第二話 追撃と脱出(後編)
◇◇◇◇
人間とは、得てしてなかなか気を失わない。
鳩尾への当て身などは論外として、背後からの首筋への一撃も、また同様である。
もっとも、頸椎への有効打は大体において致命傷であるから、その点においてだけ、艦長の判断は賢明であった。
…――…――…――…
「ゲホッゲホッ!」
「ご、御免!」
咽かえる少女を抑え込み、艦長がもう一度詫びを入れた。
「ぐえぇ」
少女の首に、チョークスリーパーが極められる。
「きゅう……」
少女が意識を手放した。
「い、生きているよな?」
少女の呼吸を確認する艦長。
「……ふう」
無事な少女に、艦長が胸を撫で下ろす。
「貴女はここで死んではいけない……って、聞こえていませんね」
完全に伸びた少女に向かって、艦長が語りかける。
少女を担ぎ上げて、部屋から連れ出した艦長であった。
「戻ったぞ」
ブリッジに戻った艦長である。
「随分とお早いですね。あの強情な殿下が、ご納得いただけがけるとは……」
副長が訝った。
「……いや、ちゃんとご承知いただいたよ」
歯切れ悪く艦長が答えた。
「嘘ですね」
「うっ!」
副長の指摘に、艦長が声を詰まらせる。
ブリッジにいる乗組員が、耳を大にして二人の会話に聞き入っていた。
「それで、本当のところは?」
副長が怖い目をして、艦長を睨みつける。
怖気づいた艦長は、あっさり白旗を上げた。
「む、無理やり脱出艇に乗っていただいた。ちゃんと、敵からは見えないよう配慮したから大丈夫だ。燃料が切れるまで走った後、救難信号を出すように設定してある」
「……分かりました。非常事態ですから、どのようにして無理やり乗っていただいたかまでは聞きません」
艦長の説明に、副長が渋々納得する。
「助かる」
艦長が答える。
ブリッジに沈黙が流れた。
再び、敵の威嚇で艦が大きく揺れた。
窓の外には、大きな水柱が見える。
「さて」
艦長が言った。
「みんな手筈は分かっているな? 奴らに目に物を見せてやれ!」
「応っ!」
艦長の鼓舞に、全員が奮い立った。
◇◇◇◇
場所は変わって、脱出艇の中である。
オレンジ色をした、カプセル状の脱出艇であった。
「……うん? 私は一体?」
艇内で少女が目を覚ます。
「あっ!」
鳩尾への一撃を思い出し、少女が身を起こした。
「こらっ! 貴様不敬である――って、痛あっ!」
言い終わらないうちに、少女は天井に頭を強くぶつけた。
少女の背丈でも、脱出艇は狭い。
「痛たた……。ここは?」
頭を押さえながら、少女は涙混じりで上を見た。
濡れた視界には、見慣れない天井が映っている。
ついでに言えば、地面から伝わる揺れも船上のそれではない。
「あやつ、まさか勝手に……」
聡明な少女は、すぐに状況を理解した。
「確かこいつは、ここをこうすれば……」
記憶を辿って、少女がハッチの開閉レバーを弄る。
「よし!」
ハッチが開いて、少女が身を乗り出した。
漆黒の闇が少女を出迎える。
時化は穏やかになって、雨も小雨に変わっていた。
もはや波も小さいが、それでも小さな脱出艇には脅威である。
四方は真っ暗で、肉眼では何も見えない。
ハッチから僅かに漏れる、室内灯だけが頼りであった。
「くそっ! 何処だ?」
暗闇に目を凝らして、少女が必死に砲艦を探していた。
「あれか!」
遥か彼方が小さく光っている。
もっとも、脱出艇からは遠すぎて、何が何やら分からない。
「何かないのか、何か……。これだ!」
少女が脱出艇の荷物を漁ると、双眼鏡が見つかった。
「どうなっている?」
少女が双眼鏡を覗いた。
「なななっ?」
目に飛び込んできた光景に、少女が戦慄いた。
――砲艦が炎に包まれている。
傾いた艦体に轟々と燃え盛る甲板、さらには煙に包まれた艦橋ブリッジである。
それらは全て、戦闘の激しさを物語っていた。
これ見よがしに、敵の巡洋艦が横付けしていた。
「ぐぬぬ……」
少女が強く歯ぎしりする。
奥歯から血が伝って、海面へと落ちた。
「すまない! 私のために……」
もう会えない仲間を想って、少女が涙に暮れた。
「ええい! もはやこれまで!」
少女が佩いている飾剣に手をやった。
刀身がスラリと抜き放たれる。
あくまで儀礼用の刀であって、薄い刃は実戦向きではない。
それでも、自刃には事足りた。
この大海原で、少女が生き残ることは難しい。
敵に捕まれば、辱めも受けかねない。
「いざっ!」
少女が潔く首に刃を立てようとした時である。
波浪が脱出艇を襲った。
「わわわっ! 危な……ぎゃっ!」
手元が狂い、うっかり手を切る少女であった。
「……うん、やはり自殺はよくないな。何より死んでいった者たちに、申し訳が立たない」
滴る血を見て、少女が考えを改める。
「生き延びてやる。絶対生き延びて、いつの日か雪辱を晴らしてやる。それまで、首を洗って待っておれ!」
少女の宣戦布告であった。
もちろん相手に聞こえるわけはないのが、自己満足には十分である。
「痛たたた……。おっと、いかんいかん。救急箱はどこだ」
傷口に走った痛みに、少女が我に返った。
脱出艇のハッチがバタンと閉じられる。
海面を照らす光が消え、海は再び真っ暗となった。
真っ暗な海を、脱出艇は孤独に流離い始めた――。