第1章 黒い兎は野を駆ける
で、データが……
ぷ、プロットがぁぁぁぁぁぁぁ……
走っていた。
何時から走っていたのかは、わからない。ただ走っていた。
何かから逃げる様に……あるいは、何かを追う様に。
はぁはぁ……っは……っ……はぁ
息が苦しい、頭がくらくらする。
……かひゅっ……はぁ……はぁ
遂に身体が言うことをきかなくなり、立ち止まって深呼吸。
ひゅー……ひゅー……
呼吸を落ち着かせつつ、肺のなかに酸素を送り込む。
耳を澄まし、自分の身体を見てみると、濡れている。
雨が降っていた。
空はどす黒く濁り、渦巻いている。
「…………ここ……は?」
周りを見回せば、そこは桜並木の一本道。
この景色には見覚えがあった。
(ここは、たしか--)
ざりっ
不意に背後から、音がした。
音自体は小さな音だったが、緊張し、必要以上に五感が鋭くなっていたため、すぐに気がついた。
「っふ!!」
後ろを振り向くが、何もいない。
しかし、相変わらず背後からは、ザリッ……ザリッ…… といった、砂利を踏み締める音が、絶え間無く聞こえてくる。それも、段々と増えていっているのだ。
一筋の汗が頬を伝う。
そして、間を置いて……振り返る!
「ひっ!…………」
無数の黒。
空間を浸蝕するがの如く蠢いている。
不意に胸のあたりに熱い感触。
「ぁぐっ!」
身体からいっきに熱が抜けていき、芯が急速に冷えていく。
「…………母……さ……ん……」
視界がぐにゃりと歪み、次第に塗り潰されたように黒くなる。
「死に……た…く……ない」
=SEISYUN=
「っっ!!」
がばっ! と起き上がった。
「かはっぁ! ……はぁ……はぁ」
乱れる呼吸を整え、辺りを見渡す。
相も変わらず、何時も通りの几帳面な、整理された自室。畳の匂いが、朝の爽やかな風にのせられ鼻孔をくすぐる。
そんな八畳間。
「また…あの夢…………」
気づけば、全身汗で、べとべとだ。
「シャワー……浴びなきゃな…………」
入学式当日、朝
平々凡々な元中学三年生の俺こと、斬愛黒兎は、今日から高校生として新しい生活が始まる。
特別勉強が出来る訳でもなければ、スポーツが飛び抜けて上手い訳でもなかった俺は、家が近いという理由と、偏差値的に見ても中間くらいというから、近隣の高校である私立神栄学園を受ける事にした。
結果は無事合格。
晴れて受験生という重い肩書きから解放された俺は、残りの中学生生活を、同じく解放された友人達と共に、過ごした今ままでを想いつつ、残された日々をただ無意味に浪費させていった。
春休みに入ってからは、あまり外出せずに惰眠を貪っては、恋歌に叩き起こされるという生活を延々と送った。
そんな怠惰な日々も、昨日をもって終わりを告げ…………
「おはよ」
二階にある自分の部屋から出て階段を降り、リビングへ向かうと既に家族は全員起きていて、慌ただしくも着々と各自準備をしていた。未だ寝ぼけている頭を無理矢理覚醒させようと頑張りつつ、大きな欠伸をする。台所のある方を見てみると母がせわしなく手を動かしていた。弁当を作ってくれているのだろう。そのまま頭を動かし、テーブルの方を見ると、四つ分の椅子に囲われたテーブルがありその内二つの椅子に妹こと恋歌と父が座って、恋歌は朝食を、父は新聞を読んでいた。
一先ずシャワーを浴びて来ようと思い、母に、シャワー浴びて来ると一言声掛けてから浴室へ向かった。
シャワーを浴びてからリビングに戻ってみると、恋歌は既に朝食を食べ終えた様で、同じく弁当を作り終えた母と、カウンターの椅子に座りながら談笑していた。俺は四つある内、恋歌がさっきまで座っていた椅子の、隣の椅子に座り、既に用意してあった朝食を取り始めた。ちなみに俺の正面には、父が座っている、父は普通の会社に勤める、極普通のサラリーマンで、最近腹周りが気になりだした事以外、特に目立った特徴のない普通の中年おやじだ。
その父がいきなり話し掛けて来た。
正直びっくりした、最近父とは余り喋っていなかったからだ。別に仲が悪い訳では無いが、俺が中学に入った頃くらいから、自然と喋る事が無くなっていったのだ。だから、決して嫌いだから喋らなかった訳ではないわけで、ただ純粋に驚いてしまい、その結果しかめっ面になってしまった。
しかし、父は、どうやら俺のしかめっ面を、嫌悪と勘違いをしてしまった様で、その表情は哀しみで染まっていった。それでも父は自分の息子とコミュニケーションを取ろうとし、笑顔を取り繕っていた。
「最近学校はどうだ? うまくやってるか?」
「父さんに言われるまでもなく、きちっとやってるよ」
「そうか…………」
父に悪い事をしたと思い、精一杯の誠意を言葉で伝えようとしたが、逆にへこませてしまった。
父は哀しそうに顔を伏せて黙ってしまった。
朝食を終え、歯を磨く。その間に恋歌は全ての準備を終えたらしく、玄関で靴を履いていた。
「お母さーん、行って来まーす」
恋歌がそう声をあげるとリビングの方から母がやって来て、行ってらっしゃい、と声を掛けた。それから恋歌は俺の方へ顔向け笑顔で、行って来るね兄さん、と声を掛けてくれた、俺も笑顔で恋歌に、行ってらっしゃいと声を掛け恋歌が家を出るのを母と見送った。
「いってきまーすっ!」
歯磨きを終え、仕度を済ませた俺は、母さんに声をかける。
「忘れ物ない?」
そう言われ、鞄の中を確認してみる。
よし、問題無し!
「大丈夫!」
俺がそう返すと、母さんはにっこりと微笑み、いってらっしゃい、と言って俺の肩をポンと叩いた。
俺は母さんにもう一度、行ってきます! と言い家を出た。
=SEISYUN=
神栄学園は、近隣の学校での中では大きい方で、敷地もそれなりに広い。
中でも、学園の正門まで続く桜並木の一本道は、他では見る事の難しい、とても華やかな桜吹雪を見れる事で有名だ。
そんな桜並木を、希望と、期待と、緊張と、ほんのちょっぴりの恐怖を抱えながら、今年の新入生達が歩いていた。
勿論俺もそれに混じり、ドキドキする心を必死に落ち着かせながら、校舎への道を歩いている。
勿論、身を包む制服は真新しく、いかにも新入生といった風情だ。
神栄の制服は、他の学校と違い、かなりデザインに凝っており、凄く目立つ。何でも、卒業生に有名なデザイナーがいて、その人にデザインして貰ったらしい。だが明らかに、男子の制服より女子の制服の方が、凝っている様に見えるのは、見間違えではないだろう。
まぁ、この凝ったデザインの制服が、学生には人気だったようで、今じゃこの学校の名物でもあるのだが…………
ちなみにこの制服は、学年が一目で解るようになっていて、男子は、ネクタイのラインが、女子は、タイの色が、それぞれ、一年が青、二年が赤、三年が緑、といった具合に色分けされている。
「すげぇ…………」
思わず声がもれた。
そんな感想が漏れる程、この桜並木は綺麗だった。
今までも遠目に見た事は、何度かあった。しかし、いざ近くで見てみると段違いだ。
そんな驚きと感動を胸に桜並木を進んでいく。
「えー、しかしてー……」
入学式、俺は長いと相場が決まっている校長の話を右の耳から、左の耳へと聞き流し、人間の三大欲求の一つである、睡魔と戦っていた。なかなか睡魔を倒す事が出来ず、戦いは熾烈をきわめている。後にこれは、第三次眠いよ校長大戦と、呼ばれる事となる程の睡魔大戦となった。
「………………」
うん、暇なんだよ。
実際眠いしね。緊張したんだよ、昨日の夜。しかし、長いね校長の話、いい加減聞き飽きたよ。
「それでは、各自解散し、各教室に向かって下さい」
どうやら長い話は、終わりを告げたようだ。
「えー、それでは解散」
入学式後、各教室に集まった俺を含む新入生達は、担任となった若い男性教師の簡単な説明と、クラスメイトとなる同級生達の自己紹介をして、この日は終わった。
ちなみに俺の自己紹介は、可も無く不可もなくといった所だ。
=SEISYUN=
クラスが解散し、調度一時間がたった頃。
日は高いがクラスには人一人いる気配が無く、しん、と静まり返っている。
俺は、そんな教室の中央に茫然と立っていた。
もう一度静かな所であの桜並木を見てみたかったからだ。
もう、いい加減人が居なくなった頃だと思い、教室を出る。
「もし」
声が掛かった。綺麗なソプラノボイスだ。
まさか俺じゃないよなぁと、考えてみるが、周りに人はいない。一体何なのだろうと思いつつ、声が聞こえた後ろを見る。
「………………」
誰もいない。
空耳かな? と思い前を向こうとした時、またも声が聞こえた。
「何処を見ておる。こっちじゃ、こっち」
そう言われて下を見る。
…………居た。ちっこいのが。ちっこい女の子が。
小学生か? と思ってみるも、こんな所に小学生は居ないし、何よりちっこいのは、きちんと神栄の制服を着ていた。
「えと……俺……ですか?」
自分を指して問う。
「うむ、おぬしだ」
ちっこいのはそう言った。
そして、こうも言った。
「おぬしに訊きたい事があるのじゃ」
「訊きたい事?」
随分変な喋り方だなと思った。
「うむ、おぬし、白崎雄太という少年が、何処のクラスか知っているかの?」
白崎雄太、この名前には、聞き覚えがあった。
確か同じクラスだったな。
「あぁ、白崎君なら、俺と同じクラスですよ。A組です」
そう、言うと目の前のちっこいのは、何やら考えこみ、10秒ほど考え込んでから、顔を上げた。
「そうか、ありがとう」
そう言って微笑みかける彼女にドキッとした。
目の前のちっこい人は、確かに身長は小さいが、とても愛らしい人だった。
綺麗に整った顔、絹糸のように白い肌と、さらさらで漆のようにつやつやしている長い黒髪、まるで日本人形のような美しさ、まさに大和撫子と言った所だった。
「私の名は天音萌子、二年C組じゃ。おぬしは?」
自分でも顔が赤くなっているのを自覚し、どうにかばれないように平静を装う。…………って! 二年! て事は、先輩!? 嘘だろ!?
確かに、良く見るとタイの色が赤だ。
「おぬし、何気に失礼なやつじゃな…………」
心を読まれたらしい。
「えと、俺は斬愛黒兎です。一年A組です」
「完全スルーしよったな…………」
はて? スルーとはこれいかに………… ただの見て見ぬ振りですが。
「それをスルーと言うのじゃがな………… そんな事よりおぬし、何故このような時間に一人でこんな所にいるのじゃ?」
いや、それは、貴女もですよ、天音先輩…………
「私は部活動じゃ」
「ああ、なるほど。」
「で? おぬしは? 斬愛後輩」
まぁ、やましい理由でもないし、言っちゃってもいいか。
「いえ、桜並木が綺麗だったので、静かな所でまた見たいなと」
天音先輩は、ふむ、とひとつ頷いてからこんな事を言い出した。
「ならば、私もおぬしに付き合おうかの」
「…………は? ……いやいや、先輩部活中じゃなかったんですか?」
焦った俺がそう言うと、天音先輩は首を横に振った。
「いや、ちょうど終わった所なのじゃ。…………もしかして、迷惑だったかの?」
うっ……その瞳は、反則だろ!
しかし、まぁ断る理由も無い。
「い、いやそんな事は……じ、じゃあ、よろしくお願いします」
「うむ、よろしくの」
かくして俺は、天音先輩と桜並木を見に行く事になったのだった。
「それと斬愛後輩」
「はい?」
「顔が赤いぞ♪」
「なぁっ!///」
今思えばこれこそが、これから起こりうる事すべての始まりだったんだと、俺は思う。
=SEISYUN=
「…………やっぱり。……何時見ても綺麗だ」
先輩を伴って一本道にきた俺は、半ば無意識にそう呟いていた。
「そうじゃな…………」
そんな俺の呟きに、先輩は律儀にも言葉を返してくれた。
それからしばらく、二人無言で綺麗な桜並木を見続ける。
「のぅ、斬愛後輩?」
「え? あ、はい?」
いきなり話掛けられてびっくりした俺は、少々どもりながら答える。
「知っておるか? この桜はの、とある男女の大切な約束の為に、三年前に創られたものなのじゃよ」
「約束……ですか?」
かなり驚いた。
先輩の声音がさっきと全然違うものになっていたから。
「そう、約束。とても……とても大事な」
そう言った先輩は、何か遠い昔を想っているように見えた。
「いったいどんな内容の?」
「それは、ヒミツ♪……けれど、貴方がこの桜を見て、綺麗と言ってくれた時はとても嬉しかった」
「先輩?」
先輩の様子が少し変なだと思った。
「今日のわたくしは、少しばかりおかしいようです。本当はこんな事、他人に話す気など……無かったのですけどね…………」
そう言って、先輩は微笑んだ。
だからだろう。こんな事を言ってしまったのは。微笑んだ先輩の顔が、あまりにも自虐的で、あまりにも……悲しそうだったから。とてもじゃないけど放っておけなかったから。
「俺は……俺は、進みたいんだと思います」
「え?」
先輩はキョトンとした顔をしていた。
「進みたくて、進みたくて、…………それでも、どうしても後ろが気になって」
もはや、自分でも何を言っているのか解っていない、ただただ、溢れ出てくる言葉を不器用に紡いでいく。
「置いてきた物とか、残してきた人とか、すげー不安で、どんどん縛られていって」
そんな俺の言葉を、先輩は何も言わずに聞いてくれる。
「動けなくなって、前も見えなくて、もうどっちに進んでいいかも解んなくなって…………」
「………………」
「でもやっぱり進みたくて、こんな自分に絶望した………… そしたら、諦めが付いたんです。」
「………………」
「こんなにうだうだ考えて、自分に絶望して、こんなんなるんだったら、いっそ全部背負っていきゃあいいと」
「………………」
「全部背負って、意地でも進んでやると。這いつくばってでも進んでやると」
「………………」
「そしたらもう、後ろは気にならなくなりました」
風が吹き、桜が舞う。
「だから俺は、たとえ過去に何があっても、明日の為に…………自分の未来の為に進み続けます。」
言いきった。
しかし、すぐに恥ずかしさが込み上げてきて、言い訳を試みる。
「な、なんて偉そうなこ「そうですか…………」」
「貴方は……進む事を選んだのですね」
そう言った先輩の顔は、何処かスッキリしていて…………
「貴方が進んでいるのです、先輩であるわたくしが、立ち止まっていていいはずがありませんね」
そう言って微笑んだ先輩は、今まで見てきたものの中で、一番綺麗だった。
「所で、時間は大丈夫なのかの?」
時間?
ケータイの時計を見てみれば、あらびっくり、三時間も経ってますがなーっ!
「や、やばい! 確か今日は、恋歌との約束がっ!」
もし、時間に間に合わなかったら…………死ぬ……
「んん? 彼女かの?」
「違いますっ! 妹です!」
残念ながら彼女なんていないんですよ! 悪いですか!
「いや、悪いとは言っとらんが……そうか」
そう言うと先輩は、ふむ、と一つ頷いてから、手招をきした、こっちに来いということらしい。いや、あの、時間…………
何となく断れなさそうな雰囲気だったので、仕方なく先輩の近くへ行く。
「耳貸して」
先輩がそう言うので、目線を先輩に合わせてみた。
「一体何です--」
ちゅっ
不意に頬に暖かい感触。
「か????」
そして、耳元で
「ありがとう」
なに……これ?
何なのこれ? ……これは、あれですよね…………キス……ってやつですよね…………
「あ? あああいうえおぉぉ?」
今だ混乱の最中にいる俺を見て、先輩はクスクスと笑っていた。
「ほら、時間が無いですよ? 貴方は進むのでしょう?」
そう言われて思い出す、妹の鬼の形相。
「やっべ!」
そんな俺を見て、先輩はクスクス笑い、正門の方を指差す。
「ゆきなさい、斬愛後輩……いえ、そうですね、貴方の事はこれより先、兎、と呼ぶ事にしましょう」
何か、変なあだ名を付けられたらしい。
「わたくしはまだやる事が残っております。ですが貴方は、進むのでしょう? 兎。ならば進みなさい、その姿をもって貴方の意思を、わたくしに示してみせなさい」
何が何だかよく解らないが、どうやら先輩の悩みはふっ切れたらしい。
まぁ、なんにせよ時間が無いのは確かなので、お言葉に甘えて急ぐ事にする。
「では、先輩!また!」
そう言って、返事も待たずに走り出す。
「貴方とは、また近い内に逢えそうですね、兎」
そんな呟きは、走り出した黒兎には、当然聞こえない。
「不思議な人だったな…………」
そう言って振り向いた先には、桜吹雪のなか一人佇む先輩がいて、その光景は、ひどく印象に残った。
そして多分、俺はこの時を、先輩と初めて逢ったこの日を一生忘れない。