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異世界のいけにえ  作者: 谷尾銀
序章 現世〈2018〉
1/27

【01】Intro




 殺人には、理由が必要なのか?


 ――アーサー・ショークロス


 暗い森。

 闇を震わせるのは、その女の息遣いと心臓の鼓動だけだ。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 彼女の吐く息が周囲に溶けてゆく。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 すると遠くから、湿った地面を踏み締める微かな足音が近付いて来る。

 女の鼓動と息遣いがスピードを増す。

 何の前触れもなく乾いた音が鳴った。

 誰かが地面に落ちた小枝を踏み折ったのだ。

 女は一瞬だけ息を飲み込み、背筋を震わせる。

 その身体は汗と泥にまみれていた。暗闇で大きく見開かれた瞳は恐怖に塗りつぶされている。

 女は目蓋を固く閉じて、己の膝を抱えていた両腕に力を込めた。

「はっ、はっ、はっ、はっ……」

 彼女はトレッカーだった。汚れたウインドブレイカーを着込み、バックパックを背負っている。

 この山林には、有給を利用して二人の同僚と共にやって来た。

「はっはっはっはっはっはっ……」

 女の耳に届く、足音が大きくなってゆく。彼女は天に祈りを捧げた。

 足音は女のすぐ近くまで来て、ぴたりと止まる。

「ふー……ふー……」

 女は口元を両手で覆い、こぼれそうになった悲鳴を必死に堪える。

 すると、次の瞬間だった。

 エンジンの唸りが聞こえた。

 その直後に、あの音が鳴り響く。

 暴力的な音。

 まるで、怒り狂った雀蜂の羽ばたきを思わせる音。

 仲間を切り刻んだ、あの音が……。

 それを聞いた瞬間、女は落胆し、絶望し、天を呪い、歯噛みする。

「何なのよッ?! 何でなのよッ?! 私が何をしたっていうのよッ!!」

 は気がついていたのだ。女がその茂みに隠れていた事を……。

 気狂いの様に頭をかきむしり、ヒステリックに叫び散らした彼女の声は、高速で回転する無数の刃が奏でる騒音にかき消される。

 女は一か八か、足元にあったグレープフルーツくらいの石を右手で掴んで、今まで隠れていた茂みから、勢い良く立ちあがり、右腕を振り被った。

 それを投げつけて逃げる隙を作ろうというのだ。

「あああああああああっ!!」

 しかし、次の瞬間だった。

 皮膚と肉が引き裂かれる。骨が削れ砕け散る。煙の様に舞う鮮血が夜闇に溶けた。

 容赦のないチェーンソーの斬撃によって、女の首は胴体から切り離された。

 周辺の草木が赤く濡れた。女の頭部と右手に握られていた石が、ぱらぱらと落下する。

 残った首なしの身体が断面より血潮を撒き散らしながら、茂みの中へと力なく崩れ落ちる。

 やがて音が止んだ。

 すると汗と血でびっしょりと湿った女の髪を、骨ばった汚ならしい左手が鷲掴みにする。

 



 ハロウィンが明けてから七日後の早朝。

 十一月七日の事だった。

 アメリカ合衆国ニュージャージー州カリオンの山道で、トーマス・デュデュクが運転する青い軽のボンネットトラックの前に、左手の山林から男が飛び出して来た。

 トーマスは咄嗟にブレーキを踏み、何とか間に合って事なきを得る。

 男は濡れた落ち葉で覆われた路面に崩れ落ちて、四肢を突いた。

 どうやら、その格好からするとトレッカーらしい。しかし、荷物はいっさい持っておらず、全身は泥まみれだった。良く見れば顔中、擦り傷だらけである。

 大方、山歩きの最中に何らかのアクシデントにみまわれて、遭難してしまったのだろう。

 そう思ったトーマスは、エンジンをかけたまま車を降りてトレッカーの男に近づく。

「おい! 何があった? 大丈夫か?」

 すると、次の瞬間だった。

 トレッカーの男は勢い良く立ちあがり、トーマスの元へとやって来る。彼の両肩を掴み、凄まじい剣幕で声を張りあげる。

「逃げろ! 早く!」

「おいおい、どうした? 熊でも出たのか?」

 トーマスは顔をしかめる。すると、その音が不意に彼の耳をついた。

 まるで、怒り狂った雀蜂の羽ばたきの様な音。男の顔が一気に青ざめる。

「……来る。……来る。奴が来る……」

 音が、どんどんと近づいて来る。山奥の向こうからやって来る。

「……嫌だぁ! うあぁあああああああああっ!!」

 突如として男は半狂乱になって駆け出すとトラックの運転席に乗り込んだ。

「おいっ! どういう事なんだよ?! クソッ」

 トーマスも男の後を追って、トラックの助手席に乗り込む。

「何だよ! どういうつもりだ!」

 男の肩を掴んで問い詰めるトーマス。

 すると、そこで、トレッカーの男が飛び出して来た木立の向こうから、何者かが姿を現す。

「何だ、ありゃあ……」

 トーマスは、あんぐりと口を開けた。

 その人物は迷彩パターンの入ったロングコートを羽織っていた。フードを目深に被っており人相は窺えない。体格から見るに男であろう。細身ではあったが恐ろしく背が高い。二メートルくらいはある。

 そして、何より目を引いたのは、両手に持ったチェーンソーであった。

 それが、あの怒り狂った雀蜂の様な音を振り撒いている。

 チェーンソー男は、そのまま悠長な足取りで山道の真ん中へと歩み出る。

 そして、チェーンソーを両手で高々と頭上へ振りあげた。

 それとほぼ同時だった。

「このファック野郎!!」

 トレッカーの男がギアを操作し、アクセルを思い切り踏んだ。

 勢い良くトラックはバックし始める。

「おっ、おい!!」

 トーマスが静止する間もなく、トレッカーの男は急ブレーキをかけ、素早いギアチェンジをこなし、再び思い切りアクセルを踏み抜いた。

 青いボンネットトラックは凄まじい勢いで突撃を開始する。

 それをチェーンソー男は道の端に避けようとした。しかし路面の濡れた落ち葉で靴底を滑らせ、バランスを崩してしまう。どうやら落ち葉の下にスナック菓子の空き袋が隠れていたらしい。

 しかし、その何の変哲もないゴミが致命的な遅れを招いた。

「くたばれぇぇぇッ!!!」

 殺意のこもった絶叫。

 トラックのバンパーが、チェーンソー男にぶち当たる。

 チェーンソーがフロントガラスにぶつかり左側に落ちる。

 刹那、チェーンソー男の身体がトラックのボンネットに乗りあげて転がり、車体の下に飲み込まれて消える。ガタガタとトラックが激しく振動した。

「オウ、ジーザス……」

 足元から伝わる人体の生々しい感触にトーマスは顔をしかめた。

 トレッカーの男はハンドルを握ったまま猛スピードで、その場から走り去ろうとする。

 トーマスは唖然としたまま、ルームミラー越しに背後を見た。

 すると、車にかれた男が、よろめきながらチェーンソーを拾って立ちあがるところだった。

「嘘だろ……あいつ、化け物かよ」

 その瞬間だった。

 チェーンソー男の身体が青白い電光に包まれて、跡形もなく消えた。




 それからトレッカーとトーマスは、山道を下って麓へと降りると地元の警察署へと駆け込んだ。

 そこでトレッカーが口にしたのは次の様な話だった。

 彼の名前は、エミリオ・ゴメス。

 システムエンジニアで、休暇を利用し、ニューヨークから職場の同僚と共にトレッキングをしにやって来たらしい。

 すると山中であのチェーンソー男に追い回され、三日三晩も逃げ回るはめにおちいり、どうにか運良くトーマスのトラックと遭遇した様だ。

 因みに仲間のひとりは、あの男に殺され、もうひとりとは、はぐれてしまったとの事。

 事態を重く見た当局は、エミリオの証言を元に、付近の山林で大規模な捜索を行う。

 その周辺の山林では、以前より他のトレッカーやキャンパー、釣り人などが不審な失踪を遂げていた。それらの件と、今回の出来事に何かの繋がりがあるかもしれないと踏んだのだ。

 なお、トーマスの『男の姿が青白い電光と共に消えた』という話は、何かの見間違いだろうと無視される事となった。




 それから、捜索が進むごとに恐るべき事実が判明していった。

 まずトーマスとエミリオが出会った山道より、十五キロメートル離れた山林の中に、持ち主不明の山小屋が発見された。

 その山小屋の外壁は錆びついたトタンで、木の幹の間に張り巡らされた有刺鉄線に囲まれていた。更に山小屋の周囲の山林には、無数の虎ばさみが仕掛けてあったのだという。

 内部は無人であったが生活臭があり、最近まで誰かがそこで長い間、暮らしていたらしい事が見て取れた。

 すえた酷い臭いが充満しており、玄関口には様々な動物の剥製が飾ってある。

 そして、それは吐き気を催しそうなほど汚いキッチンだった。そのコンロの上の大きな寸胴。

 そこに、エミリオの同僚のひとりで安否がわからなかった、メリッサ・グリーンウッドの生首がトマトソースに浸っていた。

 それから、狭いキッチンには似合わない巨大な冷蔵庫の中には、同じくエミリオの同僚であるリック・ケーンの頭部の他、四人分の様々な部位が収納されていた。人肉で作った燻製や腸詰めも沢山あった。

 これらの事実から、小屋に住んでいた何者かは、日常的に人肉食を行っていた事が想像された。

 更に寝室のベッドに寝かされた男女のミイラや人皮で作ったドレスなど、目を覆う様な物が次々と発見される。

 この事件は大々的に報道され、かのスミソニアン博物館でフィルムが保管されている、二十世紀最悪の映画のタイトルにちなんで『カリオン電ノコ大虐殺事件』と人々から呼ばれる様になった。

 そして、この大量殺人鬼の行方はようとして知れず、捜査はFBIの手に委ねられる事となる。


 しかし、さしものFBI捜査官も、犯人がトラックにかれた後で異世界へ転移したなどとは夢にも思わなかった様だ。


 かくして最凶最悪の殺人鬼はチェーンソーと共に異世界へと転移したのだった。

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