第1話 北都
「うう、寒くなって来たなあ……」
夕暮れ時に、寒風が吹きすさぶ。
坂になった街道を一人歩く少女が、暗くなり始めた曇天の空を見上げ両腕をさすった。
ここは、『トゥアール王国』という国。
その中心にある王都から、さらに遠く北に位置する『北都』と呼ばれる大きな都だ。
この都は、地肌が露出した山なみを背にして、その麓に大きく広がっている。
そしてその先には、露天掘りの黒く巨大な穴ぼこが、ぽっかりと空いていた。
時折、この穴に入り込んだ風が異様な音を響かせ、北都の中でも聞くことが出来る。
その音は、獣の叫び声に聞こえることもあり、北都の子供たちを驚かせるのはよくあることだった。
『螺旋大孔』
この穴は、いつの頃からかそう呼ばれている。
北都が焼き物の町として始まった、その時から掘られ始めた粘土や鉱石の採掘場だ。
この都は、昔から陶磁器の生産と鉱石の産出で栄えてきた。それができたのも、この螺旋大孔があってこそ。その穴は、今も円周を徐々に大きくしつつ、新たな粘土や鉱石を求め下へ下へと掘り進められている。
そして、長年そうして掘り続けられてできた渦巻き穴が、螺旋階段に見えることから、北都は『螺旋の都』と呼ばれることもあった。ただ、この呼び名は知られてはいるのだが、あまり使われていない。それよりも、『三日月の都』と呼ばれている事の方が、余程有名だからだ。
「北都は、地上にあるもう一つのお月様」
街を訪れた者達に、住人達はお酒片手に楽しげに笑い、そう自慢する。成る程、確かにその通り。北都の背にあるなだらかな山を少し登れば、そう頷くことができるだろう。
この街は螺旋大孔を含めると丸い形をしている。街は螺旋大孔を両手で包み込むかのような形――三日月の形をしており、黒く見えるその穴は、月が欠けて暗くなる部分に見立てれるのだ。
三日月の姿を知っている者なら、誰もがこの北都をそう例えるだろう。また、夜になれば、住宅街に灯る無数の小さな明りたちが三日月の形に光るので、その姿がより顕著だ。
そして、この幻想的な夜景は、昔から歌や物語で使われており、王国内に広く知れ渡っている。これが、螺旋の都より、三日月の都と呼ばれ親しまれている理由だ。
北都では、この三日月に纏わる歌や物語を聞いて暮らし、育ってきた者達が多い。その歌は、日常で口ずさみ、酒の席で陽気に歌い、夜には子供たちへの子守歌。そして、物語は子供に聞かせ、寝かしつけることも。この都は、そんな情緒ある一面も持っていた。
「――うわあ、『天目のお山様』が白くなってるや」
両腕をさすっていた女の子が呟く。
彼女が見つめるその先は、白と橙色で埋め尽くされた煉瓦造りの古い住宅街。そこから点々と立ち上る煙の先、北都の背にある山並みを超えた、鉛色の北空の向こう。そこにぽつんとある、茶碗をひっくり返したような二つのお山――『双子天目』だ。
「どおりで寒いわけだよ……」
昨日までとは全く違う色をした、遥か遠くに見えるその山の変化に、彼女は顔を歪めた。ここの気候は王都に比べ一段と寒く、実りの秋はすぐに終わり白く長い冬が訪れる。そして、今まさに秋が終わりを告げ、冬の到来を知らせていた。それに気付いたようだ。
「天目様の白化粧ー、今年も冬がやって来てー、三日月様にも雪が降るー。さあさあ支度を始めましょうー。『薪竹』燃やして炭にしてー、たくさんたくさん炭にしてー。おっといけない忘れるなー、美味しいお酒を忘れるなー――かあ……」
昔から北都では、双子天目の初冠雪を冬の到来の目印にしていた。彼女が歌った『語り歌』と言われているこの民謡も、広く北都に知れ渡っているものだ。この地で生まれ育った人間で、この歌を知らない者はいない。
「あ、薪竹の量、大丈夫かな……」
冬が来ることで思い出したのか、ぽつり、そう独りごちた。
彼女の歌にもあったこの薪竹とは、荒野の多い北都の痩せた土地でもすぐに成長する『十得竹』という竹の一種を薪にしたもの。十得竹は、切っても切っても直ぐに成長し、十日もすれば大人の背丈ぐらいは伸びてくれる。
また、乾燥させた薪竹は火の持ちが良く、そのため炭としても薪としても利用され、樹木の少ないこの辺りでは燃料として古くから重宝されてきた。炭の方は、『北炭』といい、北都の交易品の一つだ。
ただ、冬の間は雪が多く積もる。それに阻まれ遠出するのも困難となり、十得竹も雪に埋まり伐採が難しくなる。よって、冬が始まる前に春先まで必要となる薪竹を備蓄しておくのが、北都での慣習となっていた。
そして、寒い冬を越すためにもう一つ常備されてきたのが、お酒である。ここでも、十得竹が活躍する。十得竹は、春の訪れとともに、新しい新芽――筍がぽこぽこと顔を出す。
この筍は、甘みを持ち食用でもあるが、切り刻み蒸かしたあとで瓶に蓋をして一か月程入れておくとお酒に変わり、これに圧搾と滓引きをして保存しておけば、半年後には飲み頃になるのだ。
春になるとこのお酒を造る為に、多くの人間が背中に籠を背負い、筍目当てで十得竹の群生地を目指す。
筍狩りは、北都の春の風物詩となっている。もちろん彼女も、ご多分に漏れず筍狩りに向かう。ただ、この子の場合、お酒を造るのが目的ではないのだけれど。
「美味しいお酒ね……。ふっバカバカしい。私はお酒よりご飯だよ、ご飯。あれは煮付けにするのが一番なの」
筍は、食すもの。彼女の中では、そうなっているのである。まあ、まだお酒を飲む歳ではないし、他の子供たちにとっても筍は美味しいご飯の一つだ。ただ、ちょっとこの女の子は、食に対する思い入れが常人とは違っている節がある。
「丸齧りするのもいいな。筍まるごと一本を、朝から一日かけてコトコト煮込み、出汁が染み込んで柔らかくなったのをがぶり、ばきっ……。あの豪快さ、堪らないよ……。でへへへ……」
こんなの事、普通年頃の女の子は口にしない。思いもしないのではないか? しかも、口許から少し涎が出ており、表情もにやけ危ない感じがする。
「それから――」
そう続けようとした時、彼女の妄想を止める音が聞こえる。
「ごるるるるる……」
お腹の底から、豪快な音が鳴り響いた。
「…………はあ」
立ち止まり溜息をついくと、坂の下に見える住宅街に目を向ける。そして、その中にある自分の家から立ち昇っている煙を見つめた。
「夕ご飯何だろなあ……。って、いつも決まってるよね。はははは……、はあ……」
そう肩を落としながら、彼女は自分の家に向かって、再びとぼとぼと歩いていく。
――切ない。彼女の後姿に、哀愁が漂う。
茶色の髪の毛。頭の天辺と左右で三つに分けて三つ編みにし、後ろで纏めている。そして、それをさらに三つ編みにして編み込み、背中の真ん中あたりまで垂らしている彼女独特の髪。それも、どこか元気なく揺れている。
この女の子が、ここまでしょぼくれている理由は何なのか? それは、この坂道の上にあった。
『北天神社』
武術の神様『カトゼ』を祀る神社であり、王都にある『カトゼ大神宮』の北分社だ。山の麓近くに建立された神社で、彼女が先程までいたのが、坂の上にあるこの北天神社だった。