猫の行き先・その3 ミルクティーの匂いに誘われて
大学に合格して春から独り暮らしを始めた矢先、運良く雇ってもらったコーヒーチェーン店の店長人を見て、斎藤望は「この人こそ……私の運命の人だ」と思いたくなる一目惚れをする。
望が一目惚れした店長の副島真人は、天然のゆるウェーブの髪をワックスでオールバック気味に整えているスラッとした細身の大人。そして、バリスタのような制服が実によく似合う男性だった。望のシフトは週三日から始まったが、今では土日も喜んで働いている。もちろん、真人の姿を見るためだ。
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望が真人との事を少しだけ知る事になった出来事が起こったのは、そろそろ芯まで凍えそうな程寒くなってきた十二月の事。
望のシフトは遅番で、もちろん真人がいるシフトだった。閉店時間も過ぎてようやく後片付けを終わらせたとき、ふと望の耳に男性スタッフ達の話し声が聞こえてくる。
「そういえば、店長の奥さんが亡くなって、もう二年でしたっけ?」と最年長の男性スタッフは言った。
「えぇ、月日なんてあっという間ですね」と真人。ふと、何かを思い出したように彼の言葉は続いた。「そういえば、彼女が亡くなる年の春に作ってくれたスコーンとジャムを覚えていますか?」
「はいはい、覚えていますよ。あのジャムは美味しかったですね。市販されているモノに比べて甘さも抑えてあって、何より苺とは違った良い香りがするジャムでしたね」少しの無言の後に男性スタッフの声。
― そんなジャムが……本当にあるんだろうか? ―
望は彼らの会話に耳を向けながら、思わず首を傾げた。
「今でも、無性に食べたくなるときがあるんですよ……」と店長。
その話を聞いていたら、望も店長達が食べたジャムをどうしても食べたくなってしまった。
― どうにか、レシピを探し出せないかな? ―
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真人に頼んで作ってもらったロイヤルミルクティーで暖を取りながら帰り道を歩いていると、突然目の前に“ヒュッ”と音を立てながら何かが現れた。望が小さな悲鳴をあげながら思わず立ち止まると、「ニャ~」という人懐っこそうな声が聞こえてくる。恐る恐る足元を見ると、そこには小さいが形の良い黒猫が望の事を見上げていた。
「何だぁ、驚かさないでよね」
その場にしゃがみ込んで黒猫の頭を撫でてあげると、逃げ出さずに気持ち良く喉をならす。
「君は随分と人に慣れているんだね」
望が満足するまで撫で終わったとき、黒猫はショートサイズの容器に入っているロイヤルミルクティーに鼻をヒクヒクとさせ始めた。それを見て望は思わず苦笑してしまう。
「うーん、確かにミルクは入っているんだけど……」
望は少しの間考えると、暑い容器を持つために付いている厚紙のスリープを取り外した。そして、そのスリープを黒猫の頭に被せてみた。
「ほら、帽子みたいでカワイイよ。これは飲ませてあげられないから、今回はそれで我慢してね?」
黒猫は何かを考えているかのように眉間にたて皺を寄せていたが、写真を撮ろうと望が携帯電話を向けた途端に細い路地の中へ走り去ってしまった。
「撫でられるのは平気だったくせに……」
望は黒猫が走り去った細い路地を恨めしそうに眺めていたが、寒さを纏ったつむじ風が音を立てて拭き抜けたことで我に返る。
「そうだ、早く帰ってジャムの事を調べないと!!」
望は最後にもう一度だけ、黒猫が走り去った方を振り返った。そして、長袖の裾でまだ熱いショートサイズの容器を持つと、冷たいつむじ風に背中を押されて歩き出す。
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部屋に帰ってくると、ソファーテーブルの上に置いてあるノートパソコンを起動させた。とりあえず、調べたい事は大抵わかるインターネットに頼ってみることにする。望はだらしなく床に座り、クレンジング液を滲ませたコットンで顔を拭きながら、次々と検索をしていった。検索するキーワードが間違っているのか、苺ジャムの作り方は見つかるのに"苺とは違った良い香りがするジャム"というに関しては検索されない。しかし、望の化粧がサッパリ落ちたころにようやく一つのホームページを見つける事ができた。そこに載っていたのはレシピではなくて、二年前に発売されていた雑誌の名前。しかも、ホームページ上ではすでに在庫は無いと表示されていた。
雑誌の名前だけがわかってもしかたないと途方にくれていたとき、望はこの雑誌をバイトの誰かが読んでいた事を思い出す。
― 確か……そう、あの人だ ―
携帯電話を取り出すと、最年長の男性スタッフに電話をしてみた。彼はコーヒーチェーン店で働く前はどこかのレストランで料理人として勤めていたそうで、料理の事で困ったときに電話をすると判りやすく的確にアドバイスをしてくれる。
「もしもし」という男性スタッフの声が電話越しに聞こえたので、望はこれまでの出来事を一気に説明した。同時に「自分は、店長の事が大好きだ」と男性スタッフに力説してしまった事に気付く。
― 私……凄く恥ずかしい事を言ってしまったわ…… ―
望の顔は一瞬で真っ赤になってしまった。
「そのバックナンバーを探し出せたら、こちらから電話しますから」と通話を切られて十分後。いや、その数倍は待ったのではないか?と思いながら、男性スタッフから掛かってきた電話を取った。
「お待たせしました。見つけましたよ」と男性スタッフの声。
望は小躍りしたくなるのをグッと堪えながら、紙にペンを走らせていく。
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雑誌に書かれている内容と一緒に、色々なアドバイスとハーブティを安く売っているお店まで男性スタッフに教えてもらった次の日。望は材料を買い揃えてジャム作りに取り掛かっていた。
二パックの苺を洗って水気を切りながらヘタを取っていくと、望と台所は苺の甘い香りに包まれる。何か誰よりも早く春を感じられたような気がして、少し幸せな気分になりながら鍋の中にヘタを取った苺と、その重さの七十~八十パーセントの砂糖、レモン汁を振りかけた。
そのまま約三時間は置いておかないといけないので、この間に買って見ていなかったDVDを見る事にする。引越し祝いに集まった六人が織り成す物語の映画を見て、すごく薄い短編小説を読み、洗濯物を取り込んだら、ちょうど良く約三時間となった。
鍋の中は、苺から出た水分で入れた砂糖を半分ぐらい溶かしている。そのまま一度砂糖が完全に溶けて沸騰するまで火にかけた。甘い香りが増していくと、鍋の中の液体が真紅色に変わり始める。
沸騰したら火から外して苺の実だけを取り除き、残ったシロップを温度計が百六度を示すまでひたすらアクを取りながら煮詰める作業だ。望は首にタオルを巻くと、温度計を睨みながら慎重にシロップからアクを取り除いていく。
ラジオから聞こえる番組を一プログラム最初から最後まで流れる程時間が経過すると、ようやく温度計が百六度を指し示した。その間、何度タオルで汗を拭ったことだろう。
「何だか、甘ったるい香りがするサウナの中にでもいるみたい……」
百六度に達したシロップに苺の実とラベンダーのハーブティを入れて、今度は百五度になるまで煮詰めていく。焦げないように、漂う香りの変化とシロップのトロみを気にしながら再びアクをとっていった。
― あの人が美味しいって言ってくれるジャムが出来たら、この恋が実りますように…… ―
何かジャムに魔法をかけているような気がして、望は小さく笑った。
「出来た……」
粗熱を取り、煮沸消毒した密閉容器に完成したジャムを流し入れていくと、大きい瓶が一つと小さい瓶を一ついっぱいにする。望には真紅色のジャムを詰め込んだ瓶が、まるで魔法の薬ように見えた。
「一晩冷やしてから、小さい瓶に入っているジャムを味見しようっと」
ラベンダーの香りと苺の味が恋の媚薬となるか毒となるか、望は期待で胸を膨らませる。