【03】追走劇
その日の早朝だった。
ロザリアとミーシャの二人は台地の東端にある崖道から魔女の森へと降りた。
落石の危険が大きいので、岸壁から少し離れた森の中をひたすら西へと進む。
当初の想定よりも、ずっと順調な道程であった。
笛吹き男との待ち合わせの予定日である、次の満月の夜まではあと三日もある。このままいけば充分に余裕を持って滝壺の縁へと辿り着く事が出来るだろう。
屋根つきの寝床という訳にはいかないが、久々に少しだけゆったりとできるかもしれない。ミーシャは心の中でそう思った。
そうして何事もなく昼過ぎなる。
すると、右手の木立の向こう側に見える台地の岸壁に、洞窟が入り口を開けていた。
二人は特に気に止める事もなく、洞窟の前を通り過ぎる。
その瞬間、穴の向こうで息を潜めていた者が蠢いた。
「あの二人も、お友達になってくれるかしら……」
病気の獣の様なかすれた声が、暗闇を震わせた。
ロザリアとミーシャは森の中から滝壺を取り巻く東側の岩場に出る。
「やっとついたぞ……」
ロザリアは両手を突き上げて背骨を伸ばした。
「ええ……」
ミーシャも、感慨深げに周囲を見渡す。
滝壺はかなり広く、マゴットの中央広場よりも大きい。
その北側を東西に横切る断崖は、王国にあるどの鐘楼よりも高く、台地の上から流れ落ちる大瀑布は圧巻のひと言であった。
立ち上る飛沫と共に響き渡る轟音は、まさに水竜の咆哮であった。
滝壺の南側には緩やかな傾斜に沿って渓流が流れている。
「笛吹き男はまだか?」
「予定よりも早く着いてしまったので、まだですね」
二人は滝壺の水辺に近寄ろうとした。
そのときだった。
「姫様!」
ミーシャの耳が、落水の轟音の中からその音を拾い上げる。
「どうした?」
ロザリアがミーシャの顔を見上げる。二人は立ち止まった。
ミーシャは南側に目線を向けた。
すると滝壺の手前の川原を大勢の者達が彼女達の方に向かってやって来るのが見えた。
教会の銀鬣騎士団である。
「……こんなに早く着くだなんて」
「ひっ……」
ロザリアの表情が歪み、その両目から涙が溢れそうになる。がちがちと歯が震え始めた。
「姫様……いったん引き返しましょう。さあ早く!」
ミーシャがロザリアの腕を引く。
再び自分達がやって来た森の中へと戻ろうとする。
すると、ミーシャの視界の端に騎士団の先頭にいたホプキンス将軍とパミーナの姿が映り込んだ。
ロザリアの手を引いたまま、ミーシャは森の中を駆け続ける。
木立の合間をぬって何本かのクロスボウの矢が飛来する。
「姫様、危ない!」
ミーシャはロザリアの華奢な身体を手繰り寄せ、抱きかかえて地面に転がる。
すると前方の木の幹に一本の矢が突き刺さった。
「姫様、お怪我は?」
ロザリアは乱れた呼吸を整えながら無言で頷く。
すぐさま立ち上がり駆ける。
やはり、どうしても足のあまり速くないロザリアを連れているために距離を詰められてしまう。
「糞っ……このままでは……」
後ろを振り向くと、長剣を抜いた騎士達が人相の良くわかる位置まで迫っていた。
もうロザリアの体力は限界に近かった。
しかし足を止める訳にはいかない。
そのまま、しばらく進むと右手の木陰から五人の騎士が飛び出して来て行く手を阻まれた。
山歩きに適した軽装の革装備の上に教会の紋章が入った騎士胴衣を羽織っている。矢筒とクロスボウを担ぎ長剣を提げていた。
「くっ……回り込まれたか」
ミーシャは立ち止まり周囲を見渡す。
既に前方、後方、右手は塞がれている。
そして、左手の木々の向こうに連なる断崖に入り口を開けた洞窟が目に映った。
咄嗟にそちらへと駆ける。
魔法を叩き込まれたら……という懸念もあったが、三方を囲まれたまま戦うよりはマシだとミーシャは判断した。
自分ひとりなら何とかなるが、姫を守りながらとなると自信を持てなかったのだ。
しかし洞窟の中が狭く入り口からすぐに突き当たった場合は万事休すである。これは賭けだった。
「姫様、こちらです!」
「はぁ、はぁ、はぁ……」
ロザリア姫は随分と辛そうだった。
それでもどうにか、洞窟の入り口に姫の身体を押し込む。
ミーシャも洞窟の中へ入ろうとした。すると森の向こうから、騎士達がわらわらとやって来る。ミーシャの視界の中には二十人程度いた。
「いたぞ! こっちだ!」
「姫様、洞窟の奥へ!」
ミーシャは洞窟の外に背を向ける。姫が懸命に暗闇の中へと駆けて行く。
三人の騎士がクロスボウを撃った。
そのうち一本がミーシャの右肩をかすめ、もう一本は背中のゴルンボに突き刺さった。残りの一本は洞窟の奥に飛んでいって土煙を上げた。
「くっ……」
ミーシャも姫のあとを追った。
洞窟の通路はしばらく真っ直ぐ延びており、緩やかに右へとカーブを描いていた。
その先は、ほとんど外からの光が届いていない。横幅は幅は狭く、人が肩を並べてぎりぎり並んで歩けるぐらいしかなかった。
「ああっ……」
ロザリアがつんのめって転ぶ。
「姫様!」
ミーシャの叫び声が轟く。
長剣を構えた騎士達が一列に並んでやって来る。
「姫様! 明かりを!」
ロザリアが長杖の石突きを地面に突いて、よろよろと起き上がる。
それを確認してミーシャは三日月刀を抜いて入り口の方に振り向いた。
「観念しろ!!」
先頭のひとりが長剣を抜いて突きを放った。易々とかわせるスピードだったが、背後の姫の事を考えると、そうする訳にはいかない。
ミーシャはその長剣を三日月刀で右へ払う。
けたたましい金属音が鳴り響き洞窟の壁面に騎士の剣先がぶつかった。その拍子に騎士は長剣を取り落とす。
同時にミーシャは三日月刀で騎士の顔面を浅く突き刺した。とどめは刺さない。その方が足止めになるからだ。
「ぐああああああッ!」
絶叫が轟く。
それと同時にロザリアの呪文が完成して長杖の先に魔法の明かりが灯る。
「ミーシャ!」
「姫様、奥へ!」
ロザリアは更に洞窟の奥へと駆ける。
ミーシャも姫の背中を追う。
「どけ! 邪魔だ、糞! 早く後ろにさがれよ! ほら早く!」
顔面を刺されてうずくまる騎士を押し退け、後続が追いかけて来る。ミーシャの思惑通り、少しだけもたついたために距離が開いた。
やがて通路の先に天井の高い広い岩室の入り口が見えてきた。
そして、ロザリアがその入り口を潜り抜けようとした瞬間だった。
「姫、危ない!」
右横から大きな手が現れ、ロザリアの頭を掴もうとした。
ミーシャは咄嗟に姫を頭を押さえつけて屈む。彼女の頭部のすれすれのところを蛇の様な右手が通過して空振りする。
何者かが岩室の入り口の右側に隠れていたのだ。
ミーシャはロザリアを抱えたまま、そいつの脇を潜り抜け、岩室へとそのまま転がり込んだ。
ミーシャが姫を抱えて咄嗟に立ち上がり、振り向いて後退りした。
「何なの……こんなのがいるだなんて聞いてない」
それはミーシャよりも頭ひとつ以上は背の高い巨体だった。
木立に溶け込む様な柄のフードつきのローブをまとい、左手には奇妙な物をぶらさげていた。
フードの奥からは真っ黒い金属製の嘴が覗き見えている。
異世界から来た殺人鬼である。
殺人鬼はミーシャ達がやって来た通路への入り口をふさぐ様に立ちはだかる。そして左手の奇妙な物――チェーンソーを両手で掲げた。スイッチを入れて、スターターロープを引く。
その瞬間、チェーンにそった刃が魔神の歯軋りの様に、激しく回転し始めた。
あまりの禍々しい音に、ロザリアが顔を歪めて悲鳴を上げる。
すると同時に殺人鬼の背後で、姫達を追って来た騎士達達が「何だ! お前は!」と叫ぶ。
しかし、それらの声は、洞窟内を震わせる怒り狂った雀蜂の羽音の様な音にかき消されてしまう。
殺人鬼はローブの奥から凍える視線でロザリアとミーシャを一瞥したあと、悠然とした所作でゆっくりと振り向く。チェーンソーを得物に騎士達へと襲いかかる。
「うあああああああッ」
回転する刃が飛沫を舞い上げる音。そして悲鳴。金属音。
殴り飛ばされ、転がったところを踏みつけられ、鎧の継ぎ目に回転する刃を当てられる。
首や腕が跳ねられ、飛び散った血痕が洞窟の壁や床に残虐な模様を描く。
ミーシャは周囲を素早く確認する。
その岩室は円形で、一見すると突き当たりの様だったが奥の床に竪穴があった。穴には杭で固定された鎖の梯子がぶらさがっていた。
「姫様!」
「うむ……」
ロザリアは長杖に繋がれた革ベルトを肩にかけると、鎖の梯子を伝って真下に降りる。
ミーシャも騎士達の絶叫を背中越しに聞きながら姫のあとに続いた。




