体質
意識が……はっきりし始めた。
まるで立ちくらみから復活したかのような感覚だ。
こういう状態のとき、俺はいつも目をしばらく開けないことにしている。
突然目をあけると、あまりにもショックな映像が飛び込んでくるからだ。
今までの経験上。
まず、他の感覚神経から情報を読み取る。
味覚。
いつもなら何もないが、今回はどうやら違う。
血の味がする。
聴覚。
静かだ。
強いて言うなら、俺を含めて二人分の息遣いが聞こえる。
二人分……
嗅覚。
とりあえず、血の臭い。
それとは別に、本能をくすぐるような香り。
すでに怪しい気配がする。
触覚。
体中が痛いのはいつものことだが、痛みの種類が違う。
そして俺は、気絶していたにもかかわらず、倒れていない。
四つん這いだ。
そしてこれでどういう状況に陥っているのか把握した。
まぁ、いつものことだし。
俺は覚悟を決めて、ゆっくりと目を開ける。
そして目の前には想像した通りの光景。
ひとりの少女が俺に押し倒されていた。
その少女、門寺さんはさっきまでの強気な態度はなくなっている。
目に涙を浮かべ、弱々しく、おびえるようにこちらをみつめている。
外傷は……ないな。
だが全く力がない。
抵抗しようとする様子はみせるものの、すぐにあきらめてしまう。
これはいつも通りだ。
胸元がはだけてしまっているのも含め。
……って、俺こんなに落ち着いている場合じゃねぇ!
俺は目にもとまらぬ速さで飛び退く。
その行動を起こすまでがとんでもなく遅かったが。
このままこの場から逃げるという手もあるが、たぶん取り返しのつかないとこになるのでやめる。
あんな状態になったあとでは声がかけづらかったので、無言で手を差し伸べてみる。
悔しいながらも予想通り、怖がって身を縮ませてしまう。
一瞬、彼女がおびえるその姿を、可愛いと思ってしまった。
俺はSなのかもしれん、と思ったのもつかの間。
門寺さんはさっきまで目いっぱいに溜めていた涙をとうとう流し始めてしまった。
嗚咽もきこえる。
やばいやばいやばいやばいやばいやばい……
終わる。
いろんな意味で俺が終わってしまう。
主に俺の人間関係とか世間体とか、最終的には命が。
仕方ないが、いつもの方法でいくか。
門寺さんは今、涙とそれをぬぐう手で視界がふさがっている。
俺はこの隙に、素早く彼女の背中と足の下に手を入れる。
それに気づいて彼女はさらに委縮してしまうが、構っていられない。
俺はそのまま背筋に力を入れ、ひょいと持ち上げる。
短めのスカートが重力に負けて、中身が見えてしまいそうだ。
足を持ち上げている腕をもう少し腰に近づけるという手もあるが、お尻を触ったとかで痴漢扱いされても困る。
もうすでに怪しいところだが。
まぁ、他に誰もいないから大丈夫だ。
俺からは見えないし。
ちなみにジャージの人は床に転がっている。
全く動かないが、死んではいないと思う。
無事でもないと思うけど。
俺は門寺さんを抱えて部屋の端に移動する。
そしてそこにあった椅子に座らせようと試みる。
まだ身体に力が入らないようで、姿勢はおかしいがなんとか成功した。
彼女からゆっくり離れながら正面へ行き……
「すみませんでしたーーーー!」
謝った。
土下座だった。
記憶がないのでなんともいえないが、おそらく俺のやったことは少なくとも日本では法に触れる。
これでも許されるとは思っていないが、可能な限り謝意は見せたほうがいいだろう。
返事のないまま時間が過ぎる。
おそらく2、3分くらい。
人の目がないところでよかった。
いや、いつもそうなんだけど。
顔を上げなくとも視線は感じているので、たぶん様子を伺っている。
これもいつものパターンだ。
「どういうこと、なの?」
門寺さんがやっと口を開いてくれた。
泣いていたせいか、区切りが多くてかすれ声だったが。
俺は上体を起こして正座する。
「さっきまでの行動は俺であって俺でない奴の仕業というか……見当はついているはずです」
そうでなければ、あんな手荒なことはしなかったはずだ。
少し言葉を濁したのは、まだ自覚が薄いからかもしれない。
「……二重人格」
彼女はゆっくりと回答する。
俺はそれに黙って頷く。
少し前に喧嘩の売り買いの話をしたが、あれも俺がやったわけではない。
正確には俺が売られて、もうひとつの人格が買ったのだ。
「この様子だと、俺が思っていたよりも事態は深刻みたいですね」
隔離せねばならないくらいということだからな。
しかもさっき異常な力を発揮した彼女をもう一つの人格は倒した。
それはもう一つの人格がそれ以上の力を持っている可能性があるということである。
「まるでその場にいなかったみたいな言いぐさね」
「しょうがないですよ、もう一つの人格が出てきている間、俺には意識がないんですから」
俺がそう答えると、
「え? ……じゃあまさか、あなたが私にしたことも覚えてないってこと?」
門寺さんは顔を紅潮させて言う。
そんな顔を赤くするほど恥ずかしいことをしてしまったのだろうか。
また俺はいたたまれない気持ちになる。
「そりゃあ、まぁ、残念ながら」
「へぇ……そうなんだぁ」
ここで気付く。
とてつもないオーラ、そしてさっき顔を紅潮させていたのは怒りのせいであったと。
ああ、やったのに覚えていないとか言われたらそりゃ腹も立つだろう。
でも覚えていても、状況がよくなるとは思えない。
つまり八方ふさがりだった。
こういう時にやることはひとつ。
「ところで、そちらはどこまで俺の体質を把握していたんですか?」
話題転換である。
「……精神状態で能力に波があるかもしれない、ってことくらいね。それで今回体力測定を行ったんだけど」
鬼の形相をしながらも彼女は何とか質問に応じてくれた。
これで呑気に『そうなんです』とか返事してたらやばかったかもな。
「本気でやっているのに、体力が並だったと」
何を言われるのか分かっていた俺は、間を入れずにつなぐ。
門寺さんは俺の言葉にうなずいた。
よし、乗ってきた。
「それで何か特殊な条件でしか力を発揮しないという仮説を立てたの」
「それであんな手荒な手段を使ったと?」
これにも門寺さんはうなずく。
「今まであなたは自分から手を出したことはないらしかったから。過剰防衛しかしていないみたいね」
ほら、と彼女は自分のタブレット端末に表示されている画面を見せてくる。
『調査結果』という題の文面には確かにそのような内容が書かれている。
「ところで、これってどこから情報が出てくるんだ?」
「私、この施設に来る前にストーカーを捕まえたことがあるんだけど」
「マジですか」
突然話が変わったが、おそらく関係ある話なんだろう。
内容はなかなか物騒だな。
「ここの人間だったわ」
「それは一体どういう?」
「つまり、この施設の人間が調査しているということよ」
探偵さながらに調査していたということか。
つまり俺も監視されていたということか。
「聞き出すのに結構苦労したんだけどね」
拳を握ってそれを見つめ、不気味な笑みを浮かべる門寺さん。
ひぃぃぃぃぃいいいいいい! やばい!! 超怖い!!
ストーカーなんかよりも恐ろしい人が目の前にいた!!!
「へ、へぇ……そうなんですか……」
顔をひきつらせながら、かろうじて返事をする。
「で、それでここの話を聞いて、面白そうだったから来た、というわけ」
話し始めとは打って変わって、すっきりした笑顔で締めた。
話はひとつも笑えないけど。
それにしても、自分から進んできたのか。
俺みたいにわけもわからず連れてこられた人間と、この人みたいにすべてをわかった上で来た人間はどちらが多いんだろうか?
前者が多いならば世の中物騒である。
後者なら、怖い人多いな。
……どちらが多くても前向きな答えが出なかったので、これ以上は考えないようにする。
調査結果にいくつか気になる点があるが、どうしようか?
ひとつめは、俺が人格変化するとまるで人間じゃないみたいな記述がしてある。
まぁ、ここは彼女に言っても仕方ないかな。
俺も実際どうなっているのかわからないし。
さすがに言いすぎだと思うけどな。
あともうひとつは、人格変化のきっかけだな。
怪我をすることというのは若干違う。
まぁ、限りなく近いから修正しなくていいか。
「あ……」
いろいろな問題を解決して満足していると、ひとつ大きな問題があったことを忘れていた。
この状況、どうやって打破しようか?
俺は上司をぶっ飛ばし、女性を手にかけようとした犯人だ。
……今こうやって落ち着いて考えてみると、ものすごくやばいな。
今まで捕まったりしないで、ここに居るというのはもう奇跡みたいなものだ。
これと同じようなことが何度あったことか……
今までは何人も病院送りにしてもいろんな人が守ってくれたおかげで正当防衛扱いだった。
警察の人に少し注意されたくらいで。
手に掛けられた人たちもなぜか俺を訴えようとしなかった。
毎回俺は何かに守られてきたわけだが、今回もそうなるとは限らない。
とくに今回は今までと、俺を取り巻く環境が違う。
これまでと同じようにいくとは到底思えないが……
ここで、バイブレーションの音がした。
考え事をしている最中に突然音がしたので驚いた。
着信か?
自分のポケットに入っているタブレット端末を確認するが、俺のではない。
とすると……
「はい」
門寺さんが応答した。
内容は聞き取れない。
門寺さんはほとんど「はい」と答えるばかり。
途中で「いや、でも……」と反論する場面があったが、結局は了承したようだった。
彼女が電話を終えると俺のほうを向く。
何を言われるんだろう。
「今日は自分の部屋に帰りなさい」
「えっ? いいん……ですか?」
「あなたのことは許せないけど、上司から命令があったから。ただ、次会ったときは覚悟しておきなさい」
「はい……」
どうやらランキング1位すら自由に動かすことができる人間がいるようだな。
恐ろしい存在だが、今回ばかりは助かった。
もう少しで命がないところだったぜ。
俺は教室を出て、寮のほうへ向かう。
「今回はだいぶ痛むな……」
俺はひとり呟きながら、肩を回す。
俺のもう一つの人格はどうやらかなり無茶なことをするらしい。
いつも気がついた時には体中が筋肉痛になってしまっている。
今回は、その痛みがいつもよりひどい。
門寺さんはそれだけの相手だったということだろう。
ジャージの人はほとんど外傷はなく転がっていた。
それは一撃で沈められたことを意味する。
門寺さんも外傷はなかった。
ただ、それは俺のもうひとつの人格が女性にけがをさせない主義だからだろう。
あくまで経験からの推測だが。
今回目覚めたとき、筋肉痛とは別に身体に痛みを感じた。
その個所を見てみると、痣ができていた。
もう一つの人格が怪我をしたのは初めてだ。
門寺さんがつけたものだろう。
恐ろしいな。
今までどんなに多数を相手してもケガひとつしていなかったもうひとつの人格が、門寺さん一人に手こずるとは。
「次会ったときか」
俺はさっき門寺さんに言われた言葉を思い出す。
かなりお怒りな様子だったから、しばらく顔を合わせないほうがいいだろう。
俺の身の安全のために。
喧嘩を売られるのを避けるために調べた人払いのお祈りを、今までで一番真剣にした。