第二話 追撃と脱出(前編)
◇◇◇◇
ところ変わって、大時化の夜の海である。
一隻の小さな軍艦が、波にもまれていた。
「面舵一杯! 艦を波に立てろ! 転覆するぞ!」
眼前に迫る大波に、髭面な艦長が声を荒げた。
「了解!」
指示に従って、若い操舵手が舵を切る。
一瞬波に飲まれたかに見えた艦は、すぐに海面に姿を現した。
ブリッジが安堵に包まれる。
「艦長!」
見張員が声を荒げた。
「何だ!」
艦長が怒鳴るように聞く。
「追手が来ます!」
見張員が悲鳴を上げる。
「クソッ! この忙しい時に」
忌々しく艦長が愚痴る。
「艦種と距離は?」
聞いたのは、艦長の横に控えていた副長である。
スラリとした美人の、女の副長であった。
「て、敵は大型巡洋艦。距離はおよそ一マイル。既に射程圏内に入っています。あ、どんどん近付いてきます!」
「何としても振り切るんだ!」
見張員の報告に、艦長が檄を飛ばす。
「波浪が高すぎます! そもそも、我々は海戦の専門家ではありません!」
操舵手が喚いた。
「総員戦闘配置!」
操舵手を無視して、艦長の号令が響く。
全砲塔が回転し、敵の方を向いた。
だがしかし、ささやかな抵抗である。
彼らの乗っている艦は、いわゆる砲艦であった。主に河川や沿岸部を得意とする、比較的小型の軍艦である。すなわち、洋上戦には適さない。
対する敵はと言えば、戦艦と見紛うほどの巡洋艦である。
両者の外洋航行能力には、天と地ほどの差があった。
戦力差などは、比べるのも馬鹿馬鹿しい。
砲艦が海の藻屑となるのは時間の問題である。
「敵、本艦と並走しています」
見張員が言った。
優速を活かして、巡洋艦は砲艦に並んでいる。
直後、砲艦に衝撃が走った。
「前方に至近弾!」
副長が叫ぶ。
「構うな! ただの威嚇射撃だ!」
怖気づいた乗組員を、艦長が叱咤する。
「ですが――」
「黙れ!」
言いかけた見張員を艦長が遮った時――。
もう一度、大きな衝撃が走った。
「距離が近づいていますね」
副長の耳打ちである。
「いいか、みんなよく聞け!」
副長の発言を無視して、艦長が言った。
「元より死は覚悟の上。今さら怖気づいたところで、どうにもなるまい。そうだろう?」
艦長が聞くと、乗組員は全員押し黙った。
直後、今度は断続的な金属音が走る。
「甲板に機銃掃射の直撃です。損傷軽微」
別の乗組員が報告した。
「気にするな。相手は殿下が目的だ。無茶な真似は出来ない」
艦長が言うと同時に、通信が入った。
「繋げ」
全乗組員に行き渡るよう、艦長が指示した。
『姫殿下の御身を引き渡せ。そうすれば命は助けてやる』
敵艦からの通信が、艦橋に響き渡る。
「駄目です」
副長が言った。
「副長の仰る通りです。あんなの嘘っぱちに決まっています。引き渡したが最後、我々は皆殺しにされます。そもそも、殿下の御身すら危ない」
「その通り。我々はあくまで、殿下の剣であり盾なのだ」
操舵手の意見に、艦長が頷いた。
「副長、こっちへ」
艦長が副長を呼んだ。
「君に指揮を任せる。私は殿下の下へ行く。こうなっては最後、脱出していただこう」
副長の耳元で艦長が囁いた。
「了解!」
副長が敬礼し、艦長を見送った。
◇◇◇◇
砲艦の一室である。
「殿下、お早く」
「嫌じゃ」
少女と艦長の押し問答が続いていた。
少女は己の意思を固辞しようと、艦長に背を向けている。
「ですが、姫様――」
「くどい! 私も最後まで戦うぞ」
艦長の台詞を遮って、少女は言った。
「大体だな」
言いながら、少女は艦長へと向き直る。
少女の長い黒髪がふわりと揺れた。
合間から覗く青い目が、艦長を厳しく見据えている。
飾緒の付いた青い軍服の少女は、年齢にして十代後半ほどである。
背は低いものの、小さい頭も相まって、全体のバランスは非常に整っている。
凛とした態度は、高い身分を抜きにしても、見る者にカリスマを抱かせた。
二重瞼の大きな目と、くっきりとした鼻立ちが容貌を整えており、美少女と言って差し支えない。
「他ならぬこの私が、お前たちを付き合わせたのだ。お前たちだけを置いて、おめおめと生き恥を晒せるものか」
言い終わると、少女は再び艦長に背を向けた。
「姫様……!」
感極まって、艦長が涙を浮かべた。
しかしである。
艦長は少女の震えを見逃さない。
貴人といっても、年端もいかない少女であった。
「姫様、私は貴女にお仕え出来て幸いでした。ご立派ですぞ」
感極まった艦長が、少女の毅然とした態度を称えた。
「そうであろ? だったら――」
「御免!」
少女が言いかけた瞬間、艦長の当身が少女の鳩尾に刺さった。
「くぁwせdrftgyふじこlp!」
声にならない悲鳴を上げて、少女が床を転げ回る。
「あれ?」
当てが外れて、艦長が首を傾げた。