猫の行き先・その1 ナポリタンの匂いに誘われて
片瀬祐一は、同い年の恋人である山瀬佳代が「お腹空いたー」と言いながら弱々しそうな顔を見せるので、そこが雑貨屋の中であることを忘れて大笑いしてしまった。
今日は期末試験の答案返却日。今回は今までの試験とは違っていて、「苦手な教科で高得点だった方が、何かを奢ってもらえる」という約束を二人はかわしていた。結果は祐一が六十八点で、佳代が七十七点。二人ともちょうど部活が休みだったので、雑貨屋へ寄り道をしていた。そこで祐一が佳代にオゴらされたのは、五本の指に一つずつはまる五つの指輪。それらは一つ一つ色が違うプラスチック製の透き通った指輪で、親指が赤、人差し指が青、中指が黄、薬指が紫、小指が緑だった。
「いつもは祐一がお弁当作って来てくれるのに」と佳代は頬を膨らませる。
― 指輪を買ってもらったんだから、もっと喜べよなぁ…… ―
買ってもらった嬉しさより空腹が勝っていた佳代を見て、祐一は思わずため息を漏らしてしまった。
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祐一の家庭は父親が交通事故に遭ったことで、母はパートタイマーとして働きに出ていた。しかし、仕事の疲れとストレスからなのか、ここ一年は一切の家事を放棄してしまっている。他に誰もいないので、祐一が母に変わって家事を行うようになった。家事をするようになってから自分のお弁当を作るようになったのだが、ある日それを佳代に知られてしまう。
「材料費あげるから、私の分も着くって」と佳代が本当に材料費をくれるので、今では彼女のお弁当も作っている。聞けば、母子家庭の佳代は親子揃って料理が苦手なのだそうだ。
「どこかで、お昼を食べていこうか?」
祐一が食べたいモノを考えながら言うと、「祐一の家に行こう」と佳代が言い始める。
― 親のいない時間に恋人の家に行きたいだなんて…… ―
高校生が思いつく限りのロマンチックな妄想が祐一の頭を駆け巡っている最中に
「今日のお弁当変わり」と、当たり前だと言わんばかりに彼女は言った。
― 色気より食い気かよ。まぁ、ここから家までなら近いから外で食べるより安上がりか…… ―
祐一は佳代の意見に同意することにした。
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祐一の家に着くと、佳代はすぐにリビングのソファーに身を沈めて、置いてあった雑誌を読み始める。祐一はそれを横目で確認しながら、冷蔵庫に入っている食材を確認していった。
「あんまり手間をかけずに、美味しそうなのね」と佳代から先制される。
― ご飯もパンも残ってないから、ここはパスタだな ―
深い鍋と普通の鍋を取り出してたっぷりの水を入れてから火にかけると、その間にニンジン、ピーマン、玉葱を薄切りにする。先に沸騰した普通の鍋でトマトの皮を湯剥きするのに使った後、切れ目を入れたソーセージを放り込んだ。
ゆであがったソーセージの匂いがしたのか、気がついたら佳代が隣に立っている。
「つまみ食いするなよ」
とクギを刺すと、佳代は肩を落としてリビングの方へ戻っていった。
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深い鍋のお湯が沸騰したので、少し塩辛い程度に塩を入れてからパスタを鍋の中に入れる。ソーセージを茹でた鍋は湯を捨てて軽く水洗いし、オリーブオイルとスライスしたニンニクと鷹の爪を入れて火にかけた。ニンニクの香ばしい匂いが漂いはじめ、鷹の爪の色がオリーブオイルに染み出し始めたのを見計らって、乱切りにしたトマトを鍋の中に入れる。焦がさないように鍋の中を混ぜていき、トマトの水気が出て形が崩れはじめたらオレガノとローリエ、それに少量のクッキングワインを入れてひと煮立ちさせた。蓋をして火から降ろし、今度はフライパンで薄切りにした野菜とソーセージを炒めていく。
ゆであがったパスタとゆで汁を少し加えて軽く炒めると、さっき作ったトマトソースを入れた。ソースをからめながら、味を整えれば料理の完成。
祐一は白いお皿にトマトソースのパスタを盛りつけた。付け合せはサニーレタスと水にさらしておいた薄切りの玉葱とスライスチーズに酢とオリーブオイルをかけただけの簡単サラダ。それらを持って、待ちきれない表情を浮かべた佳代がいるリビングへ。
「いただきます!」
二人して声を合わせると、最初にトマトソースのパスタを口に運んだ。味見をしたけど、いつも通りの味付けに祐一はホッと胸をなで下ろす。
― ミートボールも作れば良かったかな…… ―
と思ったら、「うーむ、ミートボール入れたら美味しいかもね」と佳代に思っている事をズバリ言われてしまった。
「でも、これだけでも十分おいしい!」と、佳代はいつもお昼ご飯中に見せる満面の笑みを今日も祐一に見せる。
「このトマトソースのパスタさ。今入院している父親から最初に教わった料理なんだ」
「もしかして、祐一の料理って全部お父さん直伝?」と佳代は目を丸くして驚いた。
― そういえば、そこら辺の事情を佳代に話した事は一度も無いな ―
「父親が言うには、本当は他に具を入れないトマトソースとパスタだけのシンプルな料理なんだってさ」
「シンプル・イズ・ベストってヤツね」佳代は何かを納得したように何度も頷いて見せた。
そのとき、リビングのガラス窓が控えめながら何度も何度も叩く音が聞こえてくる。「何だろうね?」と佳代がお皿を持ったまま窓を開けると、小さいが形の良い黒猫がそこにいた。
「家の庭が猫の通り道になっているのは知っていたけど、お前は初めて見る顔だな」
「美味しそうな匂いにつられてやってきたんだよねぇ」佳代はそう言いながら左手にパスタを乗せると、黒猫に差し出す。黒猫は数回鼻をヒクつかせると、ペロリと平らげてしまった。
「ちゃんと玉葱は食べさせてないだろうな?」
「もちろん……っあぁーーーーーーーーーー!!」佳代が驚きの声をあげる。
祐一が彼女を見ると、手についたトマトソースを舐め取っていた黒猫が何時の間にか小指の指輪を抜き取って走り去っていくのが見えた。
「買ってもらったばかりなのに」とうな垂れる佳代。
祐一は彼女を慰めながら、トマトソースで汚れている手をウェットティッシュで吹いてあげる。
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そんなハプニングもあったが、二人のお皿の中にあったパスタとサラダは綺麗さっぱり無くなっていた。
「今度はウチに晩御飯も作りに来てよ。お母さんにも食べさせてみたい」と佳代が言い出した。
「そんな事したら、朝ご飯も……って言い出しそうだな」
「それは、ありえるね」と佳代が不吉な笑みを浮かべるので、思わず祐一は思わず苦笑いしてしまう。
そんな事になったら、専業主婦ならぬ専業主人になりかねん。
そろそろ後片付けをするために食べ終わった食器を重ねて台所へ行こうとすると、不意に佳代が祐一の肩を叩いてきた。
「何?」
と言いながら振り向いた次の瞬間、祐一は視界を手で覆い隠された後で、唇に何か柔らかい感触が重なるのを感じた。
― キ、キスだ!! ―
あまりに突然の出来事で、危なく重ねて持っていたお皿を床に落としそうになってしまう。柔らかい感触と視界を隠していた手が離れると、そこにはご飯を食べているときと同じ満面の笑みを浮かべた佳代が立っていた。
「どう、どうよ、ファーストキスの味は?」と佳代がせかしてくる。
「……トマトソースの味がした」
祐一は、佳代に頭を小突かれる羽目になった。