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[1]

 夕陽が赤い裾を山向こうへ引っ張り込む。

 残された薄明の中、アナタはまた思い出そうとしている。

 (何か、大事なことを忘れている様な…。)

 自分が、いつも、いつも、そんな考えに駆られているのは覚えているのだ。しかし、どうしてだか、『大事なこと』が何かは思い出せない…いつも、いつも…。

 また今日も、忘れている事を思い出す前に、一番星を見つけてしまった。

 宵の口の空から視線を足元へ落として、それでも、アナタはまだ思い出そうとしている。

 (思い出そうとするのを止めてしまったら、空っぽの頭に他の記憶が流れ込んできて…忘れていることさえも思い出せなくなる。そう思うと…怖くて…考えずにはいられない。…そうだ。思い出せない事が、こんなにも恐ろしくて、こんなにも歯痒いのは、やっぱり、自分が大事なことを忘れているからに違いないんだ。どうにかして思い出さないと…。)

 アナタは(まばた)きするのも忘れて、足元の…更に下へ、下へ、延々と続く石段を見下ろした。

 辺りは随分と暗く、こう見通しが利かなくては、例え石段の上に『大事なこと』が転がっていても、解かるまい。そして…おそらくは、アナタも同じ様な意見を持っているのだろう。

 なぜなら、アナタは座り込み石段の先を見下ろすばかりで、一向に立ち上がろうとする気配を見せない。ちょっと、気分転換の散歩がてら石段を降りてみようと…そんな素振りすらないのだ。

 それなのに、アナタの瞳は異様なほど真剣に、石段の隅々を注視している。…偶然ではないのかも知れない…忘れていることを思い出そうと、アナタがここに座り込んだのは…。

 わずかな星明りを頼みに、目をギラつかせ暗闇の底を覗き込む。石段を降りた先にあるのは、何の変哲もない人道。それをよく知っているはずのアナタが、目を離せない。考える事を止められない…。

 眉間に皺を寄せ、身体は前のめりに丸まっていく。その背中へ後ろから声が掛かる。

 「空に落っこちるよ。あんまり、足元ばかり見ていると…。」

 唐突な女性の声に、ギクリッ、前のめりに成っていたアナタの肩が両膝を叩く。この時、もしも両足が踏ん張っていなければ、でんぐり返しで石段を転がり落ちて…。さながら、背後の女性の言った通り、『空に落っこちる』事と成っていただろう。

 「ほら、言わないことじゃない。これに懲りたら、もう石段には近づかない…。私が口を酸っぱくして、忠告している通りにね。」

 女性の声は、近付きつつ、揺れる息使いを交えつつ、背後へ歩み寄る気配を伝えていた。

 真後ろでアナタを見下ろす高さから始まり、アナタの右隣に回って、それから、温かい吐息が耳元へ…。声の印象から察するに、かなり若い女性な様だ。

 アナタは両足を抱えた不格好な有様から、上体を起こして、

「『空に落ちる』か、星が目の前を行ったり来たりして、さぞ綺麗だったろうな。」

と、隣に腰掛けている女性へ、笑顔を向けた。

 石段から一望した夜空は、いつの間にか(まばゆ)い星々で溢れている。それは(あたか)も、地上に激突した流れ星の破片を、無数に散りばめたかの如く…。天と地を、上と下を、陰と陽を、絶え間なくひっくり返す、不思議な光景。

 その星空を背景に、ぼんやりと、夢心地で見つめられた女性は…別に、自分が『綺麗だ』と言われた訳ではない。それは、重々承知の上で…。まぁ、雰囲気によっては、恥じらって見せるのも女の甲斐性であろう。膝を抱え、小さく(うな)る。

 「また寝惚けた事を言って…。折角、足音忍ばせて近付いてみれば…張り合いがないったらない。」

「お前、(わざ)と脅かそうとしたのか。勘弁しろよな、危うく死ぬところだぞ。」

 彼女の軽口に、物騒な言葉で返す、アナタ。その割に、両手を組み、腕を星空へ突き上げる仕草も…あくびの様な声も、(はなは)だ緊張感を欠いていた。

 伸び上がった身体を後ろに倒して、アナタは大きな塊に背中を預ける。彼女は抱えた膝に頭を付けながら、さも嬉しそうな笑みを浮かべ、

「いやぁ、私も、危ないなとは思ったんだけどね。だけど、ほら、昔の誰かが言ったじゃないの。」

 傾いだ双眸(そうぼう)へアナタは、目線だけ右に向け見つめ返し、

「どんな事を…。」

 彼女は答える前に、不敵で、蠱惑(こわく)的な苦笑を漏らした。

 「自分の旦那が夕飯に遅れる理由は二つだけ…。路傍(ろぼう)で野垂れ死んでいるか、それとも、余所(よそ)の女とよろしくやっているか。」

「ほぉほぉ、それで…。」

 「その人は、旦那が夕飯に遅れる度、死んで転がっていれば好いと思ったんだって。」

「ほほぉ、なるほどねぇ。…で、俺の様に誠実な男の何が、そこまで不穏なジョークをお前に連想させたんだろうな。後学の為に教えてもらえないか。」

 「うーんっ、それはねぇ…。」

 ちょっと勿体つける様な、甘ったるい彼女の声。急に火照り出したアナタの喉元が、尻に敷いた石段の冷たさを思い出させる。

 ようやく顔を向けたアナタへ、一層嬉しそうに笑って、彼女が口を開いた。

 「若い男がああも真剣に凝視すると言ったら…決まりでしょ。」

「いやいや、決めつけられてもな。…濡れ衣ですよ。」

 「ほんとかなぁ。驚かされたのに文句の一つも出ないのは、やましい事をしていた自覚があるからなんじゃないの。どこのどちら様に見とれていたのか、素直に答えるなら今の内だけど…。」

 冗談言の様に、だが思いがけず執拗に…彼女の追及は続けられた。

 汗ばみ、弱り切った吐息を漏らして、アナタはベッタリと頬を撫でる。そのうんざりした様子が気に入らなかったか、それとも…。彼女は不意に笑顔を凍りつかせ、ポツリッと、呟く。

 「それとも…。それとも、文句を言ったら、私に追い出されるって思ったとか…。」

 彼女の冷然とした語気に、自然、アナタの表情も硬くなる。

 夜は深まり、新月の影が見つめあう二人を覆う。しばしの間、彼女の視線を真っ直ぐに受け止めていたアナタは…。胸を張り大きく息を吸い込むと、冷えて重くなった場の空気を鼻息で吹き飛ばした。

 「馬鹿言うなよな。」

 そう言うと手を伸ばして、空気と一緒に、彼女の頭の大きなリボンも揉みくちゃにする。

 グイグイと、頭を、身体を揺す振られている内、彼女の顔も少しずつ穏やかに…少しだけ切なげに…微笑んでいった。

 仕上げに、ポンッとリボンごと頭を叩いて、アナタは笑気を吐き出す。

 「だいたい、こんな足元の怪しくなる時刻を選んで参拝しようなんて奴、『うち』の神社に限って来る訳ないだろ。」

「あっ、それ…我が博麗(はくれい)神社の、社殿に御座(おわ)す神様と、巫女(みこ)である私を軽視した発言だよね。…まっ、うちの神様は誠実なお方だから…事実を言う者を、罰しようとはなさらないだろうけど…。命拾いしたわね。」

 「なるほど、俺が命を転がり捨てずにすんだのは、ここで『神様のお陰』という結論に至るのか。流石は、当代随一の巫女の博麗霊夢(はくれいれいむ)さんだな。講釈の垂れかたにも無駄がない。」

「謙遜すべきなんでしょうけど…残念。私も巫女として、嘘を言う訳にはいかないもの。」

 打てば響く様な、小気味の良い霊夢との会話。楽しげな笑気を吐き出すアナタに、彼女も釣られて笑いだす。

 辺りはもう真っ暗。星明りがかろうじて鼻先を照らしている以外には、前も後ろも、右も左も、解かりそうもない。

 アナタは苔生(こけむ)した石段の上に手を突き、立ち上がって、

「さてと…。霊夢の作ってくれた夕飯を、食べに帰るとするかな。」

 「あれっ、私、『夕飯できましたよ』って言いましたっけ…。」

「おいおい、忘れたのか。言っていたろ、『道端に転がってくれていた方が好い』ってさ。」

 霊夢は潰れたリボンの形を整えながら、『ああ、そう言えば』とでも言いたげに、茶化す様な笑みを浮かべる。

 「まったく、霊夢には敵わないよ。ところで…。」

と、アナタは背もたれにしていた塊に触れ、

「『これ』がここにあるんだから、社殿もこっちの方なんだよな。薄ら、家の灯りが見える気もするし…。合っているか、方向。」

 そう言って見下ろした霊夢の姿がアナタには、どうやら、両腕で丸を作っている様に見えたらしい。ちょっと、得意げな声で問い掛ける。

 「マルだな。」

「いいえ、バツよ。」

 危なっかしいアナタへ知らしめる様に、キュッと、音を立てリボンを結ぶ、霊夢。

 耳に届いた物音で、やっと勘違いに気付いたらしく…アナタは、

「ん…。」

 その聞いただけで不安を掻き立てられる(うめ)きに、呆れた様な、可笑しそうな溜息が重なった。

 「だから、私がいつも言うの。日が暮れる前には、家へ帰ってらっしゃいよって…。」

 シュッと、マッチを擦る音。アナタは眩しそうに目を細めるとまた、小さく呻く。

 「準備の良い事だな、まったく…。本当、敵わないよ。」

 どこから、それにいつの間に取り出したのか。霊夢は折り畳んだ提灯(ちょうちん)を隣に置くと、その中の蝋燭へ火を移す。それから、ふっとマッチの火を吹き消しては、一言。

 「持つべきものは、美人で、気配りの出来る恋人でしょ。」

 アナタは楽しそうに、うん、うんと頷いて見せてから、

「そうだな。」

 これでもう、彼女がどこに提灯を隠し持っていたのかなんて瑣末(さまつ)な疑問は、吹き飛んでしまったであろう…。

 蝋燭の灯火へ、蛇腹に折られた提灯の覆いが被せられた。

 和らいだ光を下げた棒を持ち、霊夢が立ち上がれば…。二人の姿とともに、アナタの傍の塊にも光が当たる。

 大の男が背もたれにしていた位だ。かなりの大きさがあるのは知れていた。…それも、灯りの下でみれば、なお納得がいく。

 どっしりとした塊の正体は背負い(かご)。かてて加えて、色々な野菜を満載し、零れんばかりに積み上げた背負い籠である。

 割竹を編んだ丈夫そうな胴回り。その隙間からは、カボチャ、タマネギ、ジャガイモ、キャベツ、レンコンが見える。籠の上の方には、ナス、トマト、キュウリ、アスパラやセロリまでが、(うずたか)く積み上げられていた。

 腰を落とし、籠に取り付けられた負い(ひも)へ腕を通す、アナタ。

 霊夢は籠に向けられていた提灯の火で、さりげなく足元を照らして、

「今日もまた豊作だったんだ。畑は上手くいっているみたい…でも…。あんまり、無理しないでよね。」

 「大丈夫だよ。霊夢の()った綿入りの紐のお陰で、痛い思いもしないで済むし…よっと。何より、次から次に(みの)る野菜を、ただ腐らせるのは勿体ないだろ。」

 担ぎ上げた努力の結晶を背に、よろめきながら、アナタは霊夢の照らす方へと歩みを進める。暗くてよくは解からないが、二人の背後に見上げる程の高さの柱が伸びている様だ。

 アナタはその柱に手を付きながら、影踏みをするかの様に、提灯の火影(ほかげ)を追って行く。

 それは、石段を上り切って、足が白い砂字についた時であった。…歩を進める度、揺れ動いていた籠、野菜の山…そこからジャガイモが一つ、石段の方へと転がり落ちる…。

 「おっと…。」

 砂地を叩く小さな物音に気付き、アナタは歩みを止め、石段へ振り返った。

 ジャガイモが提灯の照らす範囲を抜け出し、見えなくなったと同時に、物音も止まる。音の具合からすると、五、六段…。今しがたアナタたちの座っていたよりも、下にありそうだ。

 それを頭で勘定するとアナタは…また、トマトやら、タマネギやら、丸いのを落っことしては敵わない…焦らず、ゆっくりと霊夢を顧みる。どうやら、こちらには気付いていない様だ。

 どんどん離れて行く楕円形の光を見送りながら、アナタは意を決して、背負い籠を地面に置く。

 視野の悪い暗がり、それも提灯の明りに目が慣れてしまっている。籠を下ろした途端、(くら)んだ目の前の覚束なさに、足を滑らせ、つんのめりそうになった。

 それでもアナタは、慎重に負い紐から腕を抜いて、一歩、また一歩と、足場を確かめ石段へ近付いて行く。

 頼りは星明りだけ…。ようやく目が暗闇に馴染み始めた頃、ゴツンッと、左肩を太い柱にぶつけた痛み。

 (危ない、危ない。)

 ズキッ、ズキッと、鈍痛が尾を引き、指先が熱くなる。しかしそんな痛みよりも、足を踏み外しかけた冷や汗と、耳の奥まで突き上げる様な心臓の鼓動の方が、アナタには厄介であろう。

 柱から手を離さずに、(はや)る気持ちと、呼吸を落ち着かせながら、一段下へ足を下ろす。

 (これも、博麗神社の神様のご利益かもな。まったく、危ないところで命拾いを…命拾い…。)

 二段目に踏み出そうとしたアナタの足が、空中で止まった。

 (あたか)も柱から伸びた腕に引っ張られたかの如く、片足立ちの、奇妙な態勢で立ち尽くす。それがこんな暗闇の中では…。

 言わない事じゃない。アナタはバランスを取ろうと、ふらふら、身体を揺らし始めたではないか。

 いよいよ、いつ石段を転がり落ちてもおかしくはない状況。『余所の女』に見とれている訳でもあるまいに…アナタは何故か、自分の踏み込んだ危険を、闇を見よとはしない。ひたすら『何か』を思い出そうと、ただただ、星を見上げている。

 (今、『何か』…そうだ『何か』…やはり、俺にはあるんだ。忘れている…何か、大事なことが…。俺はそれを、ここで忘れた。それとも…ここに忘れたのか…。)

 (てのひら)に押し付けられていた柱の感触が、小さくなり、遂には指先からも消えた。

 アナタは目を開いて、ぼやけた星の(またた)きを眺めながら、一段、また一段と、下りて行く。笑っても、怒ってもいない。だが、胸中に渦巻く不可解さがそうさせるのだろうか…表情は(ゆが)んでいる。

 (やはり…やはり…俺はこうして、この石段を下りている途中で…。)

 頭の中にポッカリと穴。記憶の空白が今、大きく広がり、何かを伝えようとしていた。

 身を任せるかの様に口を開き、もう一段と、忘却の深みに踏み出そうとする…その刹那…。アナタの胸倉を、小さな掌が突き飛ばす。

 グラリッと身体が後方へ傾き、満点の星空を仰ぐ。視野に映る星々の全てが遠退いていくのを見て、やっと、アナタは正気に戻ったらしい。

 反射的に両手を後ろへ突き出すと、石段の角にぶつかりかけていた頭を起こし、その場で尻もちをつく。

 堅い石へしこたま尻を打ちつけ、両の掌はこれでもかと擦った。

 数秒、歯を食い縛り、痛みを(こら)えて…アナタは息吐く間もなく、暗闇に声を上げる。

 「何すんだっ、危ないだろ。」

「『危ない』。それは、こっちの台詞です。」

 返ってきた言葉もまた、怒声であった。

 動転した頭を無理に沈める様に、首を、視線を振り、アナタは声の主を探し始める。その間にも、決めつけ、叱る、『彼女』の声が続く。

 「どうして、ちゃんと私の後に付いて来ないの。しかも、足場の不確かなこの暗がりで、石段を下りるだなんて…。どれだけ心配したか…。」

 アナタが首を振る度、右耳に、左耳に、彼女の声が近付き、離れて行く。腰まで響く痛みで、夜空の星から、目の前の灯りに浮かんだ顔へ焦点を引き寄せ…そして、

 「だからってなぁ、こんな不意打ちはないだろ。これじゃあ結局、すっ転んだ事には変わりない…。」

 その先を言い掛けて、だがしかし、目の前の顔を…霊夢の顔を見た途端、アナタの舌は動かなくなった。

 激しい言葉の応酬に、てっきり、彼女も興奮し、満面を朱に染めているとばかり思っていたのだ。それなのに…提灯を(たずさ)えた指も覚束(おぼつか)なく…霊夢の表情はすっかり蒼褪めている。

 言ってやりたい事はまだあったはずなのだが、そんな顔を見せられてはな。アナタは何も言えなくなって、石段を掴んでいた両手から、眉間から、力抜いた。

 「本当に、心配させて…。でも、無事でよかった。お願いだから、私を一人にしないで…。」

 そう言うと、座り込んだアナタの頭を左腕で抱き締める、霊夢。

 赤を基調としたツーピスは、ノースリーブのブラウスに、袴をアレンジした様な長めのスカートを合わせている。

 十代の女性の(よそお)いとしては、やや派手。なおかつ、巫女の正装としても、奔放に過ぎるだろう。しかしながら…十代の巫女の出で立ちとしては、満更でもない。

 黄色いリボンの結ばれた胸元に抱き寄せられ、アナタは…手や、眉間だけでなく…肩の力まで抜けていく自分に気付いた。

 「ごめん…。俺も本当は、霊夢に一声かけるべきだと思っていたんだ。それを横着して、探しに来てくれたお前に意地まで張って…。すまなかった。もう二度と、こんな真似はしない。誓う。」

 アナタの一言一言に、『うん、うん』と、霊夢は安息の様な声を漏らす。

 熱く、湿り気を帯びた吐息。脇腹あたりで震える提灯の光。アナタは眩しそうに、やや照れた様に視線を彼女の背後へと映し…そして、気付いた。

 「それで一体、何をしにここへ戻ったの。灯りも持っていない癖に…。」

「悪かった。悪かったと思うから、どんなお小言でも甘んじて受け取るよ。…でだ、ちょっと忘れものを探しに、ここへ…あっ。」

 細い棒に吊り下げられた提灯。その底が、霊夢の肘から先が下がるに従い、石段へ触れそうになっている。ふらふらと、揺れ動く光源から伸びる灯りが…ベットリッと、石段の上に張り付き…二人の足元を照らしていた。

 転がり落ちたジャガイモをアナタが見つけたのは、草履(ぞうり)の様に平べったい灯りの端、霊夢の立っている所から五、六段下。無傷ではないだろうが、潰れてはいない。

 それだけで、何とはなしに嬉しくなって…ジャガイモのある方を指さし、アナタが笑い掛ける。

 「ほら、丁度そこにある。それをどうにか拾おうと思ってな。考えなしに下りてみたけど、考えてみると実際、無謀な事を…。」

 可笑しそうな、そして、可笑しさを説明しようと熱心な、アナタ。その話の最中に、すっと、衣擦れの音を残して、霊夢の左手が離れて行く。

 またぞろ、強く揺らめいた提灯の火。その灯りに、左の瞳を薄目にしながら、アナタは霊夢の胸元の感触と夜の空気を追い、顔を上げる。そして…自分が次に、何を言おうとしていたのか…アナタは忘れてしまった。

 「『無謀な事』…そうね。ところで、アナタの言う『忘れもの』って、何。それは見つかったの。」

 そう呟いた彼女の表情は、どこか引き()って見える。いいや、それだけではすまない。アナタにも彼女が、未だ、はっきりと蒼褪めて映ったのだ。…笑顔を返してくれると、信じて疑わなかった…アナタの瞳に…。

 石段の両脇に並ぶ木立。その連なる木肌の窪みが、生い茂る葉群れの暗がりが、目を()らしている訳でもないのに、目に焼き付く。

 アナタは青くなった霊夢の顔から目を離せずに、また腕を上げ、当てずっぽうでジャガイモのある方を指で示す。

 「だから、ほら…。そこ。」

 霊夢も強張ったアナタの笑みから目を離さず、示された方を振り返ろうとはしないで、

「『そこ』に何があるの…。」

 言い知れぬ緊張感が二人を包んでいた。

 星々の輝き、妖しい提灯の光。そして、見慣れた霊夢の顔が浮かべた、見た事もない表情。瞬きもなく見つめあいながら、尻を打ちつけた時のそのまま、石段に腰掛けて居ながら…ずるずると滑り落ちて行く様な…アナタは、否、アナタたちは、そんな錯覚に囚われている。

 「何があるって…ジャガイモだよ。」

 混乱し、尻込みして、それでも、アナタは石段で足を踏ん張った。

 沈黙をその場に残し、二人の声だけが上りつ、下りつ、一段、一段、遠ざかる。そして…。

 「えっ、ジャガイモ。」

 驚きに満ちた霊夢の声が、全速力で、静まり返った二人の間を駆け抜けて行く。もろにその(あお)りを受けたアナタは、すってんころりんと行かぬよう、やや仰け反りながら、

「そ、そうだよ。ジャガイモ…。」

 「ジャガイモ…。」

 互いが相手の言葉を復唱しあうやり取りは、まるで『鶏が先か、卵が先か』議論している様で、どうもふわふわしていた。

 しばし二人の間にある奇妙な緊張感を照らしてから、霊夢は…ぬるっと、傾斜の下方へと提灯を向ける。

 「なんだ、ジャガイモ。…そうだったの。もう、そんな些細な『忘れもの』だったのなら、こそこそ一人で戻らず、私を呼べばよかったのに…。」

 そう言った霊夢の語尾の『に』は、安堵と重なって、白い歯を見せる笑顔へ変わった。

 アナタも彼女の気持ちが楽になった事で、やっと、緊張から解放された笑みを浮かべ…。だが、閉塞感から抜け出した勢いで、何やら腹立たしくも成ってきたらしい。

 「霊夢を呼ばなかったのは悪かったよ。でも些細な忘れものだと思えば、わざわざ、お前を呼び止めなかったんだろ。」

 不愉快そうなアナタの声に続いて、

「んっ。」

と、問い返す様な、可愛らしい霊夢の声。

 霊夢は提灯の明りを一瞬、アナタへ向ける。そして火影の中、不貞腐れた様に背けられた顔を確認し…また、灯火を足裏よりも下へ戻した。

 「ごめんなさい。『些細な忘れもの』じゃないよね。アナタが精魂込めて作ったジャガイモだからね…。それに、きっと、アナタの思った通りだったでしょうね。もし『ジャガイモを拾いたい』と言われても、私、『明日にしよう』で片付けていた。アナタが、『あえて』私を呼ばなかった理由も解かるかな。…うん、確かに、ジャガイモが落ちている。あれ、一つなの。」

 提灯を上向くにつれ、照らし出される範囲が広がっていく。そうして遂に、(くだん)のジャガイモが彼女にも見つかった。…しかしながら、

「あぁ、あれ一つだけど…。何だよ、その言い方。謝っていたよな、最初は…。」

 「そうしようと思っていたんだけど、喋っている内に、アナタがどれだけ無茶な事をしたのか再確認したら…何だかまた、ムカムカしてきて…。悪い。文句ある。ジャガイモ一個とアナタを天秤にかけたら、私にはどちらが重いのか…どうしても聞きたいって言うの。」

 自分を抑制するかの如き平板な声と、明らかに自分を急き立てる早口。その引き付け合いながら、反発する語調には、アナタも…不愉快さを二言目に繋ぐ事は出来なかった様だな。

 「失礼いたしました…。今すぐジャガイモを拾いますので、あと少し、ご勘弁ください。」

と、謝意を示すべく俯きつつ立ち上がって、アナタは下の段へと足を延ばす。…まぁ、この態度なら多分、霊夢も笑ってくれるであろう。さも、仕方なさそうに…。

 両足を一段下へ、そして彼女とすれ違いに、アナタは更にもう一段下へ。もう屈んで腕を伸ばせば、ジャガイモに手が届く距離。

 しかしながら霊夢の手前、これ以上は無理な体勢を見せられないな。アナタがもう一段、石段を下ろうとした…その肩を、彼女の手が掴んだ。

 「待った。」

 こうして不意打ちを食らうのは、本日、何度目の事であったか。アナタはとりあえず、元の段に足を戻して、

「心配を掛け通しの側としては、あんまり大きな口も叩けないけどな…。脅かしっこなしに願いたい。頼むから…。」

 ぼやきつつ振り向いたアナタの目に、夜の濃紺に縁取られた霊夢の笑顔が映る。やっぱり、彼女は笑っていた。…しかし…。

 「ごめんなさい。」

 深められた笑みとは裏腹に、掴まれた肩には、着物に寄った皺の感触が張り付く。

 アナタにとって、それは『味気ない』と言った程度の不穏さ。だが、どこか言い知れぬ不穏さでもあった…。

 何となく返事を出来ないでいるアナタへ、霊夢がからかう様な口調で続ける。

 「今日のアナタ、何だか心配で見ていられない。だから…あのジャガイモは、私が拾います。」

「えっ。」

 理解できないとでも言いたげな声が、自然に喉から零れ出た。

 それは当然であろう。何せ、ジャガイモは手を伸ばせば届く所にあるのだ。アナタもすぐに、霊夢へそれを伝えようと、

「いや、別にこんなものは、こうてして手を伸ばせば…。」

 手を前に差し出し、屈もうと腰を落とす、アナタ。だが肩を掴む力はその場を離れようとしない。

 「いいから、アナタはもう、下へ降りては駄目。ここに居て。」

 霊夢の声も、肩を掴む手も、アナタがその気になれば、振り切るのは簡単な事だろう。その気になりさえすれば…身体を、足を、ちょっと前へだせば…それだけで、ジャガイモに手が届くのだから…それなのに…。

 「そうだな。確かに今日の俺は、何だか危なっかしい。意地を張らないで、霊夢に任せた方が良さそうだ。」

 そう言って振り返ったアナタの顔…。先程までの不穏さは消え失せ、笑みが…それもどこか反省した様な、苦笑いが浮かんでいた。

 鳥の鳴く声も、虫の()すらもない、奇妙に静まり返った暗闇の中。灯明に照らし出されているはずの二人の姿さえ、色を失っている様に感じられるのは何故だろうか。

 アナタの苦笑に、笑顔で頷き返した、霊夢。肩から手を離すと、アナタがしようとしていた様に石段を下り、アナタと同じく腰を落とし、身を屈める。そうして、ジャガイモを拾い上げた。

 手にしたジャガイモを顔の高さに持ち上げ、『ほら、この通り』と笑顔で示す。それを見るアナタ表情には、不安や、一欠けらの疑いすら感じられない。

 歩み寄る彼女の手からジャガイモを受け取り、アナタはその小さな背中に連れ立って、石段を上り始めた。

 今度こそ寄り道せず、家路につく事に成るであろう。誰もが…当然、アナタも確信している。言うまでもない…何故って…。

 ふと足を止め、アナタは石段の方を見下ろす。その途端に、

「何しているの。いい加減にして置かないと、夕飯が冷めちゃうでしょ。ほらほら、早く、籠を背負って。」

 「あぁ、悪い悪い。今、行くよ。」

 砂地を蹴って駆け寄るアナタの足元を、提灯を下げ、霊夢が照らし出した。

 そう言うまでもない事だ。何故って、アナタの歩むべき道は、こうして決められているのだから…。それに…どんな暗闇の中であろうと、アナタの見る霊夢の瞳が光っている…。

[2]

 四季の移ろいは五感を通じて、人の心の中の風景を染め変えていく。そして、季節それぞれに、先触れとなる色彩があるものだ。

 春には桜、夏には浜風、秋には虫の音、冬には雪の便りがある。加えて、その季節に旬となる食べ物がもう一筆、色彩を添えてもくれる。

 それにしても、否、それならば今は…一体、どの季節に当たるのであろうか。

 少なくとも雪が積もった様子がない事から、真冬ではあるまい。日が落ちても虫の音が聞こえてこないので、秋ではないのかも知れない。しかし薄明が陰りに沈むまでの短さからは、日が長いはずの、夏とも考え難いのだ。

 すると今は、消去法で春という事になるのであろう…。実際、アナタの着物の生地は、やや薄手の、如何にも『夏を待つ装い』のそれに見える。だから今、『春に近い気候』なのは間違いない…間違いないのだが…それでも、消去できない問題が残ってしまう。

 それも、一つや、二つではない。その問題はアナタの目の前で、溢れんばかりに山積みにされているのだ。そう、背負い籠の中から…。

 手近な所で言えば、まずトウモロコシ。これなどはもろに夏の野菜である。

 それに、籠の底の方に見えているダイコン。百歩譲って、青菜の部分はスズシロという名で『春の七草』に入ってはいる。だが、霊夢の脹脛(ふくらはぎ)を思わせる立派な根っこ…いや、著者でなく、あくまでもアナタの印象として…立派な根っこの部分は、冬場に旬を迎えるものだ。

 しかも、トウモロコシにしろ、ダイコンにしろ、見事な大きさ、見事な色艶。旬を外した時節に、お構いなしで収穫した…到底、そうは思えない。

 こうなると、俄然(がぜん)、頭の中を四季が巡り始める。それも急速に、定まりようもなく。

 あるいは、階段に座り込みアナタが探していたのも、今がどの季節かという事だったのかも知れない。だとすると、アナタの中では今…ジャガイモの旬から考えて…冬であると決着が付いている。いいや…。

 手の中の春と秋を…アスパラガスとカリフラワーを見比べる、満足そうなその顔。異なる季節に旬を迎える野菜を見て不審を抱けば、とてもこんな表情にはならないだろう。

 夜がしんしんと更けていく。耳鳴りの音も寝息の様に低く、安らかに変わり始めた。

 玄関先で野菜の出来栄えに見惚れながら、耳を突っ突くのは寒風に晒された引き戸の身震いだけ。

 「ふむ。」

 穏やかな時間に浸り切ったアナタが、我知らず声を漏らす。…と、その油断を衝いて、ガラガラと、玄関の引き戸が開かれた。

 「ご飯並べ終わったから、もう家に入って…。何、笑っているの。」

 遠慮のない音が、耳の中のまろやかな空気を引き裂く。

 アナタは歯噛みしながら、苦笑いを浮かべる。

 「何でもない。今行くよ。」

 そう言って両手の春と秋を籠へ戻す姿に、霊夢は呆れた様子で、鼻息を一つ。カタリッと、小さな音をさせて、引き戸から指を離した。

 「ちゃんと、手を洗ってからいらっしゃいよ。」

「あぁ、解かっている。」

 引き戸のガラスに映る彼女の人影に応えつつ、アナタは腰に手を当て、軽く身体を反らす。やはり、畑仕事は腰に来るのだろう。それに…それ以外にも、今晩は色々とあったからな。

 「もう、何をしているの。私、先に食べちゃうよ。」

 引きも切らない霊夢の声が、また、アナタの口元を柔らかくする。これ以上は、待ってくれないそうだ。急がなければな。

 さっきまで寒々しかった風が、汗ばんだ着物の懐を涼やかに撫でる。アナタはただただ気持ち良さそうに、この『季節』を肌で感じとり、そして内側から玄関の戸を閉めた。

 相変わらず辺りは静まり返って、虫の音もない。

[3]

 「何だ、食べずに待っていてくれたのか。」

 濡れた手を首から下げた手拭(てぬぐ)いの端で拭きながら、アナタは食卓の前の座布団に、ドッカリッと座り込んだ。対面する霊夢へ向けたその声は、驚いたと言うより、冷やかしているという風情。…お熱いことで…。

 食卓は、どこぞのお大尽(だいじん)でも寄進したものか。分厚い一枚板を長方形に切り出し、磨きを掛けた、なかなかに高価そうな作り。優に170センチメートルはあろうその天板を、わずかな(くび)れが施された以外、一切の飾り気のない四本の脚が支えている。その潔さがまた、実用性を重視した職人の(いき)を思わせ、小気味良い。

 …考えてみて欲しい。広々とした食卓に夕餉の膳が二組ずつ、所狭しと…まぁ、端の端までとは言わないまでも…霊夢の心尽くしが並べられているのだ。

 毎晩食べる夕食に、この心の砕きよう…。聞くまでもなく、彼女が先に食事を始めるなどありえないであろう。それを知りながら、アナタときたら…(ひね)くれているというほかない。

 霊夢は澄ました顔で、手を正座した膝から食卓の上へ。それを見たアナタも、立て膝ついた脚をそそくさと胡坐(あぐら)に変えた。

 そうして二人は、同時に手を合わせ、一緒に食前の祈りを捧げる。

 「いただきます。」

 何の事はない。どちらが待たせようと、どちらの音頭に合わせようと、結局、二人揃って夕食を始めるのには変わらない。霊夢が取り澄ました態度を崩さない訳だ…。

 飯粒の艶々とした光沢を見ながら、右手で茶碗を持ち、左手で箸を掴み上げる。だが、何故だろう。箸を使おうとしているアナタの様子は、あからさまにちぐはぐに見えた。

 箸を上手く手繰(たぐ)り寄せられず、仕舞には顔の方を茶碗に近づけ始めたようだ。これはお行儀が悪い。

 すぐさま、アナタへ正面から声が掛かる。

 「ちょっと、何をもたもたしているのよ。」

「いやぁ…それがなぁ…。どうも、上手く箸を扱えなくてさ。うーんっ、畑仕事、はりきり過ぎだったかな。」

 「そうじゃないでしょ…。」

 深い溜息を吐き出して、霊夢は汁椀を食卓へ返した。

 「アナタは私と同じ右利きだから、お箸は右手に…そうそっち。で、お茶碗を左手に…って、横着しないで、一度置いてから持ち変えなさいってば。本当に、もう…。」

 ぼやきながらも、茶碗から立ち上る湯気に当てられた様に、霊夢はふやけた笑みを浮かべた。

 四角い傘を被った蛍光灯は、提灯ほどの温かみはないものの、(しず)かで、澄み切った光を振らせる。

 茶碗と箸を持ち変えたアナタは、右手にじんわりと残る熱を、左手に感じる重みを忘れ、鮮やかな彼女の黒髪へ目を落とす。

 霊夢は口元に運んだ箸先の向こうに、口を閉じたまま、ちっとも食の進んでいない顔を見つけて、

「どうかした。私の顔に何か付いている。」

 夫婦漫才(めおとまんざい)…もとい、茶化し言葉の常套句(じょうとうく)という奴だな。これで、アナタと霊夢、二人の間柄の距離感が測れるといもの…。

 アナタは、左手に乗せた茶碗をくるり。湯気を(くる)らせつつ、空っ(とぼ)けて口を開いた。

 「あぁ、頬っぺたに米粒が付いているよ。」

「えっ、嘘でしょ。…嘘なのね。」

と、猫が毛繕(けづくろ)いするかの様に、右手の甲で自分の頬を探る、霊夢。だがしかし、愛らしい姿をさらしたのは、ものの数秒。素知らぬ顔で汁椀を口に運ぶアナタに、すぐさまその嘘を見破った様だ。

 そんな目を尖がらせた彼女を、アナタは椀の中の肉団子を一齧(かじ)りして、

「嘘じゃないさ。ただの見間違えだな…。霊夢の肌があんまりにも白いもんだから、ついね。ところで、利き手の忠告、ありがとう。お陰さんで、美味しい夕飯を堪能しているよ。」

 半分に成った肉団子を、口の中へ放り込む。それから、如何にも美味しそうな顔でアナタが、霊夢に笑いかけた。

 そうしたアナタの憎まれ口には、慣れっこなのだろう。それとも、『肌があんまりにも白い』の発言が、痛くお気に召したのか。霊夢は、どこか傷に()みた様な…痛いほど胸の内で実感したかの様に…溜息と一緒に笑気を漏らす。

 「そっ、それは良かった。私も、作った甲斐があります。」

 時折、彼女が使う敬語。おそらく、感情を抑制しようとする時、知らずに口を衝くのであろう。まぁ、それが出たという事は…まだ、怒りが収まりきった訳でもなさそうだな。

 ジッ、ジジッと、無機質な音を立て、リング状の蛍光灯がわずかに明滅する。だが、そんな微かな物音が、ノイズが…二人の食卓へ入り込む余地はない。

 和気あいあいとしているかと言えば、そこまではしゃいだ雰囲気でもなく。そうかと言って、決して冷めている訳でもない。どこか、温かい布団に潜り込んで見る夢の様に、満たされていながら…一抹の味気なさが舌の根に残っている。

 アナタはいつまで、こんな感覚を忘れずに居られるのだろうか…。

 「この澄まし汁に入っている団子、旨いな。何の肉だ、これ。」

野兎(のうさぎ)よ。」

 「へぇ、それじゃあこれが、所謂(いわゆる)、兔汁なのか。始めて食べた…あれ、前にも食べた事あったっけ…。」

「家で出すのは、始めてだけど…。」

 「あぁ、そうだよな。やっぱり…なぁ。」

 汁椀を掴んだまま、また、ぼやっとする、アナタの思考。

 霊夢は、密かに奥歯を噛み締め、まつ毛を伏せる。それから、胸のわだかまりを押し殺し、努めて静々と自分も汁椀を取り上げた。

 「毎日毎食、野菜や魚だけだと、私は平気でも、若い男性には物足りないでしょ。(たま)には、こういう料理も付けて上げたかったんです。…ほら、お椀を出して。」

と、彼女は両手を伸ばすと、宙で固まったアナタの汁椀の中へ、自分の椀から肉団子を移し始める。

 山桜の木肌を削り出した、白の塗り箸。その明るい色が、一個、二個と、手元の汁椀へ肉団子を摘まみ入れていく。その様子を眺める内、アナタははたと気付くのだ。

 「…これ、お前の食べる分じゃないか。ちょっと、おい、もう良いって…それより、幾つ入れたんだ。返すよ。」

 三個目の肉団子を摘まみながら、じりじりとにじり寄る、白い箸。アナタは汁椀を持った左手を引き、抵抗の構えを示す。それでも、霊夢は一層右腕を伸ばして、

「美味しいって言ってくれたでしょ。だから、さぁ、もっと食べて。私は、アナタに食べてもらいたから料理したの。」

 「心底からありがたいと思うけど、お前の分にまで手を出すのは…。だいたい、霊夢は、食べること好きじゃないか。それを知っていて取り上げるのは、悪いよ。」

「あなたが取り上げた訳じゃなくて、私が自分で差し上げた…上げたんです。ううん、上げたの。えぇい、もう、うだうだ言ってないで、食べなさいよ。その図体なら、幾らでも入るでしょう。」

 「お前こそ、その小さい(なり)でモリモリと、よく食べるだろ。夜中に腹の虫が鳴っても知らないぞ。」

「それは、大丈夫。夕飯の支度をしながら、()かしたサツマイモ食べたから…。」

 「えっ。」

 声を漏らしながら、チラリッと、アナタの目が食卓を観察する。

 手にした汁物、それと白飯以外に、香の物、焼き魚、貝の酒蒸し、出汁巻き卵。色合いは地味でも、一手間かけた料理たちは、アナタの目を、舌を、充分に楽しませてくれるはずだ。…しかしながら、食卓の上を、二巡、三巡と探しても…サツマイモは見当たらない。要するには、

(霊夢の言っている事が本当だとすれば…何本蒸かしたかは解からないにしろ…蒸かした分は全部食べたのか。しかも、サツマイモの素蒸しの代わりに、アサリの酒蒸しを作りなおしたなら…。いいや、それでもだ。)

 脳裏を(よぎ)った恐ろしい想像を振り払い、アナタは…一先ず肉団子を汁椀で受け取り、口を開く。

 「間食は別腹って言葉もあるだろ。」

「流石に三つも食べると、別腹だって満腹になるみたいね。」

 …何と、我々の予想を丸々一本分も凌駕(りょうが)する答えが返ってこようとは…。どうりで、アナタの茶碗に比べ、白飯の盛りが随分と小さい訳だ。

 アナタはさも面白そうに、快活な笑気を吐き出す。そして、サツマイモが三つも入っているとは思えない小さな身体から、手元の汁椀へ目を落として、

「ご馳走になります。」

 「召しあがって下さい。」

 返事をし終えた彼女が、口元を押さえながら…うぷっ…と、小さな音を漏らした様だが…。見ていないし、聞かなかった事にしよう。

 汁椀の中にゴロゴロしている肉団子を頬張り、白飯を口に掻き込み、アナタも知らん振りしていた。…それにしても、霊夢の作った兔汁…実に、美味しそうだ。

 「そうそう、明日は、(ふもと)へ野菜を売りに行く日だったよな。」

 そう言ったアナタの声は、やや堅い。霊夢もその微妙な語気に気付いて、食の進まぬ顔を上げる。

 茶碗を食卓の上、箸はその茶碗の上に置かれ…その更に奥。食卓の脇から白木のおひつを引き寄せる、アナタの姿があった。

 「言ってくれたら、ご飯、私が装って上げるのに…。」

「そう言うと思ったから、言わなかったんだろ。まぁ、気持ちだけ頂いとく。」

 ある意味では素っ気ないアナタの言葉に、霊夢が鼻を鳴らす様な短い吐息を零す。

 「あれも、私にとっては食事の楽しみの一つなんだけどなぁ。」

「これくらいは自分でやるよ。それと…。」

 また(にわ)かに、緊張の気を帯びる、アナタの声。

 話を聞く霊夢の顔色は、少し眠そうにまつ毛を伏せたまま、平静そのもの。だが、茶碗の縁に隠れアナタから見えない箸先は、ピクリッとも動かないでいる。

 アナタはおひつの蓋へ手を掛けると、軽く咳払いを一つ。強張った言葉を言い放つ。

 「何なら、麓へも、俺が野菜を売りに行こうか…。」

 どうやら、最後の一言まで呂律(ろれつ)が回ってくれた様だ。手元では、おひつに被せて合った蓋を引っ張り上げ損ね、カタッと気忙(きざわ)しい音がしたが…まぁ、及第点であろう。無論、アナタの委縮(いしゅく)具合を見ても、霊夢の採点は甘くないのであろうな。

 一瞬にして冷え切った場の空気。それを、おひつから立ち上った湯気の塊が再加熱し、杓文字(しゃもじ)を使うアナタの手が(ほぐ)す。

 一(すく)い、二掬い…。アナタが遠慮なく、茶碗に白飯を盛り上げる。

 霊夢はそれを見届けてから…溜息を一つ…米粒を摘まんだ箸を、パクリッと(くわ)えた。

 「『どうしても、畑仕事がしたい』と、そう言うから…。私、アナタの為だと思ったから、家の裏手に畑を作る事を許可したんだよ。」

「俺が安心して畑仕事が出来るのは、霊夢のお陰だって、重々承知しているさ。だけどな…。」

 胸の内から自然と湧き上がる後ろめたさが、アナタの唇を塞ぐ。いつも、そうなのだ。いつも、こんな風に、その先の言葉が出なくなる。…だが、今夜は違った。

 おひつの蓋を両手で押さえ付け、(ふさ)いでいく。空気を押し潰し、噛み潰す様なその感触とともに、アナタはもう少しだけ、食い下がってみる様だ。

 「だけど、ほら、作った野菜を麓へ卸すところまでやって、畑仕事なんじゃないかな。明日の分の収穫なら、帰ってからまとめてやれば良い。だから、明日は…頼むよ。」

 そんな頼みを…いいや、懇願を聞きつつ、霊夢はとっくに動くのを止めていた箸と、茶碗を、食卓へ戻す。そしてまた、溜息を吐き出した。

 「家の夕飯はどうしたって、この憂鬱な話をしない訳にいかないんだね。笑い合って、楽しくお喋りをして…それで終わり。私たち、いつになったら、『それだけ』の夕飯を味わえる様になるのだか。ねぇ、私は…そんなにも無茶な注文を、アナタにしているのかな。『この神社を、自分の家だと思って欲しい』と言った事、迷惑だったの。」

「本心から、感謝しているよ。こんな、自分がどこから来たのか、どこに行く途中だったかも『忘れた』俺を、快くこの家に置いてくれる。霊夢には感謝してもし切れない。迷惑だなんて思うはずないだろ。」

 「…アナタにとっては、それだけなの…。」

「それだけじゃない。当然、それだけじゃないのは覚えている。俺みたいな何の『力』も持たない人間が、この『幻想郷(げんそうきょう)』を彷徨(うろつ)くのは自殺行為だって事…忘れている訳じゃないだ。霊夢に、毎朝、毎晩、注意されているんだから…忘れる訳がない。」

 おひつを蓋を掴む手に力が(こも)り、ギュッと、指紋を擦り上げる鈍い音が響いた。

 この音を聞いたなら霊夢にも、アナタの意思の堅さが伝わったであろう。…アナタ自身、そう思っている。そして…だからこそ、アナタには解かってしまう。

 滑らかな白木を擦る音に続けて聞こえた、衣擦れの音。長いスカートの上から正座した両膝を掴み、指紋がこそげ落ちる程の力で、擦り上げた…。彼女の強固な意思が、アナタには解かってしまう。

 諦めを匂わせる細い吐息とともに、アナタの肩は力なく落ちていった。

 「忘れている…。忘れているじゃない。幻想郷が危険だとか、アナタに行く当てがないとか…そんなのよりも、ずっと『大事なこと』。私が、アナタにここに居て欲しいと願った。アナタは、ここに居てくれると言ったじゃない。それなのに、どうして…。どうして、ここから離れたがるの。」

 そう問い掛ける彼女の声を聞いていると、噛み締めた唇の痛みが、口の中に広がる血の味が、アナタの舌の上に纏わり付いてくる様だ。…今夜もうこれ以上、アナタに彼女を悲しませる事は出来ないな。

 アナタは、霊夢に対して斜に構えていた居住まいを正し、右手に箸を、左手に茶碗を…こんどは間違えないよう…取り上げた。

 「大袈裟だよ、霊夢。何も、麓へ下りたら、二度とここに戻って来られない訳じゃなし…。」

「それは…そうだけど…。」

 うなじが見えそうな程、額を食卓にぶつけそうな程、霊夢は深く俯いている。明らかに言い淀んだ言葉も、表情も、底意も…全てを包み隠してしまおうとするかの如く、彼女の小さな両手が食卓の下で握り合う。

 その沈み込んだ姿を見つめながら、掻き込み、噛み締める白飯の苦い事。アナタは、口の中を転がる熱さも忘れてしまったかの様に、よく噛みもせず米粒を飲み込んだ。

 「解かったよ。とにかく、明日は、畑仕事をしているとするさ。それで良いよな。」

 霊夢はアナタの問い掛けに、コツンッと、食卓へ額をぶつけ頷く。それを見たアナタの口からは、

「おいおい、大丈夫か。」

と、労わりの言葉が零れ出たが…(つい)ぞ、笑い声は聞かれなかった。

[4]

 また忘れていた。いいや、忘れている。自分が何をしているのかを…。

 ここのところ、アナタにはこんな事ばかりだ。そして、その『ここのところ』という奴が一体、いつから続いているのか。それすらアナタには、判然としない時がある。

 指に感じる重みはアナタが今、何かを掴んでいる証拠。眩しい光と、右半身を焼く熱は…日差しか、それとも炎か。そうして、ぼんやりとした現実感に身を委ねながら、アナタは最初の出来事を思い出そうとしていた。

 (何カ月…何年…どれくらい前に成るんだったか…。俺は確か、溺れていて…。)

 回想がアナタの耳の奥に眠る水音を、呼び起こしていく。ジャブジャブと、ザブンッと、イメージの水中に肩を揺らしながら、それでいて、虚ろな瞳は乾いている。

 瞬きが徐々に緩慢な動きに変わり、遂には、瞼が瞳を覆いきった。…静かな、静かな水底(みなそこ)へと…アナタの追憶は潜っていく。…かと思いきや…。

 突然、ザバンッと、イメージの海面から黒髪の人魚が跳ね上がる。

 「ちょっと、ちょっと…。手がお留守みたいですけど…。」

「えっ。」

 アナタが、顔を横へ向け、息継ぎする様に見上げた先。そこにあったのは、日差しに(にじ)む太陽ではなく、格子窓から上る湯気。そして、人魚ならぬ、濡れた霊夢の顔であった。

 「大丈夫。もしかして、眠っていたのじゃないの。」

 格子窓の細い竹を両手で掴みながら、霊夢はこちらを見下ろす。その顔は火照(ほて)って、瞳は潤み帯びている。何より、一糸まとわぬ両肩が窓から覗いているのだ。

 その魅惑的な立ち姿を見るにつけ、如何な忘れっぽいアナタでも、そこは流石に思い出した。…勿論、彼女が人魚姫ではない…などという文学的な話ではない。

 もっと素朴で、かつ基本的な事。自分の手に持っているものは、手斧(てお)であり、しかも(まき)割り斧。更に、右半身を焼く炎の正体は、焚口(たきぐち)で燃える火。…なるほど、瞳が乾く訳だ。

 極め付けは、ここが陽光の降り注ぐ大海…ではなく、二人の住まう家の裏手で…。アナタは今、風呂釜に薪をくべつつ、薪割りをしていたという事。

 気付いてしまえば、あまりに呆気ない答え。だが呆気ない答えだからこそ、霊夢を見上げるアナタの口元が、安堵の笑みを浮かべる。

 「何、その嫌らしい目付きは…。今更、私の貧相な身体に興味が湧いてきたの。」

 そう尋ねかける霊夢の声は、勘ぐる様で、どこか凄味があった。

 余程、締まりのない顔をしていたと見えるアナタは…。

 「いや、そう言う訳じゃないけどな。ちょっと、魚の…そう、夕飯に出た岩魚(いわな)の味をさ、思い出していたんだ。」

 呟きつつ顔を前に戻せば、目に入る丸太の土台。そしてその上の、土台を二回りほど小さくした様な太い薪木。畑仕事の次にこれでは、まぁ…、

(山の向こうの海にでも、現実逃避したくなるか。風呂炊きはともかくとして、薪割りまで一緒にやらせる事もないだろうに…。忙しくしていた方が、俺も肩身の狭い思いをしないで済むと…霊夢なりの(はか)らいなんだろうがな。)

と、やや浮かしていた腰を落として、また一つ、アナタは思い出した。

 ずっとしゃがんだ姿勢で薪割り、風呂炊きは大変だろうと、霊夢が用意してくれた丸太の腰掛け。アナタは今、土台よりも高く、しっかり磨きを掛けられた、それに座っている。座っているからこそ、とろりとした火に当たりながら、夢現(ゆめうつつ)の最中をまどろんで居られたのだ。

 「本当、気を使い過ぎなんだよな。まっ、俺が危なっかしいのは、否定でないが…。」

「なに、また良からぬ事でも考えているの。」

 履物(はきもの)の内側で、グッと、足の指を握り込む。そうして、気持ち良さそうな口振りで呟く、アナタ。霊夢はそれに…悪巧みとでも受け取ったのか…不服そうな声を漏らした。…少々、声に混じった憤懣(ふんまん)やるかたなさげな怒気が、気にかかるが…。

 アナタはそんな霊夢に、さも事も無げな笑いを聞かせ、応じる。

 「考えてないって、そんな事は…。約束しただろ。少なくとも明日は、大人しく畑仕事をしているって。」

「そうよね…。」

 なるほど、霊夢は夕食時の不満を引きずっていると、アナタはそう思った訳か。一理ある。だが…『そうよね』と答えた彼女の言葉付き、何やら気に成る。

 夜陰に煙る薪木の燃える匂い、そして、彼女の憂鬱。そんな一切を払いのける様に、アナタは右腕を振り上げ、

「そんな事より、お前、いつまでそうしている積りなんだ。風邪引くぞ。」

と、言い置いて間もなく、右手の斧を薪木目がけ振り下ろした。

 コンッと、鋭く殴り付ける音が、神社裏手の雑木林に木霊(こだま)す。薪も、憂いも、一太刀に…とはいかないまでも、手斧の刃は深々、5、6センチは薪木に食い込んでいる。

 霊夢はその様子を見つめて、見続けて、しかし、夜風の冷たさは誤魔化せそうもない。アナタの言葉に従って、肩まで湯船の中へ潜り込む。

 「湯加減はどうだ。(ぬる)くはないか。」

 くっついた薪木ごと手斧を振り上げ、ガツンッと、土台へ叩きつける。カッという一段と小気味良い音を響かせ、薪木は真っ二つに成った。

 湯船へ背中をもたれかけた霊夢は、その澄んだ音に、人心地ついた白い吐息を吐き出す。

 「丁度良いよ。しばらくは、薪を()べてくれなくて、大丈夫だと思う。」

「んっ、解かった。」

 そう答えながら、アナタは半分に成った薪の片方を取り上げる。

 「なぁ、終わった話を蒸し返す事になるが…。明日、麓へ野菜を卸すのに、俺でも何とかなる上手いやり方を思いついたんだ。」

 アナタのその声へ、風呂場の天井に下がった裸電球の光を見ながら、霊夢は耳を傾けていた。

 湯船の中で長い脚を曲げれば、水面から覗いた(ひざ)が、チャプンッと、小さな波を起こす。返事らしい返事もせず、アナタの耳に届いたのはそんな水音だけ。

 土台の上に、持っていた半分の薪木を乗せる。そうしている内、答えが返ってくるのでは…そんな淡い期待は、雑木林を吹き抜ける夜風と消えた。

 否定も、肯定もなく、だったら、やる事は一つ。

 半分の薪木を左手で掴み、音もなく、そこに手斧の刃を当てる。それからアナタは、押し付け、押し込んで、グイグイッと、薪木へ手斧の刃を食い込ませ始めた。

 「何でこのくらいの事が思いつかなかったのか。今日やっと、自分の根本的な浅はかさに思い至ったよ。要は、幻想郷を一人歩きするのが危険だって話で…考えてみれば、別に俺一人で麓へ下りる必要はない。だから、どうだろう。霊夢の付き添い、いや、霊夢に付き添ってもらって、俺が荷車を引けば…。」

「悪いけど、人手は足りているのよね。もう、力自慢の鬼に運搬係を頼んでいるし…。」

 手斧を握るアナタの手から、すぅっと、力が抜けていく。霊夢はそんな気配を感じ取ると、瞼を伏せ、両膝を抱えた。…耳を塞いだってきっと、否応なく、アナタの悲痛な声は入り込んでくる。

 そんな身構えた彼女と、壁一枚隔てたアナタは…薪木から左手を離す。それから、

「『鬼』。鬼って、あの酒臭い、確か萃香(すいか)って名前の…あの子の事か。」

 霊夢にとってはまったく予想外の、屈託のない、嬉しそうな声が響いた。

 肩すかしを食らった彼女は、ずるり、両脚を抱えた腕を下へ滑らせる。湯船の水面スレスレで止まった顔は…霧の様な湯気の具合でだろうか…何とも面白くなさそうに、口角から白い歯が覗く。

 「そうよ。よく覚えたわね…あいつの事…。」

 うーむっ…やっぱり、不機嫌みたいだな。語調は笑いを含んだものだったが、どちらかと言えば、せせら笑う様な感じで…かなり、おっかない。

 だが、そんな彼女の情感の籠った声も、浴室を反響し、耳触りの良い水音に湿って、上手くはアナタに伝わらなかったらしい。

 アナタは5ミリほど薪木に食い込んだ手斧を、一度、トンッと、土台で軽く叩いて、

「忘れる訳ないだろ。あの子は、俺の命の恩人だぞ。まっ、恩がなくても、忘れられるとは思えないけどな。」

 薪木に挟まれた刃の深さは、今の一押しで1センチに達した。

 これならどんなに振り回しても、食い込んだ手斧から薪木がすっぽ抜ける事はないだろうし…。土台へ薪木を叩き付けた途端、真っ二つに割れず、明後日の方角へ飛んでいく事もなかろう。

 手斧を振り上げ、振り下す、アナタ。カツンッと、雑木林の奥から帰って来た木霊(こだま)に耳を澄ましながら、また、楽しげな笑い声を漏らす。

 「引っ張り上げられて、意識が朦朧(もうろう)としているところへ、あの息を嗅がされた日には…本当、あれ以上の気付け薬はないな。」

 そう言って、今割った薪を取り上げるアナタの顔が…曇り、暗澹(あんたん)としていく。ついでに声も、ややトーンを下げて…。その鬼娘の酒気は、余程、強烈だったのであろう。

 ポロリッと、喉からせり上がる(うめ)きと共に、薪木が手から滑り落ちる。アナタは、その薪木と、気を取り直し、

「でも、あの子…萃香が来るなら、なおの事、俺も付いて行きたいな。『あの時』、危ないところを助けてもらったのを、まだ、(ろく)に礼も言えていないんだ。なぁ、霊夢、良いだろ。」

と、右手に持った薪木を焚口に放り込み、そのままの流れで、格子窓を見上げた。

 すぐには返らない答え。それ程…霊夢がここまで悩まなければいけない程、幻想郷という場所は、そして、この神社を一歩踏み出した『外』は、危険な場所だという事か。

 格子窓から見える浴室の天井。裸電球の淡い光の奥で、ゆらゆらと、湯船に反射した光の水面が揺れている。彼女の沈黙の理由を探る様に、アナタの目はその揺らめきを見つめていた。…と、唐突にイメージが…記憶が、アナタの頭の中へ流れ込む。

 「そう言えば、『あの時』も、こんな光を…こんな…水音を…。俺は意識を失っているところを、水の中から助け出された…。」

「駄目っ。」

 薪木を握る指が、じわりじわり開き始める、まさにその時。悲鳴の様な霊夢の声が、アナタの耳を貫いた。

 はっとして、薪木を強く握りしめた左手。そして、親指に感じた刺す様な痛み。しかしながらアナタに、驚き、痛みへ集中する(いとま)はなさそうだ。

 『悲鳴の様な声』の発せられた次の瞬間、その声が本物の悲鳴に転じたのだ。否、転じたのは声だけではない。

 「きゃっ、きゃあっ。」

 格子窓へ向けられていた霊夢の声が、グルッと、彼女が仰け反った事を知らせる様に、浴室の天井を反響する。それから、ドボンッ…。大きな水音に続いて、窓から(ひのき)の香の水滴が降り注ぐ。

 アナタはしばらく、見開いた目で瞬きを繰り返しながら、窓の向こうの水浸しの天井を覗いていた。

 ポタポタッ、水が垂れ落ち、パチクリパチクリッ、入り込んだ温い感触を目じりから追い出す。だが、そうしていても一向に、反応は窺えない。

 左手に持った薪木を…屋根付きで良かった…薪棚に放り込み、アナタは先ほど半分にした残りの薪木を取り上げる。

 「まぁ、乾かせば使えるだろ。」

「ごめん…なさい。」

 「気にするなよ。雨に降られたと思えば、手間は変わらないさ。それより、お前は大丈夫なのか。」

 そう言ってアナタが見上げた先、格子窓から…ぬっと、白い素足が覗く。

 実に、艶めかしい光景だ。しかし、アナタは溜息を漏らした。

 「まさか、お前まで素っ転ぶとはなぁ。厄日だ…と言ったら、罰当たりか、やっぱり。」

 手の甲に付いた水滴と砂粒が混じり合い、ざらざらとする感触が皮膚に張り付く。そのアナタの顔を見ると…今しがた、自分は何かを思い出そうとしていたなど…もうすっかり、忘れてしまっているらしい。

 霊夢は湯船のお湯を混ぜっ返しながら、しかし極力水音を立てぬよう、身体を起こした。

 「ご心配なく、罰なんて私が当てさせやいないから…。でも、無くなったお湯はどうしようもない…かな。また沸かし直す以外。」

 ケホッ、コホッと、言い終えた後に続く、咳払い。まっ、頭からお湯に潜れば、仕方なかろう。

 一安心の含み笑いを零しつつアナタも、また、じっくりと、手斧の刃を薪木に押し付け、押し込み始める。

 「いや、俺はもう、今夜の風呂は止して置くよ。何だか、眠くて(たま)らなく成ってきた。そう言う訳だから、今日の薪割りはここまでにするぞ。」

 スパンッと、一際軽快に薪木を両断。二つに分かれたそれを、さっきと同じ様に薪棚へ収めて…アナタは、やおら立ち上がり、トントンッと両肩を交互に叩く。

 「ふぅ…。あぁ、風呂に浸かる気はないけど、湯は流さないでくれ。手と足だけ、残り湯で洗わせてもらうからさ。」

 おそらくは、声の聞こえる高さの違いから、立ち上がった事に気付いたのだろう。霊夢は格子窓の縁に腕を乗せ、顔を出して、

「でしたら、お客さん。あっしが、お手と、お()足、洗って差し上げましょうか。」

 悪くない申し出と、著者などは思うのだが…。アナタはそれを一笑に伏した。

 「遠慮しておくよ。湯冷めして、風邪をひかれても事だし…。だいたい、由緒正しき神社の巫女に、湯女(ゆな)の真似をさせる訳にはいかないからな。…けど、どうしても霊夢の気が済まないと言うのなら…。明日、俺を麓へ連れて行ってくれても、構わないぞ。」

 アナタがニヤニヤして向ける顔。そっちにはもう、霊夢の影も形もなかった。…まっ、こんなものであろう。

 薪木を焼き赤々と燃える炎は、蝋燭(ろうそく)を燃やす薄白い光とは違って見える。

 足首を焼くその明りに歩み寄って、アナタは風呂釜の焚口の前でしゃがみ込む。

 「火が熱いのも、水の感触も知っている。思い出せる…。これと同じ…俺の忘れている事も、これと同じに思い出せるはず…なんだ。もう少し、記憶の薄皮一枚先に振れさえすれば…。」

 熱気に当てられ、細められていく眼。瞼の間に挟まった涙の一滴(ひとしずく)が、魚眼レンズの如く、万華鏡の如く、目の前の炎を、大きく、小さく、そして、遠く、近くする。

 その幻想的な光景を見つめる内、アナタの右手は焚口の中へと伸ばされ…あと数センチで、大蛇の舌の様な炎に指が触れる所まで…。

 「こっちにも事情があるのよ。」

 唐突に振ってきた声が、お手付きしようとした右手を、叩き落とした。

 危ういところで火傷の難を逃れたアナタは、慌ててその手を引っ込め、

「何だ、まだそこに居たのか。てっきり、上がっているものと…。危なく…火を消すところだった。…それで、事情って言うのは、どの話に対する言い訳だ。」

 焚口の方を向いたまま、覚束ない足取りで後ずさりする、アナタ。よろよろと腰掛けにへたり込む姿を見透かした様に、湯船に背をもたれかける水音が響く。

 「萃香に会いたいって話。」

「それを言うなら、『俺が、麓へ野菜を卸しに行きたがっている』話じゃないのか。」

と、アナタは口を(すぼ)め、右手の人差指に息を吹きかける。

 期せずして、吐息で湯気を吹き飛ばしていた霊夢は…転んだ時に打ったのだろう…お尻を(さす)りつつ、そんな苦しげな表情で口を開いた。

 「そうとも言うかな。でも、アナタにとっては、野菜を卸す事より、あいつへお礼をする方が重要よね。」

 近目を遠目に変えて、鼻先にある人差し指の像をぼかし、視野の奥の格子窓を見る。無意識にやっている事でも、こうして視界が開ける瞬間には、色々と発見があるものだ。

 アナタは…(から)め取られる様な気配を覚えつつも…正直に答えるほかなかった。

 「あぁ、当然だ。」

と、正直に答えるあまり、ややぶっきら棒な物の言いとなってしまったか。

 霊夢も、自分の言い回しが相手の不服を誘っているのに気付いたらしい。胸の奥に残る余韻を、濡れた、楽しげな笑いで吐き出し。それから、勿体つけず喋り始める。

 「だったらアナタ、尚更、『麓へ野菜を卸しに行きたい』なんて言っては駄目よね。あいつから、仕事を奪うことになるもの。ちなみに、仕事と言うからには、ちゃんと報酬も出しています。勿論、野菜を売ったお金から…て、名目でね。」

 まただ…また、アナタは忘れていた。そう、いつだって一番初めに忘れ、一番初めに思い出す…この行く手を阻まれた様な、背後の橋を落とされた様な、閉塞感を…。

 座り込んだままで、笑気に隠して溜息を吐き出す。…彼女と一緒に居るのが嫌な訳ではない。むしろ、彼女の傍に居られたなら、何もかも忘れてしまって構わないとさえ思ってしまう。だからこそ、アナタは、力の抜けた膝に手をつく。

 「酒か、やっぱり。まぁ、見た目はあれでも、鬼だからな。」

 どっこいしょと立ち上がった勢いで、声もやや強張る。アナタの仕草に気付きながらも、霊夢は浴槽の(へり)に手を置き、様子を(うかが)いたい衝動を(こら)えた。

 「手伝ってもらう度、あいつがいつも提げている徳利(とっくり)に、一升(いっしょう)のお酒を入れて上げているの。うちの神社へのご寄進に頂いたお神酒(みき)で、どうせ、アナタも、私も、『行ける口』ではないし…本当なら、ただ酒飲ませて上げても構わないところだけどね。まぁ、けじめという意味でも、形ばかり手伝ってもらっているんだ。そう言う訳だから…。」

「俺がしゃしゃり出ると、霊夢は気持ち良くあの子に酒を渡せないし、あの子も気持ち良く酒を受け取れないか…。そう言うもっともな理由があるんなら、初めに言ってくれよ。そうしたら俺だって、こんなにしつこくはせがまなかったさ。」

 アナタは格子窓の下まで近付くと、トンッとノックする様に、握り拳を、腕を、肘を、壁に押し付ける。

 板壁を小突く音に霊夢は、瞳を閉じて、微かな笑気を漏らすと、

「まさか、こんな言い訳が通じるなんて思わないでしょ。」

 「言い訳の積りだったのかよ。しかし、筋は通っているんだから、しょうがない。」

「ふぅん…。面白いものの考え方をするんだね、男の人って…。」

 瞼を落としたまま、コツンッと、浴室の壁に、向こう側のアナタに、霊夢は頭を預けた。…湯船のお湯は減っているはずなのに、ふつふつと、身体の芯が熱くなっていく…。

 そんな彼女の存在を感じ取ったのか、アナタは見上げる窓から視線を下げ、手元の壁を見つめる。

 「…じゃあ、麓へ行くのは諦めて…野菜を荷車へ積み込むところだけ、手伝わせくれよ。あの子に礼を言うついででさ…なっ。」

 壁の裏側から、微かな唸り声。

 「『しつこくせがまない』と言った、舌の根も乾かない内に…。薄皮一枚先…記憶の薄皮一枚先とやらに触れた時、肉も、骨も…アナタ自身さえ残っていなかったら、どうする積りなの…。」

「えっ…。」

 壁に触れていた手の皮を、肉を、骨を貫いて、怖気がアナタを弾いた。

 一歩、二歩、土を履物の(かかと)で削り、後ろへ下がる。だが、右手の指先は壁に触れたまま…。

 そうして数十秒の時間が、息使いも、水音もなく、二人の間を寄せては返す。アナタは堪え切れず、遂に、自ら口を開く。

 「霊夢。」

 彼女の名前を呼ぶ。その先は考えていない…しかし、彼女にはそれで充分だと、確信があったのだ。

 霊夢の声が返って来たのは、それから十数秒後の事だった。

 「ごめんなさい…。」

「良いんだ。例え、お前が何かを隠していても…(あざむ)かれているんだとしても…俺の為、霊夢がどれだけ心を砕いてくれているか…それは、忘れていない。だから、正直に…。」

 「…そうじゃ…なくてね…。」

と、言葉を尽くした訴えを打ち消…。それだけの『説得力』を持った弱弱しい声が、アナタに囁きかける。

 「霊夢…どうした。」

 これにはアナタも、不審そうに眉根を寄せながら、思わず壁へ耳を近付けた。

 板壁一枚隔てた向こうから聞こえるのは、パシャッと水を掻き分ける音、ポタポタッと水滴が湯船を叩くざわめき、そして…小さな手が壁に押し付けられる感触。

 アナタも掌を壁に付け、もう一度…。

「霊夢…。」

 「ごめんなさい。私…何だか…のぼせたみたいなの。」

 その一瞬で、掌に感じていた…と思われた彼女の存在は失せ、取って代わって木目の肌触りが鮮明になる。

 「はぁっ。」

 こんな声を上げたくなるのは当然であろう。…が、アナタは一つ、『大事なこと』を忘れてやいないだろうか…。

 「…あっ…。」

 そうだ、彼女は言っていたな。『湯加減は丁度良いから、薪を焼べなくてもいい』と…。

 それなのにアナタは、ぼんやりとした頭で、焚口に薪木を放り込んだ。その上、浴槽のお湯は随分と減っていたのだから…湯船に浸かっていた霊夢があっという間に茹で上がったのは、想像に難くない。

 「れ、霊夢。おい、大丈夫か。」

 今度こそ、返事はなかった。…これはちょっと、否、かなり不味そうだぞ。

 喉の奥で一声漏らす。アナタは、薪棚の釘に引っ掛かった着物が破れるのも構わず、地面へ転がり落ちる薪木を蹴飛ばし、勝手口の方へ駈け出していた。

 煌々と焚口では炎が燃え上がっている。アナタはまた忘れてしまった。…いいや、彼女の為に、置き去りにしたのだ。

[5]

 目の先に浮かんだ二重(ふたえ)の光の輪。開いた瞼から入り込むその(まぶ)しさに、霊夢が苦しげな(うめ)きを漏らす。

 「気が付いたか。」

 蛍光灯の光を遮った、穏やかな影と、優しい声。覆い被さるシルエットを覗き込んで、ようやく、霊夢の口元に笑顔が浮かんだ。

 「覚えている…。」

「んっ、さっきの話の続きか。それはもう良いから、黙って寝ていろ。」

 そんなアナタの応えに霊夢は、頭の下の小豆枕を鳴らして、首を振って見せた。

 「ううん…。お風呂場に、アナタが駆け込んで来た時のこと…。私、びっくりしちゃった。『お前の貧相な身体には興味ない』って、言われたばかりなのにって…ねぇ。」

「なに馬鹿言ってんだ。…たく。」

 耳に掛かるアナタの吐息で、霊夢は甘えた笑い声を零して…。しかしまた、辛そうな呻きへ変わる。身体に籠った熱は、まだまだ抜けきらないらしい。

 ズキズキと疼くこめかみを逃がそうと、枕の上でもがく。すると、どこからともなくそよそよ…火照った彼女の頬を、涼やかな風が撫でた。

 霊夢は表情から力を抜き、熱っぽい息を吐き出す。

 「ありがとう、良い気持ちだよ。」

 薄らと開けた目に映る、黙々と団扇(うちわ)で仰ぐ仕草。いつの間にか、あれだけ収まりの付かなかった頭も、枕の(くぼみ)に沈み込む。

 「…そう言えば、手と足は洗えたの。あと、火の始末はしてくれた。」

 これ以上はないという雰囲気の中、唐突に雑事の話が口を衝く。まぁ、それも、女性らしさであろう。

 アナタはそんな彼女の様子に、『調子が戻ってきたな』と、手を動かしつつほくそ笑む。

 「あぁ、心配しなくても、風呂釜の火は消したし、戸締りもしておいたよ。勿論、霊夢を運んだり、服着せるのが先で…間違っても、お前を後回しにはしていないからな。」

「そんな照れなくても…私には、ちゃんと解かるよ。」

 布団の隙間から、スッと、小さな手が伸びて…アナタの着物の端を掴んだ。そこには、アナタの慌て振りがはっきりと見通せる、大きな穴。

 覗き込めば、ほら…着物を薪棚の釘に引かれたのも気付かない程、勢い任せで二本の脚を急かす…アナタの姿が見えた。

 「あれ、いつの間に破いたかな。まっ、多分、畑仕事の時か、石段に座った時かだろう。すまないな、折角、霊夢の用意してくれた着物を駄目にして…。」

 そう(とぼ)た口振りに霊夢は、また、枕をグリグリとやって首を横に動かす。

 「いいよ。穴が開いたなら、当て布して直せば良いもの。すぐ…明日にでも、()って上げるからね。」

と、のぼせた頭を何度も動かした事が祟ったのか、言い終えるや彼女の顔が辛そうに歪む。

 閉じた唇の奥から聞こえる、か細い、笛の音の様な(うめ)き。アナタは煽ぐ手を止めると、着物の端を掴む彼女の手を取って、

「明日、霊夢の体調が良くなったら、そうしてくれ。俺だと不器用で、どうにもならないからな。」

 掛け布団を少しだけ(めく)り、彼女の腕をその中へ戻す。そんな様子を見守ってから、霊夢は目礼する様に、しっとりと瞳を落とした。

 「…でも、あんまり穴が大きかった時は、当て布しても不格好だし…。その着物には、雑巾に成ってもらうからね。可哀想だけど…。」

 チクリッとした捨て台詞に、団扇を拾い上げ掛けたアナタの手が止まる。代わって、視線を団扇に描かれた朝顔から、霊夢の顔へと移した。…眉は未だ苦しげに(かし)いで…が、唇は上機嫌で白い歯を覗かす。弱って居るかと思えば…。

 アナタは、ギターの弦を短く弾いた様な(うな)り漏らして、

「本当、手際が悪くて申し訳ない。」

 「だから、良いんだってば。一生懸命に尽くしてくれた結果だもの。」

「…えっと、何の話をしているんだ。」

 「勿論、アナタの着物の話…でしょうね。」

 …まったくもって、油断も隙もないな。ギターのボディを小突く様に軽く鼻を鳴らし…アナタは、温かな笑気を漏らした。

 それからしばしは、さわさわと頬を撫でる団扇の風と、穏やかな時間が流れる。互いに言葉もなく、声もなく、相手の存在を確かめ合いながら、ひたすらに、そしてゆっくりと、深まる夜へ耳を澄ます。

 物音一つない静寂の中。記憶の片隅…夕焼けに染まる景色で…カラスの声が陰を落とした。

 団扇を動かす手が、二人の時間に吸い込まれていたアナタの手が、止まる。

 (ここではないどこか…。俺の忘れている…俺の知っているはずの記憶…。それは、薄暮れ時で、生き物の声がして、世話しなくて…。こことは大違いで…それでも…。)

 畳の上に置いた団扇が、ふわり、冷たい風を起こす。指先に覚えたその感覚に、手を伸ばせば触れられる霊夢の顔に、アナタは胸中で語り掛ける。

 (薄々は気付いているんだ。本当は…。だけど、怖くて…忘れている事より、思い出せない事より怖くて…今日まで、どうしても聞けなかった。…霊夢は知っているじゃないか。俺が何者で、どこから来たのかを…俺が忘れている『大事なこと』の全てを…。俺は今度こそ、それを…。)

 背筋を伸ばし、右手の指を団扇から離し、そして、耳についた衣擦れの音。その優しい音色が、着物に開いた穴を、この着物をアナタに渡した日の霊夢の笑顔を思い出させた。

 アナタは彼女へ触れようとしていた手を、ついと、真上に伸ばす。

 (まっ、『今度』…また、今度だな。)

 そのまま立ち上がると、蛍光灯から垂れた糸を摘まみ、パチンッ、パチンッ。スイッチを二度引いて、淡く赤みがかった常夜灯まで、明り落とした。

 小さな電球から発せられるその光の色に…少しだけ後ろ髪ひかれながら…。アナタは(きびす)を返し、(ふすま)に手を掛ける。その刹那(せつな)…襖の取っ手に触れていた意識が、瞬時に、左の足首へ…いいや、足首を掴む手の内側へと移動した…。

 あまりの事に虚を突かれたアナタは、反射的に左足を前へ。それに、ずるずると追い(すが)り、畳を擦る音が付き(まと)う。

 固唾(かたず)と共に、やっと状況を呑み込んだ、アナタ。右足だけ動かし後ろへ、足元の薄暗がりへ、振り返った。

 「お願い、ここに居て…。私を置いて行かないで…。」

「お、おい、霊夢。何、言って…。」

 霊夢の懇願に言葉だけ返しながら、アナタの目線は、ふらふらと揺れる蛍光灯の糸の上。だが、手が伸びない…躊躇(ためら)われるのだ…この有り様を白日の元にさらけ出してしまう事が…。

 ただただ戸惑っているアナタの足元に、布団から食み出した霊夢の身体が、少しずつ近付いて来る。足首を掴む右手で引き寄せ、爪を食い込ませながら左手で畳を掻き分け…。

 その鬼気迫る姿を棒立ちで見つめ、それでも、アナタは糸へ伸ばし掛けた手を、彼女の肩に置く。

 「どこにも行かないよ。…部屋に戻るだけだ。ちゃんと、この家に居るからな。」

 そう言ってアナタは、うつ伏せの霊夢を起こそうと、もう一方の手も彼女の肩へ。しかし、両手が肩に触れた途端、霊夢が…、

「いや…嫌よっ。」

 ありったけの声を振り絞り、喉の裂ける様な絶叫。それと同時に、屈もうしていたアナタの左足を、体当たりするかの如く、抱きすくめた。

 所詮は女一人の、それも弱った女の力だ。どう力を入れたところで、高が知れている。アナタが困らされる程ではない。…とは言え今回は、突然の、そして、暗がりで、屈み込もうとしていた時の出来事。

 乱れた着物の胸元へ、ギュッと、押し付ける。そんな風に抱き付かれただけで、コロッと、アナタは本日二度目の尻もちをついた。

 上手く両手で受け身をとった為、尻、脚への衝撃は小さい。抱き付いて離れない霊夢の頬に、膝蹴りを入れないで済んだ。襖で背中をしこたま打ったが、まぁ、(おん)の字であろう。

 アナタは大きな溜息を吐き出して、辺りを見回す。

 一層、激しく揺れ動く蛍光灯の糸。まだ布団を被った霊夢の足元、それから…どこをどうしてそうなったか、奥の壁まで移動した竹細工の団扇。長い髪を振り乱した霊夢の息使い以外、静かなものだ。

 もう一度、細長い溜息を吐く。やっと意識が、アナタ自身の心臓の鼓動まで近付いて来た。

 ミシッと畳を鳴らし、手を持ち上げる音。霊夢は縋る腕の力を強めて、固く唇を結ぶ。

 「驚いたな、怖い夢でも見たのか。」

 さっき聞いたばかりのアナタの声が、何十年振りかで耳にしたかの様に感じられて…。霊夢は思わず、腕の力を緩める。ついで、その警戒感の緩んだ頭を、大きな手が撫でた。

 「お前がそこまで言うなら、今夜は、この部屋に居る。この部屋から一歩も出ないと約束するよ。…便所は…まぁ、大丈夫だろ。確か、来客用の夜具が、一揃え会ったよな。」

 艶やかな黒髪を撫でる手を止め、そのままの流れで立ち上がろうと試みる、アナタ。だがしかし…柔道の朽ち木倒しを受けた様なもので…再び、ストンッと、畳の上に腰が落ちた。

 こうなれば布団もへったくれもない。腹を括って霊夢の気の済むのを待つだけだ。

 「しばらくこうしているのも、悪くはないか。ただ、脚じゃなくて、こっちに…腕の方へ移って来てくれないか。霊夢を浴槽から抱き上げる時、少なくとも、両腕はお湯に(くぐ)らせたけど…脚はそうじゃないからさ。」

 左足を抱き潰さんばかりだった圧力が、ピタリッ、止んだ。アナタは小さく苦笑をもらして、視線を誘う様に、彼女の頭から手を退ける。

 「折角、風呂に入ったんだからな…。」

 もう一声、空っ惚けたアナタの駄目押し。その言葉を聞いた霊夢は、俯いたまま、身体を動かさぬまま…腕だけ、洗い清められていない脚を離した。

 彼女を丸め込むアナタの作戦は、ものの見事に、かつ珍しく上手くいった様だ。…が、それで気を良くした…いいや、図に乗ったアナタは、思わず、

「そうそう、(みそぎ)も大切な巫女の仕事だからな。」

 口を滑らせたばかりの間抜け面を、ジロリッ、噛み付きそうな霊夢の眼差しが睨む。

 アナタは自らの失敗を悔やむ様な、短い声を漏らして…とにかく、彼女へと両腕を伸ばす。

 両側をゆったりとした着物の袖で挟まれ、ただでさえ薄暗がりの中、霊夢の姿は黒い影に沈んだ。聞こえるのは、溜息の様な、心細さで編まれた息遣い。そうして暗闇に霞む呼吸を、アナタは上体を前に倒し、伸ばした両腕で抱き寄せる。

 「まったく、気難しい巫女さんだよな。気難しくて、そうかと思えば気さくで…肝が据わっている割に、寂しがり屋。そして…こんな俺を必要としてくれている。俺に居場所を与えてくれる。そんな、俺にとっては、二人と居ない女だよ。…まっ、何故か、俺が神社の外へ出る事を、異様なほど嫌っている節はあるけどな。」

 大きな胸で抱かれながらも、霊夢の瞳は鋭く…だがしばらくすると、うとうとと、瞼が忙しく上下しだした。…原因はおそらく、彼女の背中に回されたアナタの右手。

 ポンッ、ポンッと、寝付きの悪い子供をあやす様に軽く背中を叩かれる度、霊夢の意識は眠りの深海へ。巻き上げた夢の砂に覆われ、掻き分け、そして…、

「アナタはね…。」

 「んっ。」

「アナタは、ここを出て行きたいと思っているのよ。」

 「…前にも言ったけど、行く当てがないんだ。帰る当てもな…。」

 そう言いながらも、アナタ自身、半信半疑な思いを拭えない。ずっと、そんな思いを抱え込み、捨てきれず、霊夢との暮らしを続けてきたのだから…。だからアナタには、次に彼女の言う台詞も解かっている。

 「行く当て、帰る当てがあるのなら…。私を置いて、アナタは行ってしまうんですか。」

 当然の如く口を付いた言葉に、霊夢も薄笑いを浮かべた。

 彼女はいつだって身を投げ出し、アナタの心の奥へ潜り込んでくる。アナタの胸に抱かれたこんな瞬間にさえ…。

 やや汗ばんだ小さな背中。叩くのを止めた手を、その上に置く。それだけで、ずしりと、霊夢という存在の重みが自分の中で増していくのが解かる。

 アナタは、掌に感じる彼女の体温を通して、自分の心に触れた。

 「馬鹿言えよ。仮に帰る場所を思い出したとして、俺みたいな忘れっぽい奴、一人で出歩かせたら危ないだろ。…お前だって、いつも言っている事じゃないか。勿論、俺の帰る場所へは、霊夢にも付いて来てもらうさ。どうせこの神社、毎日、開店休業状態なんだ。一緒に来てくれるよな。」

 そんな申し出を受け、アナタの胸板に押し当てられた霊夢の額が、スッと持ち上がる。それから…視線と視線が重なる寸前、伸びきったゴムが勢いを付けて戻るかの様に、アナタの胸へ頭突きをかます。

 喉の奥から押し出された空気を、気合いの一噛み。何とか、口の中で爆発させ…。アナタは薄ら涙ぐんだ目で、常夜灯に照らされる墨色の毛髪を見下ろした。

 「『開店休業状態』は言い過ぎ。」

と、俯き、アナタの胸に頭をねじ込みながら、霊夢が続ける。

 「確かに、アナタの畑が出来てから、我が家の家計は飛躍的な安定化を遂げました。でも、本殿の賽銭(さいせん)箱だって、家の大事な収入源に間違いない。誰かが責任をもって管理する必要があるわ。まっ、いざとなったら、箱を納屋に移動させると言う手も、あるにはあるけれど…。」

 言葉付き、頭から力が失われた、ここが好機。大きく息を吸い込み、アナタは彼女の頭を押し返して、

「話も、賽銭箱も、収まるところに収まってくれた様で…。俺も、頭突きされ損で終わらなくてよかったよ。まぁ、こうして話ばかり先に進めても、俺が『帰る場所』を思い出さない事には、意味はないけどな。」

 大袈裟に息を吸い込んだ割には…こちらも尻すぼみ…何とも気抜けした言葉しか出てこない。

 月明りも行く方知れずの晩には、誰しもが手さぐりで言葉を探そうとする。手を伸ばし、抱き寄せ、そこに温もりが感じられたのなら、あえて、多くを語る事もなかろう。

 アナタは話の終わりを告げる様に、霊夢の背中から掌を離して、

「肝心なところは、俺の努力次第。『帰る場所』を思い出せるか、霊夢を説得できるか…。焦ってもしょうがないさ。気長に、時間を掛けて、二人で丸く収めれば、それで良いよな。…寝物語はここら辺で終いにしよう。さて、それじゃあ、俺の分の布団を敷くとするか。えぇっと、二つ枕を並べるとして、どっちが襖側で寝るのかは…。別に、霊夢が眠り込んだのを見計らって、逃げたりしないからさ。俺を襖側にしろよ、こっちだと隙間風があって…。」

 1センチ、2センチ、離れてもなお掌に覚える、霊夢の体温。アナタも安心しきって、もう1センチ、彼女の背から手を遠ざけた。…その時であった。

 さっきまで夢見心地だったとは思えない、はっきりと見開かれた霊夢の黒い瞳。深海の淀みの様な怖気を振るう眼差しと、掌に戻る湿り気を帯びた感触に…アナタは次の言葉を発せぬまま、口を閉じる。

 顔を上げた霊夢の声が、手探りでも、月明り頼みでもなく、真っ直ぐにアナタへ向かう。

 「寝物語だと言うなら…アナタが寝物語である事を望むなら、私もそれで構わない。だけど、あと一つ…あと一つだけ、聞かせて…。それさえアナタが答えてくれたなら、私は…今夜の事、全部、寝物語、夢物語だったと…悪い夢を見たとそう思って、明日まで引きずらないと約束する。だから…答えてくれますか。」

 そう言い終えるや、ふっと、アナタの手を押す彼女の背中から、圧迫感が弱まった。

 消え入りそうな声、存在感。咄嗟(とっさ)にアナタは、霊夢の着物の背中を指先で捕まえ、首を縦に振る。

 あるいは、アナタの中で、覚悟が決断に追い付いていなかったかも知れない。だが、アナタの胸中を満たすこの感情は、そして決意は、紛れもなく本物だ。

 背中側から引かれ、やや開いた胸元。それを隠そうともせず、霊夢は嬉しそうに微笑む。

 「…一つだけ聞きます。どこか、行きたい所はありますか。麓以外の場所で…だけど…。」

「えっ、行きたい場所…って、だから、ほら…俺、行く当てもない訳だし…。」

 その質問は随分と、アナタの予想の的を外していたらしい。視界の端を(かす)めた霊夢の『意図』の矢を追う様に、彼女の顔から目を逸らす。

 霊夢は、じっと、記憶を辿る様なアナタの瞳の動きを窺いながら…、

「それなら、何かしたい事は…。これも麓へ行く以外でだけど…この近辺で出来そうな、何かしたい事があるんじゃないの。」

 「えっと、そうだなぁ。じゃあ…いや、やっぱり駄目だな。」

「どうして、言ってみなよ。例えばの話でさ。」

 アナタが自分の夢想を打ち消した…その言下に、霊夢が夢物語の先を促す。その穏やかな表情へアナタも、静かで、だが沈んだ目線を返した。

 「止してくれよ。寝る前に変な夢を見せるのは…。俺一人じゃ、幻想郷を歩き回れないのを知っている癖して…。」

 それは多分、疲労が言わせた失言だったのであろう。今日一日、アナタにとってはまさしく、『目の回る』忙しさ…身体の疲れだけでなく、気疲れも相当なもののはずだ。

 だがそれでも…瞳に滲んだ涙を、アナタに見せまいと瞼で拭う…霊夢の心がわからない程、疲れ切ってはいない。疲れ切っていたとしても、そんな仕草を黙って見過ごせる訳がない。

 「だいたい、畑仕事がしたいと頼んだ時には、あんなに渋ったじゃないか。忘れてないぞ、その事は…。」

 また考え合っての言葉ではなかったが、今度も、どうにかしようとする気持ちは天に通じた様だ。

 閉じ掛けた瞳を、前にも増して見開く、霊夢。それから…きっと、彼女にもアナタの気持ちは通じていたのであろう…微笑む様に苦笑を漏らした。

 「…だとしたら、忘れていないのだとしたらきっと、『結局は、アナタのしたい様にさせた』と言わせたいんだね。」

「いや、そう言う訳でも…。まぁ、霊夢が俺の頼みを聞いてくれたのには、違いないんだけどな。それも、俺が予想していたよりずっと豪快に…ポンッと、更地を一(たん)ばかり…。俺の当初の計画では、庭の地面の一(つぼ)も借りられたらと思っていたんだ。引くに引けなくなって始めてみたものの、イメージした家庭菜園からは随分とかけ離れたやりがいをもらったよ。」

 アナタはそう言って、霊夢の背中から離した右手を、ストンッと畳の上へ落とす。程なくして、上向いていたその手に、ギュッと、彼女の左手が、彼女の体重が押し付けられる。

 「そう、やりがいを感じてくれているのなら、何より。だけど、考えてみれば確かに、畑ばかりでさぞ窮屈だったでしょうね。それでなくとも、ここのところは朝夕の収穫に追われて、一日家と畑の往復に成っていたから…。だから、仕方ないかも知れない。アナタの気持ちが神社の外へ、外へと向かってしまうのも。」

 優しい声。淡々と、アナタの眠りへ誘う様な霊夢の声が、続く。

 自然、アナタの瞼は、目線は下がり、頭を抱く彼女の右手を視野の上へと押し上げる。対照的に、アナタの右手に重ねられた彼女の左手…その圧力、その存在が、まどろむ意識の中心を大きく占め始めていた。

 「さぁ、教えて。アナタはどこへ行きたいの…麓の事を忘れてしまうくらい…アナタの生きた場所は、どこ…。」

「行きたい場所…そうだなぁ…それじゃあ…。」

 夢想を(まさぐ)る様に、アナタの汗ばんだ指が、ヌルリッ、ヌルリッと、重なった左手首を撫でる。そのこそばゆさを、得も言われぬ戦慄を楽しむ様に、霊夢は凄艶(せいえん)とした笑みを浮かべ、

「あるんだね、生きた場所が…言ってごらんよ。アナタがそこへ行ける様に、私も協力するから…だから、強く考えて…その場所の事を…畑の事を…博麗(はくれい)神社の事を…私の事を…アナタの世界の事を…。」

 「俺の…世界…。」

「うん、アナタの世界。アナタの世界に足りない場所は、どこ…。」

 霊夢の声が、(あたか)も眠りの極致を彷徨う様にアナタへ囁く。

 瞳は半分落ちた瞼の縁で振るえ、己のイメージの更に奥を見つめている。そんな忘我の境地の中で、アナタは口を開いた。

 「俺の世界…足りないのは…川…。」

「『川』。川で、何をするの。」

 「ぼんやりしたいな…。手も、脚も川の中に突っ込んで、魚を捕まえたり…程良く温まった石の上で昼寝したり…そんな事をしながら、ぼんやりしたい。」

「そっか。ところで、そこに…その川縁に私は一緒なのかな。例えば、ほら、私が作ったおむすび持って、捕まえた魚を焼いて…。私もそこで、アナタとのんびりしているよね。」

 「霊夢…。」

「うん、アナタと同じ石の上に座って居る…その娘の事だよ。」

 「霊夢…霊夢は…。」

 しばしの逡巡…否、夢見の後、アナタは瞼の裏を見つめながら、悪戯っぽく笑った。

 「霊夢とはもう、魚を取り上げただろ。それも特大の…風呂の中でブクブク言っている人魚姫を…あれ、人魚姫が魚で、魚が霊夢だったか。だけど、風呂の中に魚はいないだろ。」

と、完全に寝惚けたアナタの台詞。それに対して、霊夢は大きな溜息を吐き出す。

 「人魚姫ね、とっても光栄だわ。でも、やっぱり、そうなのか。畑仕事がしたいと言い出した時から、薄々は勘付いていたけれど…アナタは、アナタの世界の中に一人の空間を欲している。そうなんでしょう。」

 そう尋ねられたアナタは、一度(ひとたび)は大きく目を開き、かと思えばまた瞼を落として、

「そう…なのかも知れないな。畑仕事でもすれば、幾らかでも家計の足しになるんじゃないか。そう思ったのも嘘じゃないが…。」

 「ありがとうございます。アナタがそんな気持ちでいてくれた事、私はちゃんと知っていますから…。それを知っていてなお…私ときたら四六時中、アナタに纏わりついて…アナタが私を置いて、どこかへ行ってしまうんじゃないかと…。」

 ほっと、安堵の一息。緩んだ口元からは思いがけず、霊夢の本音が滲み出る。

 夢現(ゆめうつつ)の中、彼女のそんな声を耳にしていたアナタも…ニンマリと、口を開いた。

 「やきもち焼きだからなぁ…お前は…。」

 霊夢の頬で、ビクリッ、(なご)やかだった微笑みが痙攣する。その強張った表情で、考えを整理する様に視線を天井へ跳ね上げ、またアナタの顔へ下ろす。

 「それは…私も自覚あるけどね。で、どう言う意味。」

「どうって…あんまり強く言ったら、また…いつもの妙な勘繰りが出て来て、霊夢がやきもち焼くだろうから…今晩の、態度からすると…。」

 アナタのその言葉で再び、記憶を辿る様に、あるいはニヤケた面から目を逸らす様に、霊夢の瞳が上向く。しかし、今夜の…それどころか今日一日の自分の態度を振り返っても、彼女には思い当たる節が見当たらなかったらしい。

 それはまるで、より深くアナタの心中を覗き込むかの様に…。霊夢はアナタの後ろ頭を抱く右腕を、グッと、引き寄せた。

 「何しろ…川は、あの子と始めて出会った場所だろ。多分…絶対…勘繰られるだろうからな…。」

と、手繰り寄せられるが如くに、ポツリッ、ポツリッ、アナタが吐露した言葉。その口述を…いいや、言い草を聞いて、やっと、霊夢はアナタの言わんとしている事に気付く。

 「『あの子』って…ちょっと、まさか…萃香(すいか)のこと。…じゃあ、なに、私は萃香にやきもちを焼いていると思われているわけ。冗談止めてよ。あんな鬼の小娘に、何で私が…。」

 憤慨し、目くじらを立てる、霊夢の顔。アナタの目はぼんやりと、重なりあった二人の手を見つめたまま…だがそれでも、アナタはやっぱり彼女の顔を見つめているのだろう。

 定まらない焦点の先に、夢と(ぬく)もりと息使いの狭間(はざま)に、思い描いている。現実と、自分の頭を抱く彼女と、寸分(たが)わない膨れっ面を…。

 常夜灯の頼りない光の下、彼女の気持ちを鮮明に…鮮明に過ぎるほど、ありありと映す瞳。そうしてアナタは、寝惚け眼で苦笑を浮かべ、茶化す様に呟く。

 「俺が、あの子と会おうとするの…嫌がっただろ。」

「それは…。」

 霊夢はそこで口籠って…何故か、それ以上の反論が出てこない。それどころか、淡やかな電灯に蒼褪めても見えた。

 そんな現実の彼女を余所に、アナタは…多分、夢想の(とばり)に映った顔は、ひたすら照れて、ひたすら憤慨しているのであろう…楽しそうに笑いつつ、寝言を続ける。

 「自分の身体を『貧相』だとか言ったのも、あの子の事…変に意識していたからじゃないのか。」

「まぁ、そう言われれば…少しは、あいつを意識していたかも知れないけど…。アナタの言う通りで、私、やきもち焼きですから…。でも、そうじゃないかと思っていたなら、あんな…『興味ありません』みたいな態度とらなくても良いじゃないの。」

 俯いたアナタの視線の先に顔を潜り込ませ、霊夢は噛み付きそうな勢いで吠えたてた。…魚の様な青白さは和らいだ。しかし誰かさんの思わせ振りな態度は、時として、人魚姫を子犬に変える様だな。

 虚ろな目は彼女を見つめながら、だが、自分の夢想からピントを外さず返事をする。

 「いやいや…だって、それはさぁ…。」

 (あたか)も、頭ごなしで他の女に愛想を振り撒かれている。その『他の女』が誰あろう自分自身と知りながら…やはり、霊夢はやきもち焼きな様だ。(まなじり)を尖らせて、『霊夢』の言葉に相槌(あいづち)を打つアナタを睨みつけた。

 アナタがこの調子で、彼女でない『霊夢』さんへ親しみを込めた返答を続けるとすると…。同じ目の前にいる美女でも、暗がりで多少見辛い霊夢さんの方は、どうするだろうか。

 おそらくは、面白くないはずが笑みを浮かべているその唇で、アナタの口に噛み付く。そして、息が詰まり、生命の危機にアナタが目覚めるその瞬間まで、口を塞ぎ続けるであろう。両手が使えない、ついでに理屈ではない。だから、おそらく…いや、きっと、霊夢さんならそうするはずだ。

 そんな、命に関わる事態であるのを知ってか知らずか。アナタは半分開いて瞼を、ストンッと、完全に閉ざした。

 「俺が何を言ったって…と言うより、何か喋った事を足掛かりに…。堂々巡りで、結局はお前、()ねていただろうからな。最終的には、『自分を取るか、あの子を取るか』って話にまで発展してさ。そう成ったら、ほら…助けてもらった礼を、あの子に言えなくなる。…ちなみに、どうして礼を言えなくなるか。その先も聞きたいか。」

 寝惚けた上での発言でも、これは流石に窒息ものだろう。霊夢も即座に大きく息を吸い込み、返事だろうと、口を塞ぐ事だろうと、準備は万全。アナタへと顔を近付ける。だが…。

 あと数センチの所で、急に、霊夢の細い肩が止まる。唇を重ねようとした刹那、閉じていたアナタの目が開いたのだ。

 無論、『口付けの際に目を閉じない、マナー違反を(とが)めるため』とも、『唇を重ねる前に、舌舐めずりするのを忘れていた』からとも違う。

 開いた瞼の隙間から覗く、アナタの瞳。その淡褐色(ヘーゼル)に縁取られた瞳孔が、瞼の下へ潜り込むほど上へ、それから、やや左へ。霊夢の見ている前で、何かを、誰かを探す様に動き、そして…彼女の濃褐色(ブラウン)の瞳に、重なったのだ。

 目は口ほどに物を言う。伝えようとした思いの、重ねようとした唇の機先を制され…霊夢は口元を綻ばせて、溜息を吐いた。

 「私の言い回しの真似だね。だったら私も、アナタの真似をして…その先は、聞かない事にしておく。今日のところはね…。」

「『今日のところは』…。」

 「うん。」

と、霊夢は、押し付ける様にアナタの感覚を占めていた左手を、擦り合わせる掌に名残を留めつつ、離す。

 「アナタの思いの丈を一度に受け取ってしまうのは、何だか、勿体ないし…。それに、大切な言葉は、寝惚けていない時に言って欲しいから…。寝惚けさせた張本人が言えた話でもないけどね。」

 霊夢の手が離れ数秒、ビクンッと跳ねる、アナタの右手の指。指先へ一気に流れ込む血流は、(しび)れを痛みに変え…。少しずつ、融けた意識に輪郭(りんかく)を与えて行く。

 浮力に身を任せ、泥沼の様な眠りから意識の表層へと上っていく。そんなアナタの瞳に意思の光を確認して…霊夢は身体を離す間際に、ボソリッと、

「それに…アナタには今晩の内、もう一度、夢を見てもらわないといけないから…。」

 後頭部を離れる彼女の右手に、あるいは、彼女の言葉に、アナタは思わず両手を伸ばした。

 「えっ、今、何て…。」

「何でもないよ。」

 人魚姫は、するりとアナタの腕を擦り抜けて、薄明かりの中を浮かび上がる。そうして、見つめるアナタの夢の余韻を…パチンッ、パチンッと…蛍光灯の(まぶ)しい明りでかき消す。

 一瞬で鮮やかな色を取り戻した世界。いいや、こじんまりとした霊夢の部屋の中。

 アナタは小さな(うめ)きを漏らしながら、半目で辺りを(うかが)い、最後に一際艶めいた黒の上で視線を止める。

 「寝ていたのか、俺…。お前と話しをしていたよな。」

「さぁ、私は覚えていないけど…。寝惚けていたのじゃない。」

 細かい(まばた)きを繰り返し、見つめる黒い色。その黒がアナタの視界で、だんだんはっきりと、さらさらと揺れて、黒髪の一本一本として分かれて行った。

 乱れた寝巻の胸元を直す姿から…でなければ、薄らと妖しい笑みを浮かべる口元から目を逸らし…多分の気後れを口調に込めつつ、アナタはまた彼女に問う。

 「寝惚けて…か。だとすると、寝言なんかも…喋ったりしたよな。…何て言っていた。」

 恐る恐る尋ねる上目遣い。霊夢はその前を、スタスタと通り抜けて、押入れの襖に手を掛ける。 

 「別に、何も…。ただ、私が(じゃ)れ付いているのも構わず、素っ気なくお眠に成っていただけでしょ。」

「…そうだったな。『戯れ付いて』…そうだった。まったく、あれには驚かされたよ。あんまりからかうなよな、俺は霊夢と違って奥手なんだからさ。」

 「はい、はい。」

と、霊夢は気のない声を返して、押入れに詰まれた布団の間へ、両腕をすっぽり挟み込み、

「あっ、そうそう。川遊びの件ですけど、前向きに考えて置きますから、安心して下さい。…よっと。」

 引っ張り出した布団を自分の布団と隣り合わせで、アナタの足元、つまり襖側に広げる、霊夢。

 ピタリッ、隙間なく接した二組の布団を見下ろして…。抑え難い眠気に抗いつつ、苦しげな呻きを漏らしつつ、アナタは乱暴に両手で顔を擦った。

 「やっぱり、口に出して…。いや、何でもないんで、よろしくご考慮ください。…これも言っただろうけど、ぜひ、霊夢もご一緒に…。」

 喋りながらアナタは、指の隙間から覗く姿を見る。そこには、布団を踏み越え目の前に立ちはだかった、霊夢の笑顔。

 実に味わい深い、実に妙味に富んだその笑顔に、アナタは思わず、

「あの、俺、何か、失言でも…。」

 両手で表情を隠しこわごわ尋ねる態度に、霊夢はやや意地の悪い口調で返す。

 「ううん、そんな事はないよ。…そうだった。言っていたかもね、私と川遊びしたいって…。『私の作ったおむすびを食べたい』って言ったのは、覚えている。」

「えっ、そんな具体的な話を寝言で…だけど、言った様な…言ったかもしれないな。少なくとも、お前の作ったおむすびを食べたいのは、間違いないし…。でも…。」

 アナタは両手を目元から離すと、しゃがみ込む霊夢の顔を(いぶか)しげに眺めた。…彼女にも、そんな目付きの言わんとする事は解かっている。曰く、『お前のその顔は、言っていないと言っているぞ。』

 霊夢は疑いの目付きを、爽やかな笑顔と、

「それじゃあ、あなたの『夢』の手付けに、明日の朝御飯はおむすびにして上げるね。」

と、物柔らかの言葉で軽やかにあしらう。

 アナタには二の句の継ぎ様がなかった。…まぁ、少なくともそれで、『おむすびを食べたい』と言った事が本心なのは、伝わったか…。

 「さてと…では今から、三十分だけこの部屋を空ける事を許可します。」

 腑に落ちなさげな表情をしていたアナタを、(やぶ)から棒な一言が突っ突く。

 これは実に上手いやり口だ。余計な考えを巡らせている相手には、締め切りを設け、不必要な事柄に頭が回らなくしてしまうのが一番。特に、男相手の場合は…。

 ほら、アナタだって早くも、

「えっ、えっ。」

 意識が『許可された』原因と結果の方に向いている。ただでさえ忘れっぽいところを、ここまで見事に誘導されて…。完全に、霊夢の大きな…もとい、程良い大きさの尻に敷かれている様だな。

 また、『下の方』に行きかけたアナタの雑念を、彼女の声が払う。

 「寝る前には済ませておく事があるでしょ、色々。寝巻に着替えたり、枕を持って来たり、それに、ほら、『はばかり』なんかも…。まっ、そう言う訳だから、三十分だけ上げます。直ちに準備を終え、ここに戻ってくるように。もしも、三十分を過ぎても戻らなかったら…。」

「戻らなかったら…。」

 電灯の影と成ったその笑顔にアナタは、ゴクリッと、喉を鳴らす。そんな緊張の面持ちへ、二コリッ、笑顔を向けて、

「戻らなかったらどうするかは、まだ、考えないでおきます。三十分を過ぎたら、どうするか考え始めようかな。そう言う訳なんで、私があれこれ『手口』を思い付く前に、急いだ方がいいんじゃない。」

 言い終えるなり、さっさと立ちあがり背を向ける、霊夢。未だ掴まれた皺の残るその背中に、アナタは苦笑まじりの声で応える。

 「そう…だな。じゃあ、さっそく。俺まで怖い夢を見る前にな。…あ、いや、夢を見ていたのは俺だっけ…まぁ、なんでもいいか。」

 息急き部屋の外へ駈け出して行く音。スパンッと勢いよく閉められた襖は跳ね返り、細い隙間を残す。

 霊夢は布団の上に腰を下ろすと、隙間風を背に小さく溜息を漏らす。

 「とりあえず、私の『醜態』は忘れてもらったけれど…。今の間に、今夜のアナタの『夢』をどうするか…私も準備しないと…。」

[6]

 深夜、眠りに付いたアナタの瞼の向こうを…ぼんやりと…白く明るい光が照らす。

 薄く目を開けて見た先、天井との間に、覆い被さる様な霊夢の顔が…。

 「眩しいな…この光は…。」

「提灯の火だよ。」

 「そうか…提灯の…。」

 そう呟き再び目を閉ざしたアナタの額へ、霊夢は薄白く光る手をかざし続ける。この部屋で、そして、石段でアナタを抱き締めた時と同じ様に…。毎日毎夜、そうしている様に…。アナタがちゃんと、忘れてしまえる様に…。

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