると思います……きっと……」

「そうか……」

 そこで、ロザリアは思った。

 ミーシャの父親は、彼女が教会から追われるおたずね者になった事で、辛い思いをしているのではないかと。

 そして、このままミーシャが自分と共に異世界へと転移してしまえば、父は二度と彼女と会えなくなってしまう。

 心底、自分という存在が申し訳なく思えた。


 ……自分がいなければ、誰も苦しむ事はなかったのに。


 ロザリアは、たっぷりと逡巡したあとでミーシャに問いただす。

「ミーシャよ」

 返事はなかった。しかし、ロザリアはそのまま質問を続けた。

「……そちは、両親の事が好きか?」

 やはり、返事はない。

 すう、すう、と寝息が聞こえて来た。

 どうやら、ミーシャは眠りに落ちたらしい。

 ロザリアは彼女の髪を撫でた。

 するとミーシャの唇がわずかに動く。

「……ママ」

 ロザリアはくすりと笑い、もう一度ミーシャの髪の毛をそっと撫でた。

 そして、心に決める。

 ミーシャが死んだら、自分も死のうと。

 最早、彼女だけがロザリアにとって、この世に生きている唯一の意味であった。

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