第三話 漂流と救助(前編)
◇◇◇◇
天気は晴朗で波は低い。
雲一つ無いカンカン照りの海原は、陸の砂漠と変わらない。
今、そんな過酷な大海原を、少女の脱出艇がぽつねんと浮かんでいた。
「あ、暑い……」
乾ききった少女が、脱出艇の上で寝そべっている。
その頬はこけており、キューティクルに富んでいた髪は、潮風に晒されてボサボサであった。
漂流生活の過酷さ故である。
脱出艇はジュラルミンで出来ている。
内部は蒸していて、とても居られたものではない。
保存食に至っては、とうに尽き果てていた。
「お、かかった!」
少女が釣り糸を、素手で引っ張った。
竿を使わない手釣りである。
果たして、三十センチほどの青魚が釣れた。
「イナダか……」
魚を釣り上げて、少女が言った次の瞬間である。
「いただきます!」
少女が生のまま、魚にむしゃぶりついた。
少女の行っている生食は、本来危険な行為である。
刺身で流通する物は、冷凍で虫を殺しているからこそ安全なのである。
しかしこの場合、少女の判断は正しかった。
危険な寄生虫の代表格であるアニサキスは、主にサバやイカに付く。少女の釣り上げたイナダはブリの子供であり、比較的安全な魚類であった。
そもそもの話、脱出艇の設備は満足のいくものではない。魚を冷凍することはおろか、煮ることも焼くこともままならなかった。
さらに言えば、栄養の問題である。
少女の漂流生活は長く、既に二週間が経っていた。
備蓄の食糧はとうに切らしている。
もちろんこの少女とて、器具さえ揃っていれば、魚を焼いたに違いない。
しかしながら、今の少女は食べ物を魚に依存している。
焼き魚だけでは、ビタミン欠乏は明白であった。
脚気を起こせば最後、心不全を起こして死ぬしかない。
全くのノーリスクでこそないが、この生食がベターであることに、間違いはなかった。
もっとも、少女は冷静に状況を分析したわけではない。単に空腹に耐えかねて、恥も外聞もなくなっただけである。
とどのつまり、少女の運は極めて高い。
「ふう。さてと……」
久しぶりの食事を終えて、少女が双眼鏡を手に取った。
「今日も今日とて、変わり映えなしか……」
一面に広がる海原に、少女が溜息をつく。
少女の視線の先は、見渡す限りの青色である。ともすれば、空と海の境目すら分からない。
この二週間、船はおろか島影にすら少女は出くわさなかった。
それどころか、海鳥の一羽すら見かけない。近くに陸地がない証左である。
「はあ……」
ため息をつきながら、少女は当て所もなく水平線を眺め続けた。
水の備蓄は残り僅かである。
食糧はともかくとして、これだけはどうにもならない。
少女は焦っていた。
乾きは死に直結するからである。
人間は食糧が無くとも三週間は大丈夫であるが、水が無ければ三日と保たない。
「あの時、敵に降りておくべきだったかな」
少女は後悔した。しかし、すぐに「いやいや」と首を振って、邪念を振り払った。
情け容赦なく、味方を塵殺した敵である。その様な輩に身を預けたところで、先は見えていた。
気を持ち直して、少女がもう一度双眼鏡を覗く。
その時である。
「あれ?」
少女の視界に何かが映った。
遠くのそれは、奇妙な物体であった。
平面ばかりで構成され、言ってみれば歪な多面体である。
白いそれは前後に細長く出来ており、かろうじて船と見えた。
慌てて、少女が脱出艇に潜り込む。
次に出てきた時、少女の手には信号拳銃が握られていた。
「それっ!」
躊躇なく、少女が引き金を引く。
煙の尾を引いて、光弾が天に昇っていった。
しかし、船は少女に気づく素振りを見せない。そのまま、見当違いの方向へと進んでいく。
「くそっ!」
少女が悪態をつく。
まさしく千載一遇のチャンスである。
少女は肉体的にも、精神的にも限界であった。
事態は一刻の猶予も許されない。
「気付いてくれ!」
少女は残弾を惜しまず、全て撃ち尽くすことにした。
「頼むっ!」
最後の弾を撃った直後、船首が少女の方を向いた。
「やった! おーい、ここだ! ここだ!」
少女は上着を振って、船に呼びかけた。
◇◇◇◇
そこは変わった部屋であった。
高い位置から海を見渡せる点では、間違いなく船の船橋である。
一面に並ぶ窓は小さく、嵌められているガラスときたら、不必要なまでに分厚かった。
そんな狭い視界を補うように、複数のモニターがあちこちに埋め込まれている。
さながら、宇宙船の指令所といった案配である。
操舵席は在るものの、誰も使ってはいない。
少し奥まったところがヒナ壇状になっていて、中央に座席があった。
専用のコンソールで囲まれたそこに、一人の少年が座っている。
航路に気を払うわけでもなく、本を読みふけっている少年の歳は、十代の半ばに見えた。
黒髪に茶色の目をしていて、少しだけ整った顔立ち以外は、ごく普通の少年である。
だがしかし、その堂々とした態度から、少年が主と見るは容易い。
そんな少年の傍らには女が控えていた。
豊満な体つきをした、背の高い美女である。
女は航海士の制服をビシッと着こなしていた。ただし、肝心の表情はどこか硬く、銀髪に赤い目をしていて、透けるような白い肌は、どこか人間離れしていた。
「船長」
女が口を開いた。
「何?」
本から目を上げて、少年が聞いた。
「九時の方向に漂流者を発見しました。さっきから、照明弾を必死に撃っていますが……」
女は突っ立ったまま状況を報告した。
ちなみにこの女、窓から外を確認したわけでも、モニターを覗いたわけでもない。
「無視で」
少年が冷たく言って、手元の本に目を戻す。
「このままでは、干上がること必至です」
女が付け加えた。
「ふーん……」
少年は意に介さない。
「若い女性です。もっと言えば、可憐な美少女ですが」
「あっそ」
女が焚きつけるも、少年の態度は素っ気ない。
「船長」
食い下がる女である。
「却下。難民船になった覚えはない。あくまでこれは客船だよ」
本をパタンと閉じて、少年が拒絶した。
「しかしながら、人命救助はいい宣伝になります。いくら船長が倫理的に間違っておられても、そこは迎合すべきでしょう。いい客を求めるなら、外聞に気を払うべきです」
女が食い下がる。
「ああ、そういう見方もあるか……」
天井を仰ぎ見て、少年が考える。
二人の間に沈黙が流れた。
「……負けたよ」
少年が折れた。
「君の判断に従おう」
「了解」
やり取りが終わると、船は勝手に進路を変えた。