恋をすると水が荒れる国で、自称サバサバの友人は婚約者の前でだけ荒れます
この国の海の水は、覗く人の心が静かなときだけ、星を映す。恋をすると、水は荒れる。
だから新月の夜会では、誰もが腰に小さな銀の盃を下げている。
王都ソーレンのロジエ伯爵家の広間には、天井に九つの星窓が開いている。ガラス越しに降る星の光が、床に淡い四角を落としていた。楽団が三曲目を終え、人々が飲み物を手に輪をつくりはじめたころ、わたしの腰の鎖が、ぐい、と引かれた。
「エステルの水、見せて〜」
振り向くより先に、帯盃の蓋が開けられていた。
コレット・ノワイエは、わたしの盃を鎖ごと持ち上げて、わたしの目の下へ突きつけた。思わず見下ろしたわたしの顔の横から、自分も首を伸ばして覗きこむ。亜麻色の髪を後ろで一つに縛り、ドレスの裾を片手でつまんで、乗馬で日に焼けた頬が、楽しそうに上がっていた。
人の盃を勝手に覗くのは、ひどい無作法だ。この国の子どもは、歩けるようになるより先にそれを教わる。
「うわ、荒れてる〜」
コレットの声は、よく通る。近くの輪がこちらを向いた。
盃の水は、細かく震えていた。星は一つも映っていない。
当たり前だった。今夜のコレットは広間に入ってからずっと、わたしの婚約者の腕にぶら下がっていた。ラザールの肩に顎を乗せて、「この人、乗馬だと私に一回も勝てないの」と笑い、わたしの知らない子どものころの話をして、また笑った。わたしはその横で、ずっと微笑んでいた。微笑んでいる顔と、盃の中の水が、同じだとは限らない。
一曲目もそうだった。ラザールがわたしの手を取ろうとすると、コレットが「待って、先に私と一曲! 練習台になってあげる」と割りこんだ。「エステルはいいよね? 私たち、そういうの気にする仲じゃないし」。わたしが答えるより先に、二人はもう踊りの輪の中にいた。コレットは踊りながら何度もラザールの足を踏んで、そのたびに大きな声で笑った。
わたしは壁際で、一曲分、待った。
「え、嫉妬? 私とラザールに?」
コレットは目を丸くして、それから手を振った。
「ないない。私サバサバしてるから。女のそういうの、ほんと無理なんだよね。ラザールなんて男友達みたいなもんだし」
くすくすと、輪のどこかで笑いが起きた。
わたしは隣を見た。
ラザール・モンクレールは、グラスを持ったまま、困ったように笑っていた。
「コレットはそういうやつだから」
それから、わたしにではなく、周りに向かって言った。
「悪気はないんだ。な?」
輪がほどけて、笑い声が元の夜会の音に溶けていった。コレットは「ごめんごめん」とわたしの盃を返して、もうラザールの袖を引いていた。
わたしは盃を受け取って、蓋を閉じた。
蓋の表には、モンクレール家の紋の楡の葉が彫ってある。二年前、婚約の印にラザールから贈られたものだ。指でその葉の筋をなぞって、わたしは微笑んだ。
ほかに、できることがなかった。
*
帰りの馬車で、わたしは言った。
「人前で盃を覗かれるのは、つらいの」
ラザールは窓の外を見ていた。街灯の光が、彼の横顔を順に撫でていく。
「あいつに悪気はないよ」
「わかってる。でも」
「気にしすぎだ」
彼はこちらを見て言った。優しい声だった。それが、いちばんこたえた。
「君はもっと気楽にしていればいい。俺たちだって、試し映しのとき星二つだったろ。あいつとも、ガキのころから星二つなんだ。同じことだよ。安心できる相手ってだけさ」
二年前、婚約の前に、家同士の立ち会いでわたしたちは一つの盃を覗いた。星は二つ映った。両家の母はほっとして手を取り合った。わたしも、ほっとした。この人の前でなら、わたしの心は静かでいられるのだと。
政略の婚約だった。それでも、静かでいられる相手と結婚できるのは、幸運なことだと思っていた。嵐のような恋は、劇場の中だけで十分だ。ラザールは穏やかで、声を荒らげたことがない。わたしの話をさえぎったこともない。ただ、最後まで聞いて、「気にしすぎだ」と言うだけだ。
同じことだよ、とラザールは言った。
わたしは、それ以上なにも言わなかった。
翌朝、母は紅茶に砂糖を落としながら、わたしの顔を見ずに言った。
「ゆうべのこと、聞いたわ」
「……はい」
「殿方の交友に口を出すのは、見苦しいことよ。ノワイエのお嬢さんは昔からああいう方だし、モンクレールの皆さまも可愛がっていらっしゃる。あなたが静かにしていれば、それで済むの」
母の言うことは、正しかった。社交界の誰に訊いても、同じ答えが返ってくるだろう。婚約者の幼馴染に目くじらを立てる令嬢は、重い。嫉妬深い。見苦しい。
わたしは、紅茶の表面を見ていた。屋敷の水は井戸の水で、心とは関係なく、ただ天井を映していた。
決めた。
もう、人前で荒れない。
*
次の新月の三日前の夜、わたしは凪の社の汲み場へ行った。
ソーレン分社の汲み場は、岬の崖の下にある。石段を四十七段降りると、岩を削った小さな池があって、潮が満ちるたびに海の水が入れ替わる。令嬢たちは新月の夜会の前にここへ来て、帯盃にその水を受ける。社の汲み場の水は、いちばん澄んで、いちばんよく星を映すと言われている。
今夜、ほかに人はいなかった。
「ヴェラン様」
石段の下で、ユリウスが頭を下げた。
社の水読みで、汲み場の番も兼ねている。年は二十四だと前に聞いた。灰色の法衣の袖をまくって、柄杓を持っている。わたしは十六の初映しの年から、毎月ここで、この人から水を受けてきた。
「お願いします」
帯盃の蓋を開けて差し出すと、ユリウスはいつものように、顔を横へ向けたまま柄杓を傾けた。水が盃の縁の線まで満ちる。一滴もこぼれない。三年間、この人が人の盃を覗くところを、わたしは一度も見たことがなかった。
わたしは、自分の盃を見下ろした。
星が映っていた。
水面の真ん中に、白い粒が一つ。その周りに、もっと小さな光がいくつも。風が凪いで、崖の上の夜空が、そのまま掌の中に降りてきていた。
夜会では、あれほど荒れたのに。
「……どうしてかしら。ここだと、静かなの」
独り言のつもりだった。ユリウスは柄杓を桶に戻して、海のほうを向いたまま言った。
「汲み場は、そういう場所ですから」
それだけだった。
彼の腰帯には、懐盃が下がっている。紳士が懐に入れる小さな盃だ。けれど彼のそれは、いつも青い布で包まれていた。いつからだったろう、とわたしは思った。初めのころは、布などなかった気がする。二年くらい前から、ずっとこうだ。
訊かなかった。人の盃のことを訊くのも、たぶん無作法だから。
かわりに、別のことを訊いた。
「水読みは、人の水を見たら、何がわかるの」
「荒れているか、静かか。荒れているなら、どう荒れているか」
「どう、って」
「さざ波か、白波か、うねりか、渦か。……素人の方には、どれも同じに見えますが」
「全部わかってしまうのね。こわい」
「頼まれたときだけ、見ます」
ユリウスは、初めてこちらを向いた。灯りが遠くて、表情はよく見えなかった。
「見たことは、誰にも言いません」
初映しの夜のことを、わたしは思い出していた。十六の新月、生まれて初めて人前で独り映しをする前の晩、わたしは怖くてここへ来た。もし黒が出たら、「人形」と噂される。荒れたら、落ち着きのない娘だと言われる。盃を持つ手が震えて、柄杓の水を半分こぼした。
あのとき、まだ見習いだったこの人は、こぼれた水を黙って拭いて、もう一度、ゆっくり注いでくれた。そして、海を見たまま言ったのだ。
「水は、いまの心しか映しません。明日の夜会で何が映っても、それは明日の夜のあなたです。あなたのぜんぶではありません」
翌晩の初映しで、わたしの盃には星が映った。それから三年、わたしは毎月、ここへ来ている。
わたしはうなずいて、それから、いつもよりすこし長く、そこにいた。潮が満ちてきて、池の水が岩の縁を越えるまで。
*
月がまだ細い夜、モンクレール家の庭で、小さな夜会があった。
星窓のかわりに、庭には浅い池がある。映し庭だ。池の周りに灯りが置かれて、若い人ばかりが二十人ほど集まっていた。
ラザールの両親に挨拶をすると、侯爵夫人は「コレットちゃんも来ているのよ。あの子がいると賑やかでいいわね」と笑った。夫人にとってコレットは、娘のようなものなのだろう。乗馬服で厨房に入りこんで菓子をつまむのを、叱りもせずに眺めてきた人だ。わたしは、そうですね、と答えた。
わたしは心を抑えてきた。何を言われても、笑う。腕を組まれても、見ない。そう決めて、門をくぐる前に帯盃の水を見た。静かだった。星はちゃんと、映っていた。大丈夫。わたしは静かでいられる。
コレットは池のほとりで、自分の帯盃を皆に見せていた。
「見て見て。私、いつも星凪なの。裏表ないから」
両手で盃を胸の前に持って、自分で覗きこんでいる。本当に、星が映っていた。いくつも、くっきりと。周りの令嬢たちが「すごい」「きれい」と横から覗きこむ。コレットは得意そうに、盃を傾けないまま、くるりと回ってみせた。
「女の子ってさ、すぐ荒れるじゃん。あれ、見ててしんどいんだよね。言いたいことあるなら言えばいいのに。私は思ったこと全部言っちゃうから、溜まんないの」
また笑いが起きた。わたしも笑った。
そこへ、ラザールが後ろから来た。
「コレット、お前また飲みすぎだろ」
彼はいつものように、コレットの肩に手を置いた。コレットが盃を持ったまま、顔だけ振り向いた。
その瞬間だった。
コレットの盃の水が、細かく震えた。
星が、ふっと消えた。水面に、さざ波のような細い筋が、縁から縁へ走った。
コレットは気づいていなかった。ラザールを見上げて、「飲んでないし!」と笑っていた。ラザールも気づいていなかった。彼の目は、コレットの顔のほうにあった。周りの令嬢たちは、ちょうどラザールのほうへ振り向いて、挨拶をしていた。
見たのは、わたしだけだった。
ラザールが手を離して、別の輪のほうへ行く。コレットの盃の水が、ゆっくりと静まっていく。星が、一つ、また一つ、戻ってくる。
わたしは、自分の盃を握っていた。
わかってしまった。
コレットの水は、ラザールの前でだけ、荒れる。
言おうと思えば、言えた。ねえ、いまの見た? コレットの水、ラザールが触ったら荒れたわよ。
その一言で、何もかもがひっくり返るだろう。少なくとも、ひっくり返せそうな気がした。
でも、言えば、わたしは「婚約者の幼馴染に言いがかりをつける嫉妬深い女」になる。皆はそう見るだろう。それに。
あれは、コレットの心だ。
コレット自身も知らない、コレットの心。それを、わたしが人前に引きずり出していいはずがなかった。人の盃を勝手に覗くのは、ひどい無作法なのだから。
わたしは蓋を閉じて、黙っていた。
帰り際、門の前で振り返ると、池のほとりでコレットがまたラザールの腕を取っていた。灯りの下で、二人の影が一つになっていた。
*
それから、コレットは変わらなかった。
茶会では、ほかの令嬢たちに向かって言った。
「エステルってさ、ちょっと重いよね。私だったら婚約者に女友達がいても、全然気にしないのに。てか男女の友情わかんない人って、かわいそうじゃない?」
わたしはその場にいた。コレットは、わたしがいると知っていて言った。言ってから、わたしを見て、「あ、聞こえてた? ごめーん、冗談冗談」と笑った。
わたしも笑った。
ほかの令嬢たちは、目を見交わしてから、コレットのほうに笑い返した。誰も、わたしの味方はしなかった。それはそうだ。コレットは明るくて、誰にでも同じ調子で話しかける。爵位の上の人にも下の人にも、同じように肩を叩く。だから皆、あの子には裏表がないと信じている。わたしには、それが少し、うらやましかった。
ラザールとの約束は、二度、コレットの遠乗りのために延びた。ラザールは「あいつ一人じゃ危ないから」と言った。それも、正しかった。
わたしは笑った。笑って、胸の奥のものを、底のほうへ押しこんだ。押しこんで、押しこんで、上から蓋をした。荒れない。荒れない。わたしは、静かな令嬢だ。
そして、次の新月の夜会が来た。
王宮の大広間だった。三十六の星窓から、新月の星がこぼれていた。人前で婚約者と並び、帯盃の蓋を開けるのは、婚約している令嬢のたしなみのようなものだった。荒れていても、星がなくても、それはそれで微笑ましく見られる。
わたしはラザールの隣で、蓋を開けた。
水は、静かだった。
さざ波一つない。鏡のように平らで、滑らかで。
そして、真っ黒だった。
星が、一つも映っていなかった。星窓の下で、三十六の窓から降る光の下で、わたしの盃の水だけが、墨を流したように黒かった。
死凪。心を閉ざした人の水。
周りが、ざわめいた。
「黒い盃……」
「まあ。ヴェランのお嬢さん、あんなだったかしら」
「人形みたい」
コレットが、ラザールの向こうから首を伸ばした。
「黒っ! こわ〜」
それから、いかにも心配そうに眉を下げた。
「エステル、大丈夫? 笑って笑って。ほら、そんな顔してるから黒くなるんだよ」
ラザールは、わたしの盃を見て、それから目をそらした。
「最近、冷たいよな」
人垣の向こうに、母の顔が見えた。母は何か言いかけて、扇で口元を隠し、目をそらした。
わたしは、蓋を閉じた。
そして、ほっとしていた。
荒れなかった。
あれほど言われても、腕を組まれても、わたしの水は荒れなかった。静かになれた。もう誰にも「嫉妬?」と言われない。これでいい。これで、いい。
帰りの馬車で、窓の外を見た。雲のない新月の空に、星がいっぱいに出ていた。
きれいだと思わなかった。
何も、思わなかった。
昔は、星を見るのが好きだったはずなのに。どうして好きだったのか、思い出せなかった。窓ガラスに映る自分の顔は、ちゃんと微笑んでいた。
*
その夜、わたしは屋敷へ戻ったふりをして、裏口から抜け出した。
岬の石段を降りると、汲み場の灯りがまだ点いていた。ユリウスは、桶を洗っていた。足音に顔を上げて、わたしだとわかると、手を止めた。
「ヴェラン様。こんな時刻に」
「お願いがあるの」
わたしは帯盃を鎖から外して、両手で差し出した。
「読んでください」
ユリウスは、動かなかった。
三年間、この人は一度もわたしの盃を覗かなかった。頼まれたときだけ見ます、と言った人だ。だから、頼んだ。
「……よろしいのですか」
「お願い」
ユリウスは法衣で手を拭いた。それから、わたしを灯りから離れた星の下へ連れていった。
「ご自分で、覗いていてください」
わたしが盃を見下ろすと、彼は少し離れた横に立って、長いあいだ、黙って水面を見ていた。水読みが読むのは、覗いている人の水だ。
「黒です」
「静か、ではないの?」
「静かです。でも、黒です」
「社では、こう教えます。黒い凪は、眠りである。波を止めたのではない。空を見るのをやめた水だ、と」
空を見るのをやめた。
馬車の窓の、星。何も思わなかった、星。
「……わたし、荒れないようにしていたの。人前で荒れたら、嫉妬深い女だって笑われるから。静かでいれば、もう誰にも何も言われないと思って」
「荒れは、罪ではありません」
ユリウスの声は低くて、波の音にまぎれそうだった。
「相手の前で水が揺れるのは、その人の本当です。好きでも、怒っていても、悲しくても。本当のものを、恥じなくていい」
それは、社の教えなのだろう。子どものころ、どこかで聞いた気がする。荒れ王が荒れていたから、凪の値打ちを知った、とか。昔話だと思っていた。
気がついたら、泣いていた。
手の中の盃の水が、ゆっくりと揺れはじめた。黒い鏡に、大きなうねりが寄せては返す。ユリウスは、すぐに目を伏せた。わたしの盃を見ないように、海のほうへ顔を向けた。
わたしは泣きながら、考えていた。
わたしの水は、ラザールの前で荒れたことがある。夜会で、コレットが腕を組んだとき。馬車で、気にしすぎだと言われたとき。
でも、それは全部、傷ついたときだった。
ラザールを見て胸が鳴って、水がさざめいたことは、一度もなかった。二年間、一度も。
試し映しの星二つは、恋の証明なんかじゃなかった。わたしにとってラザールは、安心できる相手、というだけだった。コレットにとってのラザールと、同じように。同じことだよ、と彼は言った。ほんとうに、同じことだったのだ。
そして、わたしは。
その安心まで失くしかけて、心ごと、閉じようとしていた。
盃の水は、まだ揺れていた。揺れながら、少しずつ、黒さが抜けていく。黒い鏡の底のほうから、夜空の色が戻ってくる。
「話してみる」
わたしは言った。
「ラザールに。閉じたまま静かにしているんじゃなくて、ちゃんと、ひらいて。それで聞いてもらえなかったら、そのときは」
その先は、言わなかった。ユリウスも、訊かなかった。
ただ、彼の膝の上で、青い布に包まれた懐盃が、一度だけ小さく揺れた。わたしは自分の盃を見ていて、それに気づかなかった。
石段を上るとき、ユリウスは灯りを持って、三段下からついてきた。崖の上に出ると、彼は灯りをわたしに渡して、頭を下げた。
「お気をつけて」
「ありがとう。……さっきのことは」
「誰にも言いません」
わかっていた。それでも、聞きたかった。わたしは灯りを受け取って、屋敷への坂を一人で歩いた。空を見上げると、星が出ていた。きれいだ、と思った。思えたことが、うれしかった。
*
昼のモンクレール家の応接間で、わたしはラザールと向かい合った。
盃は使えない。昼は星がないから。言葉だけで言うしかなかった。
「ラザール。あなたの隣にいると、わたしの水は荒れるの」
彼は、カップを置いた。
「理由を、聞いてくれる?」
黙っていたのは、ほんの少しのあいだだった。ラザールは息を吐いて、髪をかき上げた。
「またコレットのことか」
「……ええ」
「あいつはサバサバしてるだけだ。裏表がないんだよ。君がもう少し心を広く持てば、それで済む話だろ」
彼はカップを持ち直して、それを飲まずにまた置いた。
「俺はさ、君と揉めたくないんだよ。コレットとも揉めたくない。皆で、楽しくやれればいいじゃないか。君といると楽なんだ。それじゃ駄目なのか?」
駄目ではない、とわたしは思った。ただ、その「皆」の中で、わたしだけが毎回、盃を覗かれて笑われているのだ。そのことを、この人は一度も見ていない。見ようとしていない。
わたしは、ひらいて言った。ひらいたまま、届かなかった。
そのとき、応接間の扉が勢いよく開いた。
「ねえ、ちょっと聞いてよ!」
コレットだった。乗馬服のまま、手袋を握りしめている。わたしに気づいて、一瞬だけ顔をしかめて、それから構わず続けた。
「ペルシエ夫人たちが言ってたの。エステルの水が黒くなったのは、婚約者の『お友達』のせいだって。私のせいだって! 意味わかんない。私、何もしてないし」
ラザールが立ち上がった。
「誰がそんなことを」
「みんなだよ。もう、ほんと最悪」
コレットはわたしのほうを向いた。笑っていなかった。
「エステル。あんたが何か言ったんでしょ」
「言っていないわ」
「じゃあ、証明してあげる」
コレットは、手袋で掌を叩いた。
「次の新月の夜会で、私とラザールが一緒に覗く。皆の前で。星二つだったら、ただの友達って認めてよね。ちゃんと社の水読みさんも呼んで、立ち会ってもらう。それなら文句ないでしょ」
ラザールは、わたしとコレットを見比べた。
「……それで噂が消えるなら」
わたしは何も言えなかった。
次の新月は、今年の社交季で最後の夜会だった。その夜、ヴェラン家とモンクレール家は、わたしたちの婚礼の日取りを皆の前で告げることになっていた。初秋の新月。あと二か月。
後戻りのできない夜に、二人は、皆の前で一つの盃を覗くと言っていた。
わたしだけが、その盃に何が映るかを、知っていた。
*
社交季最後の新月の夜会は、モンクレール侯爵家の大広間で開かれた。
十二の星窓の下に、人が集まっていた。噂は広まっていて、楽団が演奏をやめるより先に、人々は広間の真ん中に輪をつくっていた。わたしの母も、ラザールの両親も、その輪の内側にいた。
輪の真ん中に、灰色の法衣の人が立っていた。
ユリウスだった。
コレットが社へ使いを出して、水読みの立ち会いを頼んだのだと聞いた。社は、正式な立ち会いの求めを断らない。そして社がよこしたのが、汲み場の番をしているこの人だった。
ユリウスは、輪の人々に向かって一礼した。
「凪の社ソーレン分社の水読み、ユリウスと申します。立ち会いは致します」
顔を上げて、静かに続けた。
「ただ、読んだことは申し上げません」
コレットが眉を寄せた。
「は? 何それ。意味なくない?」
「水読みは、読んだことを口にしないのが務めです」
ユリウスは、輪をぐるりと見渡した。
「皆さまの目で、ご覧ください」
ざわめきの中で、コレットは肩をすくめて、それからわたしのほうへ向き直った。
「いいよ、別に。見ればわかるし。てかさ、エステルも覗きなよ、ラザールと。どっちが星多いか、勝負しよ」
輪の目が、いっせいにわたしに来た。
わたしは知っていた。
コレットの水は、ラザールの前で揺れる。ラザールが肩に手を置けば、きっと揺れる。皆が見ている前で。
黙っていれば、コレットは崩れる。わたしは何もしないで、勝てる。噂は正しかったことになり、わたしは同情される。それは、手を汚さない勝ちだった。そして、わかっていて見ていることでもあった。
止めるなら、理由を言わなければならない。言えば、コレットの心を、わたしの口で人前にさらすことになる。しかもそれは、皆の耳には、嫉妬した婚約者の言いがかりに聞こえるだろう。
勝負に乗れば、わたしは自分の水を、また他人の裁きの前に差し出すことになる。荒れていれば嫉妬だと言われ、黒ければ人形だと言われる、あの場所へ。
ラザールの母が、扇の陰からこちらを見ていた。わたしの母は、唇を結んでいた。ラザールは、わたしを見ずにコレットのほうを見ていた。いつもそうだった、と思った。この人は、困ったとき、わたしではなくコレットを見る。
ユリウスだけが、輪の真ん中から、まっすぐにわたしを見ていた。何も言わなかった。言わないことを、わたしは知っていた。
汲み場で、この人は言った。相手の前で水が揺れるのは、その人の本当です。本当のものを、恥じなくていい。
コレットの本当も、きっと、恥じなくていいものなのだ。ただ、それを人前に引き出すのは、わたしの手であってはならなかった。
星窓から、光が降っていた。輪の誰も、声を出さなかった。
わたしは、帯盃の蓋を閉じた。
閉じた盃を、胸に当てた。
丁寧な辞退の作法だ。一緒に覗くことを、お断りします。この国の誰もが、その意味を知っている。
輪が、小さくどよめいた。
「まあ、逃げたわ」
誰かがささやいた。くすりと笑う声が続いた。ラザールの母が、ぱちりと扇を閉じた。勝負を受けずに蓋を閉じた令嬢は、人の目には、負けを認めた令嬢に見える。わたしはそれを知っていて、閉じたのだ。胸に当てた盃が、冷たかった。
わたしはコレットのそばへ一歩寄って、彼女にだけ聞こえる声で言った。
「コレット。人前で覗くのは、やめたほうがいいわ」
理由は、言わなかった。
コレットは一瞬、わたしの顔を見た。それから、鼻で笑った。
「負け惜しみ? いいって。私サバサバしてるから、平気だし」
彼女はラザールの腕を引いて、輪の真ん中へ出た。自分の帯盃の蓋を開け、二人のあいだに掲げる。ラザールが身をかがめて、一つの盃を、二人で覗きこんだ。
広間じゅうの目が、その小さな水面に集まった。
星が、映った。
一つだけ。
ざわめきが、波のように輪を渡った。
「一つ……」
「二つじゃないわ」
コレットが顔を上げた。頬が、さっと赤くなっていた。
「ほら、ラザールが荒れてんの。エステルに悪いと思ってるからでしょ〜。ね?」
ラザールは、慌てたように懐から自分の盃を出した。蓋を開け、一人で覗く。独り映し。
水は静かだった。星が、いくつもくっきりと映っていた。
輪の目が、ゆっくりとコレットへ移った。
「は? 私だって荒れてないし」
コレットは自分の盃を胸の前に持ち、自分で覗きこんだ。
「ほら。見てよ」
輪の人々が横から首を伸ばす。星が、映っていた。いくつも。彼女が皆に囲まれて、水だけを見ているあいだは。
ラザールが、一歩近づいた。
「コレット、もういい」
いつものように。何百回もそうしてきたように。彼は、コレットの肩に手を置いた。
コレットが、盃から目を上げて、彼を見上げた。
胸の前の盃の水が、震えた。
細かく、細かく。縁から縁へ、さざ波が走った。星が、一つ残らず消えた。
広間の誰もが、それを見ていた。
コレット自身も、見ていた。
彼女は自分の盃を見下ろした。ラザールの顔を見上げて、もう一度、盃を見た。ラザールの手は、まだ肩にあった。水は、ずっと震えていた。
長い沈黙だった。
楽団の誰かが、弓を下ろす音がした。
輪の後ろのほうで、年配の夫人が小さく「まあ」と言った。
それだけだった。誰も笑わなかった。誰も、何も言わなかった。この国の誰もが知っているからだ。相手の前で水を揺らすのは、隠しきれない、好意の告白なのだと。
コレットの唇が、開いて、閉じた。
サバサバしてるから。思ったこと全部言っちゃうから。いつもすぐに出てくるはずの言葉が、出てこなかった。
彼女はラザールの手から、そっと肩を抜いた。
そして、帯盃の蓋を閉じた。
閉じた盃を、胸に当てた。
わたしがさっきしたのと、同じ作法で。
コレットはそのまま、誰の顔も見ずに輪を抜けて、広間の扉のほうへ歩いていった。ドレスの裾を、つまむのを忘れていた。
わたしは、追わなかった。何も言わなかった。
ユリウスも、何も言わなかった。彼は最初から最後まで、一度もコレットの盃を覗かなかった。読めば何もかもわかったはずの人が、ただ、皆と同じ場所から、皆と同じものを見ていた。
やがて、人々の輪は、ためらうようにほどけはじめた。誰かが楽団に合図をして、ぎこちなく次の曲が始まった。婚礼の日取りを告げるはずだった両家の父親は、顔を見合わせたまま、どちらも前へ出なかった。ラザールは、コレットの出ていった扉を見ていた。追うでもなく、戻るでもなく、ただ立っていた。
わたしは胸の前の、自分の閉じた盃を見下ろした。
さっきまでコレットが立っていた場所に、星窓の光が、四角く落ちていた。
*
夜会の終わり、わたしは露台でラザールを待った。
彼は少し遅れて来た。顔が青かった。
「エステル、俺は……」
わたしは帯盃を鎖から外した。蓋の留め金を指で押して、楡の葉の彫られた蓋を、盃から外す。
そして、それをラザールに差し出した。
蓋を返すのは、別れのしるしだ。
ラザールは、受け取らなかった。蓋とわたしの顔を、何度も見比べた。
「待ってくれ。コレットのことは、本当に知らなかったんだ。俺は何もしていない」
「ええ」
わたしは言った。
「あなたは、何もしてくださらなかった」
ラザールの口が、何かを言いかけて止まった。
「エステル、頼む。あれは事故みたいなものだろう。俺が悪いわけじゃない。これからは、あいつとも距離を置く。だから」
この人は、たぶん本当に、自分が悪いと思っていないのだ。そして、たぶん本当に、悪人ではないのだ。二年間、わたしはこの人の前で、一度も怖い思いをしなかった。ただ、一度も守られなかった。
わたしは彼の手を取って、その掌に蓋を置いた。楡の葉が、星の光の下で鈍く光った。
それ以上、言うことはなかった。
露台から階段を降りると、馬車の前で母が待っていた。母は、蓋のなくなったわたしの盃を見て、それから、わたしの手を取った。
「あなたの水が黒かったとき、気づくべきでした」
母の手は、冷たかった。わたしの手も、冷たかった。二人で握っているうちに、すこしずつ温かくなった。
婚約の取り消しは、翌週、家同士の書面で静かに整った。
*
コレットは、それからまもなく、ノワイエ家の領地へ帰ったと聞いた。社交季が終わったから、というのが表向きの理由だった。
ラザールは、次の季節の夜会にも出ているらしい。新月の夜、彼が懐盃の蓋を開けて差し出しても、一緒に覗こうとする令嬢はいないという。誰も意地悪をしているわけではない。ただ、あの夜を見た人たちは、皆、覚えているのだ。あの人の隣で、一人の令嬢の水は黒くなり、もう一人の令嬢の水は、誰にも言えずに揺れていた。そしてあの人は、そのどちらにも、何もしなかった。
晩夏の大凪の夜の、三日前。社交季の最後の汲み水の夜に、わたしは岬の石段を降りた。
帯盃には、蓋がない。
母は、新しい蓋を作らせましょうと言ってくれた。ヴェラン家の紋の、波頭に小舟を彫った蓋を。わたしは、もう少し待ってほしいと答えた。蓋のない盃は、少し心細い。歩くたびに、水がこぼれそうになる。でも、こぼれそうな水を、自分の手で支えて歩くのは、悪くない気分だった。
石段を一段ずつ降りながら、わたしは数を数えた。四十七段。三年間、毎月数えてきた段だ。降りきった先に、いつも同じ灯りがあった。
汲み場には、今夜もユリウスがいた。わたしの足音に顔を上げて、柄杓を持ったまま、頭を下げた。
「ヴェラン様」
「お願いします」
蓋のない盃を差し出すと、ユリウスは柄杓を傾けた。
顔を、背けなかった。
三年間で初めて、この人は、わたしの盃に水が満ちていくのを、まっすぐに見ていた。それから、わたしの顔を見た。
水が縁の線まで満ちて、柄杓が離れた。
ユリウスは、柄杓を桶に戻した。そして、自分の腰帯に手をやった。
青い布の結び目を、ほどいた。
布の下から出てきたのは、何の飾りもない、古い錫の懐盃だった。彼はその蓋を開けて、自分で水を覗きこみ、盃を傾けてわたしに水面を見せた。一緒に覗こうという差し出し方ではなかった。自分の水だけを、わたしに見せる差し出し方だった。
「私の心は、こうです」
ユリウスは言った。
「あなたの心は、問いません」
この国で、いちばん深い礼だ。相手に何も求めずに、自分の心だけを差し出す。返事をしなくてもいい、という意味でもある。
「あなたが婚約していらしたあいだは、お見せできませんでした。今夜も、お見せするべきか、ずっと迷っていました」
ユリウスは、盃を差し出したまま言った。
「でも、あの夜、私はあなたに、荒れは罪ではない、本当のものを恥じなくていい、と言いました。言った本人が、自分の水だけ包んで隠し続けるのは、嘘になると思いました」
わたしは、彼の盃を見た。
水が、震えていた。
細かく、細かく。縁から縁へ、さざ波が走っていた。星は一つも映っていなかった。素人のわたしにも、それがどんな荒れ方なのか、わかった。
「……布は、いつから?」
「二年前の、春から」
二年前の春。わたしの婚約が決まった月だった。
婚約した人の前で、水を揺らしてはいけない。だからこの人は、二年間、自分の盃を包んで、わたしの盃から顔を背けて、毎月、一滴もこぼさずに水を注いできたのだ。
わたしは、自分の手の中の盃を見下ろした。
水が、震えていた。
傷ついたときの荒れ方とは、違っていた。うねりでも、白波でもない。細かくて、軽くて、どこかくすぐったいような揺れ方だった。わたしは十九年生きてきて、自分の盃がこんなふうに揺れるのを、初めて見た。
「読みましょうか」
ユリウスが、小さな声で言った。
わたしは、首を横に振った。
「読まなくていいわ」
蓋のない盃を自分の両手で持ったまま、わたしは彼の盃の隣に並べた。
「わたしにも、わかるから」
岬の汲み場の、平らな岩の上に、二つの盃が並んでいた。どちらの水も揺れていて、星はまだ、一つも映らなかった。
誰かに覗かれたのではなかった。わたしが、自分の手でひらいた盃だった。
崖の上を渡っていた風が、やんだ。
潮が満ちて、池の水が岩の縁を越えた。その向こうで、夜の海がゆっくりと静まっていった。三日後の大凪を待つように、空の星を一つずつ、海が抱きはじめていた。
二つの盃の中だけが、まだ、揺れていた。




