その3 バイトも終わり
「最果て食堂」ランチは午前十一時から午後三時までで、ディナーは午後五時から十一時まで。閉店時間は特に決まっているわけではなく、だいたい深夜の二時を回ってお客がいなくなった時点で店先の照明が消された。その後で食器を洗い、店内を掃除し、厨房を片付けて明日の用意ができるように整えると、夜中の三時を回ってしまうこともある。
「今日は大変だったねぇ」
私より身長が小さくて笑顔が可愛い七恵ちゃんが、腰まである黒髪を揺らしながら背筋を伸ばす。そして、ハーフサイズの瓶ビールを美味しそうに飲み始めた。私もそれにならってビールを飲み、まかない食を一口食べる。
「水曜日は商店街のミニシアターがレイトショーをやっているからね」
宇奈月さんはカウンターの奥で最後の一品を作っていた。
「そういえば、聞いてくださいよぉ」
ミニシアターで現在上映されている映画の話題で盛り上がった後、七恵ちゃんは話題を変えた。
「今日、この食堂へ歩いてくる途中で小さいけど形の良い黒猫を見かけたんですよぉ」
語尾に余韻を残す彼女独特の声で「黒猫」と聞いたとき、私と宇奈月さんは思わず顔を見合わせる。
「その小さい黒猫君ったら、眉間に皺を寄せて難しい顔をしたまま通り過ぎちゃってぇ」
小さい子供のように頬を膨らませた後、彼女はジーンズのポケットから何かを取り出してカウンターの上に置いて見せてくれた。それはコーヒーチェーン店で見かけるモノで、熱くなった紙カップも持てるように被せられているスリープである。
「……あれ?」
七恵ちゃんが見せてくれたスリープを見て、私は首を傾げてしまった。カフェオレが好きでこういうお店によく行くけど、このスリープに印刷されているマークを使っているお店は見たことがない。
「これ、どこのお店で使っているんですかね?」
そんな疑問を口に出してみると、七恵ちゃんが得意そうに「そうでしょ?」という表情を浮かべた。
「そうなんですよ。常連のお客さん達にも聞いてみたんですけど、この商店街にそういうお店は無い……って言うんですよぉ」
カウンターにチキンライスを鍋ごと持ってきた宇奈月さんも、そのスリープを覗き込む。
「うーん、商店街の反対側に新しく出来たスーパーとかは?」
七恵ちゃんが黙って首を横に振った。私は夜に来る常連さんの中で、新しいスーパーのパートタイマーを始めた人がいた事を思い出す。
「それにしても、今日は不思議な黒猫が大活躍だね」
宇奈月さんが七恵ちゃんに今朝の出来事を説明するとカウンターの上に紙切れを置き、私は自分の小指にはめているエメラルドグリーン色の指輪を見せた。
「その黒猫君は、一体どこでこういうモノを拾ってくるんでしょうかねぇ?」
宇奈月さんは腕組みをすると、大げさに首を捻ってみせる。
「そうだなあ。猫は人間が通れなさそうな細い路地もスイスイ入っていけるから、それを突き止めるのは難しいんじゃないかな」
彼の言葉を聞いて、私はこの間読んだ本の一文を思い出していた。
「人が作った道と場所の中に、誰かが、猫だけが行ける道と場所を作ったんだ……」
その言葉を聞いて、二人は一斉に私の方を見る。
私は、自分で言った言葉が急に恥ずかしくなってしまった。
「さ、最近読んだ本の中にそんな一文があったんですよ」
何か思うところがあるのか、七恵ちゃんが何度も頷いてみせた。
「人が作ったモノって隙間無く完璧に作ってあるように見えても、どこかに隙間がありますからねぇ」
宇奈月さんは端にサラダを乗せた白い丸皿へチキンライスをよそうと、私達の前に置いていく。
「隙間無くピッタリとしたモノも良いけど、この白い皿の余白やチキンライスのお米のように適度な隙間があってこそ……ゆとりや空想が入り込めるんじゃないかな?さぁ、食べよう」
「はーい」
「いただきますぅ」
私達はスプーン一杯によそい、小さいな隙間が沢山あるチキンライスを口いっぱいに頬張った。