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恋をすると水が荒れる国で、自称サバサバの友人は婚約者の前でだけ荒れます

作者: 星海 凪@異世界恋愛
掲載日:2026/10/02

 この国の海の水は、覗く人の心が静かなときだけ、星を映す。恋をすると、水は荒れる。


 だから新月の夜会では、誰もが腰に小さな銀の盃を下げている。


 王都ソーレンのロジエ伯爵家の広間には、天井に九つの星窓が開いている。ガラス越しに降る星の光が、床に淡い四角を落としていた。楽団が三曲目を終え、人々が飲み物を手に輪をつくりはじめたころ、わたしの腰の鎖が、ぐい、と引かれた。


「エステルの水、見せて〜」


 振り向くより先に、帯盃(おびさかずき)の蓋が開けられていた。


 コレット・ノワイエは、わたしの盃を鎖ごと持ち上げて、わたしの目の下へ突きつけた。思わず見下ろしたわたしの顔の横から、自分も首を伸ばして覗きこむ。亜麻色の髪を後ろで一つに縛り、ドレスの裾を片手でつまんで、乗馬で日に焼けた頬が、楽しそうに上がっていた。


 人の盃を勝手に覗くのは、ひどい無作法だ。この国の子どもは、歩けるようになるより先にそれを教わる。


「うわ、荒れてる〜」


 コレットの声は、よく通る。近くの輪がこちらを向いた。


 盃の水は、細かく震えていた。星は一つも映っていない。


 当たり前だった。今夜のコレットは広間に入ってからずっと、わたしの婚約者の腕にぶら下がっていた。ラザールの肩に顎を乗せて、「この人、乗馬だと私に一回も勝てないの」と笑い、わたしの知らない子どものころの話をして、また笑った。わたしはその横で、ずっと微笑んでいた。微笑んでいる顔と、盃の中の水が、同じだとは限らない。


 一曲目もそうだった。ラザールがわたしの手を取ろうとすると、コレットが「待って、先に私と一曲! 練習台になってあげる」と割りこんだ。「エステルはいいよね? 私たち、そういうの気にする仲じゃないし」。わたしが答えるより先に、二人はもう踊りの輪の中にいた。コレットは踊りながら何度もラザールの足を踏んで、そのたびに大きな声で笑った。


 わたしは壁際で、一曲分、待った。


「え、嫉妬? 私とラザールに?」


 コレットは目を丸くして、それから手を振った。


「ないない。私サバサバしてるから。女のそういうの、ほんと無理なんだよね。ラザールなんて男友達みたいなもんだし」


 くすくすと、輪のどこかで笑いが起きた。


 わたしは隣を見た。


 ラザール・モンクレールは、グラスを持ったまま、困ったように笑っていた。


「コレットはそういうやつだから」


 それから、わたしにではなく、周りに向かって言った。


「悪気はないんだ。な?」


 輪がほどけて、笑い声が元の夜会の音に溶けていった。コレットは「ごめんごめん」とわたしの盃を返して、もうラザールの袖を引いていた。


 わたしは盃を受け取って、蓋を閉じた。


 蓋の表には、モンクレール家の紋の楡(にれ)の葉が彫ってある。二年前、婚約の印にラザールから贈られたものだ。指でその葉の筋をなぞって、わたしは微笑んだ。


 ほかに、できることがなかった。


   *


 帰りの馬車で、わたしは言った。


「人前で盃を覗かれるのは、つらいの」


 ラザールは窓の外を見ていた。街灯の光が、彼の横顔を順に撫でていく。


「あいつに悪気はないよ」


「わかってる。でも」


「気にしすぎだ」


 彼はこちらを見て言った。優しい声だった。それが、いちばんこたえた。


「君はもっと気楽にしていればいい。俺たちだって、試し映しのとき星二つだったろ。あいつとも、ガキのころから星二つなんだ。同じことだよ。安心できる相手ってだけさ」


 二年前、婚約の前に、家同士の立ち会いでわたしたちは一つの盃を覗いた。星は二つ映った。両家の母はほっとして手を取り合った。わたしも、ほっとした。この人の前でなら、わたしの心は静かでいられるのだと。


 政略の婚約だった。それでも、静かでいられる相手と結婚できるのは、幸運なことだと思っていた。嵐のような恋は、劇場の中だけで十分だ。ラザールは穏やかで、声を荒らげたことがない。わたしの話をさえぎったこともない。ただ、最後まで聞いて、「気にしすぎだ」と言うだけだ。


 同じことだよ、とラザールは言った。


 わたしは、それ以上なにも言わなかった。


 翌朝、母は紅茶に砂糖を落としながら、わたしの顔を見ずに言った。


「ゆうべのこと、聞いたわ」


「……はい」


「殿方の交友に口を出すのは、見苦しいことよ。ノワイエのお嬢さんは昔からああいう方だし、モンクレールの皆さまも可愛がっていらっしゃる。あなたが静かにしていれば、それで済むの」


 母の言うことは、正しかった。社交界の誰に訊いても、同じ答えが返ってくるだろう。婚約者の幼馴染に目くじらを立てる令嬢は、重い。嫉妬深い。見苦しい。


 わたしは、紅茶の表面を見ていた。屋敷の水は井戸の水で、心とは関係なく、ただ天井を映していた。


 決めた。


 もう、人前で荒れない。


   *


 次の新月の三日前の夜、わたしは凪の社の汲み場へ行った。


 ソーレン分社の汲み場は、岬の崖の下にある。石段を四十七段降りると、岩を削った小さな池があって、潮が満ちるたびに海の水が入れ替わる。令嬢たちは新月の夜会の前にここへ来て、帯盃にその水を受ける。社の汲み場の水は、いちばん澄んで、いちばんよく星を映すと言われている。


 今夜、ほかに人はいなかった。


「ヴェラン様」


 石段の下で、ユリウスが頭を下げた。


 社の水読みで、汲み場の番も兼ねている。年は二十四だと前に聞いた。灰色の法衣の袖をまくって、柄杓を持っている。わたしは十六の初映しの年から、毎月ここで、この人から水を受けてきた。


「お願いします」


 帯盃の蓋を開けて差し出すと、ユリウスはいつものように、顔を横へ向けたまま柄杓を傾けた。水が盃の縁の線まで満ちる。一滴もこぼれない。三年間、この人が人の盃を覗くところを、わたしは一度も見たことがなかった。


 わたしは、自分の盃を見下ろした。


 星が映っていた。


 水面の真ん中に、白い粒が一つ。その周りに、もっと小さな光がいくつも。風が凪いで、崖の上の夜空が、そのまま掌の中に降りてきていた。


 夜会では、あれほど荒れたのに。


「……どうしてかしら。ここだと、静かなの」


 独り言のつもりだった。ユリウスは柄杓を桶に戻して、海のほうを向いたまま言った。


「汲み場は、そういう場所ですから」


 それだけだった。


 彼の腰帯には、懐盃(ふところさかずき)が下がっている。紳士が懐に入れる小さな盃だ。けれど彼のそれは、いつも青い布で包まれていた。いつからだったろう、とわたしは思った。初めのころは、布などなかった気がする。二年くらい前から、ずっとこうだ。


 訊かなかった。人の盃のことを訊くのも、たぶん無作法だから。


 かわりに、別のことを訊いた。


「水読みは、人の水を見たら、何がわかるの」


「荒れているか、静かか。荒れているなら、どう荒れているか」


「どう、って」


「さざ波か、白波か、うねりか、渦か。……素人の方には、どれも同じに見えますが」


「全部わかってしまうのね。こわい」


「頼まれたときだけ、見ます」


 ユリウスは、初めてこちらを向いた。灯りが遠くて、表情はよく見えなかった。


「見たことは、誰にも言いません」


 初映しの夜のことを、わたしは思い出していた。十六の新月、生まれて初めて人前で独り映しをする前の晩、わたしは怖くてここへ来た。もし黒が出たら、「人形」と噂される。荒れたら、落ち着きのない娘だと言われる。盃を持つ手が震えて、柄杓の水を半分こぼした。


 あのとき、まだ見習いだったこの人は、こぼれた水を黙って拭いて、もう一度、ゆっくり注いでくれた。そして、海を見たまま言ったのだ。


「水は、いまの心しか映しません。明日の夜会で何が映っても、それは明日の夜のあなたです。あなたのぜんぶではありません」


 翌晩の初映しで、わたしの盃には星が映った。それから三年、わたしは毎月、ここへ来ている。


 わたしはうなずいて、それから、いつもよりすこし長く、そこにいた。潮が満ちてきて、池の水が岩の縁を越えるまで。


   *


 月がまだ細い夜、モンクレール家の庭で、小さな夜会があった。


 星窓のかわりに、庭には浅い池がある。映し庭だ。池の周りに灯りが置かれて、若い人ばかりが二十人ほど集まっていた。


 ラザールの両親に挨拶をすると、侯爵夫人は「コレットちゃんも来ているのよ。あの子がいると賑やかでいいわね」と笑った。夫人にとってコレットは、娘のようなものなのだろう。乗馬服で厨房に入りこんで菓子をつまむのを、叱りもせずに眺めてきた人だ。わたしは、そうですね、と答えた。


 わたしは心を抑えてきた。何を言われても、笑う。腕を組まれても、見ない。そう決めて、門をくぐる前に帯盃の水を見た。静かだった。星はちゃんと、映っていた。大丈夫。わたしは静かでいられる。


 コレットは池のほとりで、自分の帯盃を皆に見せていた。


「見て見て。私、いつも星凪(ほしなぎ)なの。裏表ないから」


 両手で盃を胸の前に持って、自分で覗きこんでいる。本当に、星が映っていた。いくつも、くっきりと。周りの令嬢たちが「すごい」「きれい」と横から覗きこむ。コレットは得意そうに、盃を傾けないまま、くるりと回ってみせた。


「女の子ってさ、すぐ荒れるじゃん。あれ、見ててしんどいんだよね。言いたいことあるなら言えばいいのに。私は思ったこと全部言っちゃうから、溜まんないの」


 また笑いが起きた。わたしも笑った。


 そこへ、ラザールが後ろから来た。


「コレット、お前また飲みすぎだろ」


 彼はいつものように、コレットの肩に手を置いた。コレットが盃を持ったまま、顔だけ振り向いた。


 その瞬間だった。


 コレットの盃の水が、細かく震えた。


 星が、ふっと消えた。水面に、さざ波のような細い筋が、縁から縁へ走った。


 コレットは気づいていなかった。ラザールを見上げて、「飲んでないし!」と笑っていた。ラザールも気づいていなかった。彼の目は、コレットの顔のほうにあった。周りの令嬢たちは、ちょうどラザールのほうへ振り向いて、挨拶をしていた。


 見たのは、わたしだけだった。


 ラザールが手を離して、別の輪のほうへ行く。コレットの盃の水が、ゆっくりと静まっていく。星が、一つ、また一つ、戻ってくる。


 わたしは、自分の盃を握っていた。


 わかってしまった。


 コレットの水は、ラザールの前でだけ、荒れる。


 言おうと思えば、言えた。ねえ、いまの見た? コレットの水、ラザールが触ったら荒れたわよ。


 その一言で、何もかもがひっくり返るだろう。少なくとも、ひっくり返せそうな気がした。


 でも、言えば、わたしは「婚約者の幼馴染に言いがかりをつける嫉妬深い女」になる。皆はそう見るだろう。それに。


 あれは、コレットの心だ。


 コレット自身も知らない、コレットの心。それを、わたしが人前に引きずり出していいはずがなかった。人の盃を勝手に覗くのは、ひどい無作法なのだから。


 わたしは蓋を閉じて、黙っていた。


 帰り際、門の前で振り返ると、池のほとりでコレットがまたラザールの腕を取っていた。灯りの下で、二人の影が一つになっていた。


   *


 それから、コレットは変わらなかった。


 茶会では、ほかの令嬢たちに向かって言った。


「エステルってさ、ちょっと重いよね。私だったら婚約者に女友達がいても、全然気にしないのに。てか男女の友情わかんない人って、かわいそうじゃない?」


 わたしはその場にいた。コレットは、わたしがいると知っていて言った。言ってから、わたしを見て、「あ、聞こえてた? ごめーん、冗談冗談」と笑った。


 わたしも笑った。


 ほかの令嬢たちは、目を見交わしてから、コレットのほうに笑い返した。誰も、わたしの味方はしなかった。それはそうだ。コレットは明るくて、誰にでも同じ調子で話しかける。爵位の上の人にも下の人にも、同じように肩を叩く。だから皆、あの子には裏表がないと信じている。わたしには、それが少し、うらやましかった。


 ラザールとの約束は、二度、コレットの遠乗りのために延びた。ラザールは「あいつ一人じゃ危ないから」と言った。それも、正しかった。


 わたしは笑った。笑って、胸の奥のものを、底のほうへ押しこんだ。押しこんで、押しこんで、上から蓋をした。荒れない。荒れない。わたしは、静かな令嬢だ。


 そして、次の新月の夜会が来た。


 王宮の大広間だった。三十六の星窓から、新月の星がこぼれていた。人前で婚約者と並び、帯盃の蓋を開けるのは、婚約している令嬢のたしなみのようなものだった。荒れていても、星がなくても、それはそれで微笑ましく見られる。


 わたしはラザールの隣で、蓋を開けた。


 水は、静かだった。


 さざ波一つない。鏡のように平らで、滑らかで。


 そして、真っ黒だった。


 星が、一つも映っていなかった。星窓の下で、三十六の窓から降る光の下で、わたしの盃の水だけが、墨を流したように黒かった。


 死凪(しになぎ)。心を閉ざした人の水。


 周りが、ざわめいた。


「黒い盃……」


「まあ。ヴェランのお嬢さん、あんなだったかしら」


「人形みたい」


 コレットが、ラザールの向こうから首を伸ばした。


「黒っ! こわ〜」


 それから、いかにも心配そうに眉を下げた。


「エステル、大丈夫? 笑って笑って。ほら、そんな顔してるから黒くなるんだよ」


 ラザールは、わたしの盃を見て、それから目をそらした。


「最近、冷たいよな」


 人垣の向こうに、母の顔が見えた。母は何か言いかけて、扇で口元を隠し、目をそらした。


 わたしは、蓋を閉じた。


 そして、ほっとしていた。


 荒れなかった。


 あれほど言われても、腕を組まれても、わたしの水は荒れなかった。静かになれた。もう誰にも「嫉妬?」と言われない。これでいい。これで、いい。


 帰りの馬車で、窓の外を見た。雲のない新月の空に、星がいっぱいに出ていた。


 きれいだと思わなかった。


 何も、思わなかった。


 昔は、星を見るのが好きだったはずなのに。どうして好きだったのか、思い出せなかった。窓ガラスに映る自分の顔は、ちゃんと微笑んでいた。


   *


 その夜、わたしは屋敷へ戻ったふりをして、裏口から抜け出した。


 岬の石段を降りると、汲み場の灯りがまだ点いていた。ユリウスは、桶を洗っていた。足音に顔を上げて、わたしだとわかると、手を止めた。


「ヴェラン様。こんな時刻に」


「お願いがあるの」


 わたしは帯盃を鎖から外して、両手で差し出した。


「読んでください」


 ユリウスは、動かなかった。


 三年間、この人は一度もわたしの盃を覗かなかった。頼まれたときだけ見ます、と言った人だ。だから、頼んだ。


「……よろしいのですか」


「お願い」


 ユリウスは法衣で手を拭いた。それから、わたしを灯りから離れた星の下へ連れていった。


「ご自分で、覗いていてください」


 わたしが盃を見下ろすと、彼は少し離れた横に立って、長いあいだ、黙って水面を見ていた。水読みが読むのは、覗いている人の水だ。


「黒です」


「静か、ではないの?」


「静かです。でも、黒です」


「社では、こう教えます。黒い凪は、眠りである。波を止めたのではない。空を見るのをやめた水だ、と」


 空を見るのをやめた。


 馬車の窓の、星。何も思わなかった、星。


「……わたし、荒れないようにしていたの。人前で荒れたら、嫉妬深い女だって笑われるから。静かでいれば、もう誰にも何も言われないと思って」


「荒れは、罪ではありません」


 ユリウスの声は低くて、波の音にまぎれそうだった。


「相手の前で水が揺れるのは、その人の本当です。好きでも、怒っていても、悲しくても。本当のものを、恥じなくていい」


 それは、社の教えなのだろう。子どものころ、どこかで聞いた気がする。荒れ王が荒れていたから、凪の値打ちを知った、とか。昔話だと思っていた。


 気がついたら、泣いていた。


 手の中の盃の水が、ゆっくりと揺れはじめた。黒い鏡に、大きなうねりが寄せては返す。ユリウスは、すぐに目を伏せた。わたしの盃を見ないように、海のほうへ顔を向けた。


 わたしは泣きながら、考えていた。


 わたしの水は、ラザールの前で荒れたことがある。夜会で、コレットが腕を組んだとき。馬車で、気にしすぎだと言われたとき。


 でも、それは全部、傷ついたときだった。


 ラザールを見て胸が鳴って、水がさざめいたことは、一度もなかった。二年間、一度も。


 試し映しの星二つは、恋の証明なんかじゃなかった。わたしにとってラザールは、安心できる相手、というだけだった。コレットにとってのラザールと、同じように。同じことだよ、と彼は言った。ほんとうに、同じことだったのだ。


 そして、わたしは。


 その安心まで失くしかけて、心ごと、閉じようとしていた。


 盃の水は、まだ揺れていた。揺れながら、少しずつ、黒さが抜けていく。黒い鏡の底のほうから、夜空の色が戻ってくる。


「話してみる」


 わたしは言った。


「ラザールに。閉じたまま静かにしているんじゃなくて、ちゃんと、ひらいて。それで聞いてもらえなかったら、そのときは」


 その先は、言わなかった。ユリウスも、訊かなかった。


 ただ、彼の膝の上で、青い布に包まれた懐盃が、一度だけ小さく揺れた。わたしは自分の盃を見ていて、それに気づかなかった。


 石段を上るとき、ユリウスは灯りを持って、三段下からついてきた。崖の上に出ると、彼は灯りをわたしに渡して、頭を下げた。


「お気をつけて」


「ありがとう。……さっきのことは」


「誰にも言いません」


 わかっていた。それでも、聞きたかった。わたしは灯りを受け取って、屋敷への坂を一人で歩いた。空を見上げると、星が出ていた。きれいだ、と思った。思えたことが、うれしかった。


   *


 昼のモンクレール家の応接間で、わたしはラザールと向かい合った。


 盃は使えない。昼は星がないから。言葉だけで言うしかなかった。


「ラザール。あなたの隣にいると、わたしの水は荒れるの」


 彼は、カップを置いた。


「理由を、聞いてくれる?」


 黙っていたのは、ほんの少しのあいだだった。ラザールは息を吐いて、髪をかき上げた。


「またコレットのことか」


「……ええ」


「あいつはサバサバしてるだけだ。裏表がないんだよ。君がもう少し心を広く持てば、それで済む話だろ」


 彼はカップを持ち直して、それを飲まずにまた置いた。


「俺はさ、君と揉めたくないんだよ。コレットとも揉めたくない。皆で、楽しくやれればいいじゃないか。君といると楽なんだ。それじゃ駄目なのか?」


 駄目ではない、とわたしは思った。ただ、その「皆」の中で、わたしだけが毎回、盃を覗かれて笑われているのだ。そのことを、この人は一度も見ていない。見ようとしていない。


 わたしは、ひらいて言った。ひらいたまま、届かなかった。


 そのとき、応接間の扉が勢いよく開いた。


「ねえ、ちょっと聞いてよ!」


 コレットだった。乗馬服のまま、手袋を握りしめている。わたしに気づいて、一瞬だけ顔をしかめて、それから構わず続けた。


「ペルシエ夫人たちが言ってたの。エステルの水が黒くなったのは、婚約者の『お友達』のせいだって。私のせいだって! 意味わかんない。私、何もしてないし」


 ラザールが立ち上がった。


「誰がそんなことを」


「みんなだよ。もう、ほんと最悪」


 コレットはわたしのほうを向いた。笑っていなかった。


「エステル。あんたが何か言ったんでしょ」


「言っていないわ」


「じゃあ、証明してあげる」


 コレットは、手袋で掌を叩いた。


「次の新月の夜会で、私とラザールが一緒に覗く。皆の前で。星二つだったら、ただの友達って認めてよね。ちゃんと社の水読みさんも呼んで、立ち会ってもらう。それなら文句ないでしょ」


 ラザールは、わたしとコレットを見比べた。


「……それで噂が消えるなら」


 わたしは何も言えなかった。


 次の新月は、今年の社交季で最後の夜会だった。その夜、ヴェラン家とモンクレール家は、わたしたちの婚礼の日取りを皆の前で告げることになっていた。初秋の新月。あと二か月。


 後戻りのできない夜に、二人は、皆の前で一つの盃を覗くと言っていた。


 わたしだけが、その盃に何が映るかを、知っていた。


   *


 社交季最後の新月の夜会は、モンクレール侯爵家の大広間で開かれた。


 十二の星窓の下に、人が集まっていた。噂は広まっていて、楽団が演奏をやめるより先に、人々は広間の真ん中に輪をつくっていた。わたしの母も、ラザールの両親も、その輪の内側にいた。


 輪の真ん中に、灰色の法衣の人が立っていた。


 ユリウスだった。


 コレットが社へ使いを出して、水読みの立ち会いを頼んだのだと聞いた。社は、正式な立ち会いの求めを断らない。そして社がよこしたのが、汲み場の番をしているこの人だった。


 ユリウスは、輪の人々に向かって一礼した。


「凪の社ソーレン分社の水読み、ユリウスと申します。立ち会いは致します」


 顔を上げて、静かに続けた。


「ただ、読んだことは申し上げません」


 コレットが眉を寄せた。


「は? 何それ。意味なくない?」


「水読みは、読んだことを口にしないのが務めです」


 ユリウスは、輪をぐるりと見渡した。


「皆さまの目で、ご覧ください」


 ざわめきの中で、コレットは肩をすくめて、それからわたしのほうへ向き直った。


「いいよ、別に。見ればわかるし。てかさ、エステルも覗きなよ、ラザールと。どっちが星多いか、勝負しよ」


 輪の目が、いっせいにわたしに来た。


 わたしは知っていた。


 コレットの水は、ラザールの前で揺れる。ラザールが肩に手を置けば、きっと揺れる。皆が見ている前で。


 黙っていれば、コレットは崩れる。わたしは何もしないで、勝てる。噂は正しかったことになり、わたしは同情される。それは、手を汚さない勝ちだった。そして、わかっていて見ていることでもあった。


 止めるなら、理由を言わなければならない。言えば、コレットの心を、わたしの口で人前にさらすことになる。しかもそれは、皆の耳には、嫉妬した婚約者の言いがかりに聞こえるだろう。


 勝負に乗れば、わたしは自分の水を、また他人の裁きの前に差し出すことになる。荒れていれば嫉妬だと言われ、黒ければ人形だと言われる、あの場所へ。


 ラザールの母が、扇の陰からこちらを見ていた。わたしの母は、唇を結んでいた。ラザールは、わたしを見ずにコレットのほうを見ていた。いつもそうだった、と思った。この人は、困ったとき、わたしではなくコレットを見る。


 ユリウスだけが、輪の真ん中から、まっすぐにわたしを見ていた。何も言わなかった。言わないことを、わたしは知っていた。


 汲み場で、この人は言った。相手の前で水が揺れるのは、その人の本当です。本当のものを、恥じなくていい。


 コレットの本当も、きっと、恥じなくていいものなのだ。ただ、それを人前に引き出すのは、わたしの手であってはならなかった。


 星窓から、光が降っていた。輪の誰も、声を出さなかった。


 わたしは、帯盃の蓋を閉じた。


 閉じた盃を、胸に当てた。


 丁寧な辞退の作法だ。一緒に覗くことを、お断りします。この国の誰もが、その意味を知っている。


 輪が、小さくどよめいた。


「まあ、逃げたわ」


 誰かがささやいた。くすりと笑う声が続いた。ラザールの母が、ぱちりと扇を閉じた。勝負を受けずに蓋を閉じた令嬢は、人の目には、負けを認めた令嬢に見える。わたしはそれを知っていて、閉じたのだ。胸に当てた盃が、冷たかった。


 わたしはコレットのそばへ一歩寄って、彼女にだけ聞こえる声で言った。


「コレット。人前で覗くのは、やめたほうがいいわ」


 理由は、言わなかった。


 コレットは一瞬、わたしの顔を見た。それから、鼻で笑った。


「負け惜しみ? いいって。私サバサバしてるから、平気だし」


 彼女はラザールの腕を引いて、輪の真ん中へ出た。自分の帯盃の蓋を開け、二人のあいだに掲げる。ラザールが身をかがめて、一つの盃を、二人で覗きこんだ。


 広間じゅうの目が、その小さな水面に集まった。


 星が、映った。


 一つだけ。


 ざわめきが、波のように輪を渡った。


「一つ……」


「二つじゃないわ」


 コレットが顔を上げた。頬が、さっと赤くなっていた。


「ほら、ラザールが荒れてんの。エステルに悪いと思ってるからでしょ〜。ね?」


 ラザールは、慌てたように懐から自分の盃を出した。蓋を開け、一人で覗く。独り映し。


 水は静かだった。星が、いくつもくっきりと映っていた。


 輪の目が、ゆっくりとコレットへ移った。


「は? 私だって荒れてないし」


 コレットは自分の盃を胸の前に持ち、自分で覗きこんだ。


「ほら。見てよ」


 輪の人々が横から首を伸ばす。星が、映っていた。いくつも。彼女が皆に囲まれて、水だけを見ているあいだは。


 ラザールが、一歩近づいた。


「コレット、もういい」


 いつものように。何百回もそうしてきたように。彼は、コレットの肩に手を置いた。


 コレットが、盃から目を上げて、彼を見上げた。


 胸の前の盃の水が、震えた。


 細かく、細かく。縁から縁へ、さざ波が走った。星が、一つ残らず消えた。


 広間の誰もが、それを見ていた。


 コレット自身も、見ていた。


 彼女は自分の盃を見下ろした。ラザールの顔を見上げて、もう一度、盃を見た。ラザールの手は、まだ肩にあった。水は、ずっと震えていた。


 長い沈黙だった。


 楽団の誰かが、弓を下ろす音がした。


 輪の後ろのほうで、年配の夫人が小さく「まあ」と言った。


 それだけだった。誰も笑わなかった。誰も、何も言わなかった。この国の誰もが知っているからだ。相手の前で水を揺らすのは、隠しきれない、好意の告白なのだと。


 コレットの唇が、開いて、閉じた。


 サバサバしてるから。思ったこと全部言っちゃうから。いつもすぐに出てくるはずの言葉が、出てこなかった。


 彼女はラザールの手から、そっと肩を抜いた。


 そして、帯盃の蓋を閉じた。


 閉じた盃を、胸に当てた。


 わたしがさっきしたのと、同じ作法で。


 コレットはそのまま、誰の顔も見ずに輪を抜けて、広間の扉のほうへ歩いていった。ドレスの裾を、つまむのを忘れていた。


 わたしは、追わなかった。何も言わなかった。


 ユリウスも、何も言わなかった。彼は最初から最後まで、一度もコレットの盃を覗かなかった。読めば何もかもわかったはずの人が、ただ、皆と同じ場所から、皆と同じものを見ていた。


 やがて、人々の輪は、ためらうようにほどけはじめた。誰かが楽団に合図をして、ぎこちなく次の曲が始まった。婚礼の日取りを告げるはずだった両家の父親は、顔を見合わせたまま、どちらも前へ出なかった。ラザールは、コレットの出ていった扉を見ていた。追うでもなく、戻るでもなく、ただ立っていた。


 わたしは胸の前の、自分の閉じた盃を見下ろした。


 さっきまでコレットが立っていた場所に、星窓の光が、四角く落ちていた。


   *


 夜会の終わり、わたしは露台でラザールを待った。


 彼は少し遅れて来た。顔が青かった。


「エステル、俺は……」


 わたしは帯盃を鎖から外した。蓋の留め金を指で押して、楡の葉の彫られた蓋を、盃から外す。


 そして、それをラザールに差し出した。


 蓋を返すのは、別れのしるしだ。


 ラザールは、受け取らなかった。蓋とわたしの顔を、何度も見比べた。


「待ってくれ。コレットのことは、本当に知らなかったんだ。俺は何もしていない」


「ええ」


 わたしは言った。


「あなたは、何もしてくださらなかった」


 ラザールの口が、何かを言いかけて止まった。


「エステル、頼む。あれは事故みたいなものだろう。俺が悪いわけじゃない。これからは、あいつとも距離を置く。だから」


 この人は、たぶん本当に、自分が悪いと思っていないのだ。そして、たぶん本当に、悪人ではないのだ。二年間、わたしはこの人の前で、一度も怖い思いをしなかった。ただ、一度も守られなかった。


 わたしは彼の手を取って、その掌に蓋を置いた。楡の葉が、星の光の下で鈍く光った。


 それ以上、言うことはなかった。


 露台から階段を降りると、馬車の前で母が待っていた。母は、蓋のなくなったわたしの盃を見て、それから、わたしの手を取った。


「あなたの水が黒かったとき、気づくべきでした」


 母の手は、冷たかった。わたしの手も、冷たかった。二人で握っているうちに、すこしずつ温かくなった。


 婚約の取り消しは、翌週、家同士の書面で静かに整った。


   *


 コレットは、それからまもなく、ノワイエ家の領地へ帰ったと聞いた。社交季が終わったから、というのが表向きの理由だった。


 ラザールは、次の季節の夜会にも出ているらしい。新月の夜、彼が懐盃の蓋を開けて差し出しても、一緒に覗こうとする令嬢はいないという。誰も意地悪をしているわけではない。ただ、あの夜を見た人たちは、皆、覚えているのだ。あの人の隣で、一人の令嬢の水は黒くなり、もう一人の令嬢の水は、誰にも言えずに揺れていた。そしてあの人は、そのどちらにも、何もしなかった。


 晩夏の大凪の夜の、三日前。社交季の最後の汲み水の夜に、わたしは岬の石段を降りた。


 帯盃には、蓋がない。


 母は、新しい蓋を作らせましょうと言ってくれた。ヴェラン家の紋の、波頭に小舟を彫った蓋を。わたしは、もう少し待ってほしいと答えた。蓋のない盃は、少し心細い。歩くたびに、水がこぼれそうになる。でも、こぼれそうな水を、自分の手で支えて歩くのは、悪くない気分だった。


 石段を一段ずつ降りながら、わたしは数を数えた。四十七段。三年間、毎月数えてきた段だ。降りきった先に、いつも同じ灯りがあった。


 汲み場には、今夜もユリウスがいた。わたしの足音に顔を上げて、柄杓を持ったまま、頭を下げた。


「ヴェラン様」


「お願いします」


 蓋のない盃を差し出すと、ユリウスは柄杓を傾けた。


 顔を、背けなかった。


 三年間で初めて、この人は、わたしの盃に水が満ちていくのを、まっすぐに見ていた。それから、わたしの顔を見た。


 水が縁の線まで満ちて、柄杓が離れた。


 ユリウスは、柄杓を桶に戻した。そして、自分の腰帯に手をやった。


 青い布の結び目を、ほどいた。


 布の下から出てきたのは、何の飾りもない、古い錫(すず)の懐盃だった。彼はその蓋を開けて、自分で水を覗きこみ、盃を傾けてわたしに水面を見せた。一緒に覗こうという差し出し方ではなかった。自分の水だけを、わたしに見せる差し出し方だった。


「私の心は、こうです」


 ユリウスは言った。


「あなたの心は、問いません」


 この国で、いちばん深い礼だ。相手に何も求めずに、自分の心だけを差し出す。返事をしなくてもいい、という意味でもある。


「あなたが婚約していらしたあいだは、お見せできませんでした。今夜も、お見せするべきか、ずっと迷っていました」


 ユリウスは、盃を差し出したまま言った。


「でも、あの夜、私はあなたに、荒れは罪ではない、本当のものを恥じなくていい、と言いました。言った本人が、自分の水だけ包んで隠し続けるのは、嘘になると思いました」


 わたしは、彼の盃を見た。


 水が、震えていた。


 細かく、細かく。縁から縁へ、さざ波が走っていた。星は一つも映っていなかった。素人のわたしにも、それがどんな荒れ方なのか、わかった。


「……布は、いつから?」


「二年前の、春から」


 二年前の春。わたしの婚約が決まった月だった。


 婚約した人の前で、水を揺らしてはいけない。だからこの人は、二年間、自分の盃を包んで、わたしの盃から顔を背けて、毎月、一滴もこぼさずに水を注いできたのだ。


 わたしは、自分の手の中の盃を見下ろした。


 水が、震えていた。


 傷ついたときの荒れ方とは、違っていた。うねりでも、白波でもない。細かくて、軽くて、どこかくすぐったいような揺れ方だった。わたしは十九年生きてきて、自分の盃がこんなふうに揺れるのを、初めて見た。


「読みましょうか」


 ユリウスが、小さな声で言った。


 わたしは、首を横に振った。


「読まなくていいわ」


 蓋のない盃を自分の両手で持ったまま、わたしは彼の盃の隣に並べた。


「わたしにも、わかるから」


 岬の汲み場の、平らな岩の上に、二つの盃が並んでいた。どちらの水も揺れていて、星はまだ、一つも映らなかった。


 誰かに覗かれたのではなかった。わたしが、自分の手でひらいた盃だった。


 崖の上を渡っていた風が、やんだ。


 潮が満ちて、池の水が岩の縁を越えた。その向こうで、夜の海がゆっくりと静まっていった。三日後の大凪を待つように、空の星を一つずつ、海が抱きはじめていた。


 二つの盃の中だけが、まだ、揺れていた。

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