第一章 秘密 2
「クロマ様、急いで下さい」
下の階からアデポネの声が響く。四十を過ぎたが、わりと美人だ。誰もが振り返るような彼女に、若いころには男が放って置かなかっただろう。しかし、彼女の気品の高さと気質の強さとに、皆一歩引いたに違いない。
「今朝は、またいつもの嫌な夢をみたよ。事故に会わないように気をつけて運転して」
俺が身支度を終えて、急いで下へ降りて行った時には、アデポネはもう車に乗り込み、俺の到着を待っていた。いつも一歩先を読み行動する。それがアデポネという女性なのである。
「この用事も、あと二回だね。アデポネも早くいい人見つけて幸せになって欲しいな」
本心だった。幼い頃からずっと、俺の世話だけをしてくれていた。母には月に一度しか会えなかったが、アデポネのお陰で寂しい思いをせずに済んだのである。俺のお守から解放されれば、彼女にも自由がやってくるのではないだろうか。
「要済みってことですか? ひどいですね」
バックミラー越しにニコリと可愛らしい笑顔を覗かせる。看護師に、助産婦、保育士と、いろいろな資格を持っている勤勉な彼女ならすぐに新しい仕事も見つかるだろう。
「もったいないっていう意味だよ。僕があと二十年早く生まれていたら、きっとプロポーズしてたよ」
「おばさんで良かったですわ」
いつもの会話に、いつもの冗談。お互い気の許せる唯一の存在だったのかもしれない。彼女が世話役を引き受けてくれたのは幸運だった。彼女が母の友人だったことに感謝し、心から彼女の幸せを祈った。