第三話 漂流と救助(後編)
◇◇◇◇
脱出艇の前で、停船した船である。
「じゃあ、行ってくるよ」
「ちょっとお待ちください」
船橋から出ようとする少年を、女が押し止めた。
「それは何ですか?」
女が聞く。
「うん? これのこと?」
果たして、少年は長い棒を持っていた。
「釣竿だけど、何か?」
少年が不思議そうに聞き返す。
「そんな物で、漂流者を引き上げるおつもりですか?」
女が再び聞いた。
「ああ、たぶん大丈夫だよ。これはトローリング用の特殊な竿だ。この間なんて、二百キロはあるカジキマグロを釣り上げたんだ。人間一人くらい、どうということはないだろう?」
女の意図を、大きく履き違えた少年である。
「私は、先ほど倫理を説いたつもりなのですが……」
女が嘆息する。
「何のこと?」
少年は要領を得ない。
「では、僕は救助があるから」
「お待ちください」
さっさと行こうとする少年を、女が強く呼びとめた。
「やっぱり私がやります。船長はここでじっとしていて下さい」
女が言って、少年から釣竿を奪った。
「……分かったよ」
不満気な少年である。
「一体、何がいけなかったのだろう?」
出て行く女を、少年は静かに見送っていた。
◇◇◇◇
「何と!」
間近に来た船を見上げて、少女は唖然とした。
…――…――…――…
果たして、船は途方もない巨船であった。
真っ白い巨体は平面ばかりで構成されていて、まるで歪な多面体である。
極めつけは船首の形であった。
通常の船であれば、舳先は空に向かって、斜め前方に延びるはずである。
だがしかし、この船では逆に、海中に向けてしゃくれていた。
…――…――…――…
「いや、もう少し小さいと思ったが……」
独特な形状が祟って、少女の遠近感は酷く狂っていた。
「あれ? これってひょっとして、噂に聞く――」
少女が記憶を辿った時である。
タラップが海面スレスレまで降ろされた。
「大丈夫ですか?」
船上から声が響いた。
「た、助けてくれ」
かすれた声で、少女が答えた。
タラップを下りてきたのは、背の高い女が一人。
「これを結んで下さい」
女がロープを投げる。
「よしきた!」
少女がそれを受け取って、脱出艇に結びつけた。
「よいしょっと!」
掛け声とともに、女がロープを引っ張る。
脱出艇がグイっと巨船に引き寄せられた。
「こちらに来られますか?」
女が聞く。
「ああ、今行く」
少女が立ち上がろうとした。
「あ、あれ?」
尻もちをついた少女である。
長い漂流生活は、少女の足腰を弱くしていた。
「足にきておられるので?」
女が察して、少女が無言で頷く。
「どうぞ」
女が少女の両脇を持って、ヒョイと持ち上げた。
「きゃっ!」
驚いて、少女が悲鳴を上げる。
たとえ背は高くとも、見かけはただの女である。
外見を裏切った、大層な膂力であった。
「とにかく、このまま医務室まで運びますよ」
少女を肩に担いだまま、女はタラップを上り始めた。
小波一つない、穏やかな海であった。
ギシギシと、タラップを踏む足音だけが大きく鳴り響く。
「た、助かった……」
安堵感から、少女は意識を手放した――。
◇◇◇◇
数刻後、再び巨船の船橋である。
相も変わらず、少年がふんぞり返っていた。
顔に帽子を乗せて、グーグーと寝息を立てている少年であった。
「船長、船長」
女が少年の肩を叩く。
「起きてください」
「……ん、何?」
女に揺すられて、少年が目覚めた。
「例の漂流者の容体ですが――」
「君に任せる」
女の報告に、少年は興味を示さない。
「……健康面に関しては、特に問題ありません。軽い脱水症と栄養失調気味ですが、すぐに回復するでしょう。おそらくですが、生魚を食べていたことが良かったのでしょうね」
「それはよかった」
女が続けるも、少年は素っ気ない。
「しかし、あんなお子様一人助けたところで、宣伝になるものかな?」
少年がボソッと愚痴る。
「見た目はお似合いかと存じます」
女が指摘する。
「そうかい」
女の辛辣な物言いにも、少年はまったく堪えない。
「それともう一つ」
女が話を付け足した。
「今度は何?」
少年が聞く。
「脱出艇にあった荷物を検分しました。漂流者の身分を察するに、相当な御大尽のようですね」
「何故それを早く言わない。歴としたお客じゃないか」
女の報告に、少年が態度をコロッと変えた。
「これでよし!」
胸元をキチっと締めて、帽子をかぶり直した少年である。
「着いて来て。お客人が心配だ」
少年が船橋を後にした。
「やれやれ」
呆れながら、女も少年に続いた。