棋聖、地雷になる
俺は、死んだのだと思った。いや、死んだのだと断定するには少々順序が違うような気もするし、そもそも俺は死後の世界というものを真面目に想像したことがなかったのだが、少なくとも最後に覚えているのが畳の匂いと、盤上に落ちる相手の指先の震えと、そして「また勝ってしまったな」という、勝負師としては少々嫌味なくらいの充足感だった以上、次に目を開けた場所が見知らぬ天井であることに、まず大きな不満を覚えたのは事実である。
いや、天井どころではない。白い。妙に白い。しかも妙に綺麗で、妙に現代的で、俺の知っている屋敷や宿や対局場のどれとも違い、畳もなければ障子もなく、代わりに机のようなものが置かれ、箱のようなものが置かれ、よくわからぬ板のようなものまで転がっていて、これを見た瞬間の俺の率直な感想を一言で言えば「ここはどこだ」ではなく「何だこれは」であった。人間、死後に驚くことがあるなら、たぶんこういう場所に放り込まれたときなのだろうと思う。
そして次に気づいたのは、身体が妙に軽いことである。
いや、軽いどころではない。感覚が違う。腕を動かせば細く、足を動かせば長く、呼吸をすれば胸のあたりが妙に揺れ、しかもその揺れがやたらと存在感を主張してくるので、俺はしばらく考えるというより思考停止し、最終的に「……ん?」とだけ声を漏らした。すると、その声がまた、ひどく高く、ひどく柔らかく、ひどく若い。しかも妙に可愛げがある。ふざけるな、と思った。俺は天野宗歩だぞ。将棋指しだぞ。どうして俺の喉から、こんな、少し甘えたような、少し拗ねたような、いかにも今時の若い女みたいな声が出てくるのだ。
「え、ちょ、待って……なにこれ……」
出た。出てしまった。しかも、もっと酷いことに、それが妙に馴染んでいる。言っている本人である俺が腹立たしいし、耳で聞いている俺も腹立たしいし、何よりその声の主らしき身体の感覚が、なんだか少しだけ「かわいいでしょ」とでも言いたげなのが腹立たしい。将棋の盤上ならば、こういう感情はまず悪手として処理するところだが、今はそもそも盤がない。どこにもない。あるのは、胸である。しかもかなりある。笑えない。いや、少し笑える。だが笑っている場合ではない。
恐る恐る見下ろすと、案の定、そこにあったのは俺の記憶には存在しない立派な胸で、しかも服の上からでも輪郭がはっきり分かるほど存在感を放っており、俺はその場で「なんだこれは」と三回ほど心の中で言い直した。立ち上がると、軽い。軽いのに胸だけ妙に重い。意味がわからない。しかも鏡がある。誰だ、こんな無慈悲な位置に鏡を置いたのは。人の覚悟というものを知らぬのか。
鏡を見た。
そこには、地雷系の女がいた。
黒髪。白い肌。大きな目。少し濃い化粧。妙に甘さのある服装。首元のリボン。全体として、なんというか、現代の若い女が「私は傷つきやすいけれど可愛くありたい」と全身で主張しているような、非常に情報量の多い見た目であり、俺はその瞬間、なぜか頭の片隅で「地雷系」という単語を思い出してしまった。思い出したくもないのに、である。しかもその地雷系女子が、鏡の中でひどく混乱した顔をしている。そりゃそうだ。俺も混乱している。むしろ鏡の中の女より俺の方が混乱している。なのに、その顔がどこか見覚えのある表情をしていて、俺はそこでようやく、記憶という厄介なものが、もう一つ混ざっていることに気づいた。
頭の奥が、ずきりと痛む。
次の瞬間、流れ込んできたのは、見知らぬ部屋、見知らぬ男、見知らぬスマホ、見知らぬ通知、見知らぬ承認、見知らぬ「いいね」、見知らぬ「既読」、見知らぬ「また今度ね」である。しかも厄介なのは、それらが単なる情報として入ってくるのではなく、感情ごと入ってくることだった。会いたい。見てほしい。返信が欲しい。忘れられたくない。ひとりにしないでほしい。そういう、俺ならまず盤外へ放り投げる類の気持ちが、胸の内側で勝手にぴくぴくと動き始める。
「……やだ、なにこれ……」
また声が出る。しかも今度は、少し泣きそうな、少し甘えるような、少しだけ拗ねた調子である。ひどい。非常にひどい。俺はそんな声を出した覚えがないし、そもそもこういう喋り方をする人間ではなかったはずだ。だが、口が勝手に動く。身体が勝手に反応する。まるで、この女の癖が骨の髄にまで染みこんでいて、俺の理性がそれを上から押さえつけようとしている、そんな気配がある。
机の上で、黒い板が震えた。
スマホだ。たぶん。
手に取ると、指が妙に慣れている。こんな道具を俺は知らないはずなのに、なぜかロック解除の仕方が分かるし、アプリの位置も分かるし、メッセージ欄のどこを見れば一番心が乱れるかまで、身体が知っている気がするのが本当に気持ち悪い。画面の一番上には、見知らぬはずの男の名前が表示されていた。
『レオ』
その二文字を見た瞬間、胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
会いたい。返信が欲しい。既読がついてほしい。いや、まだ未読なのか。未読なら未読で不安だし、既読でも既読で不安なのだろう、きっと。何がどうなっているのかは分からぬが、この身体の中の何かは、もう完全にその名前に飼い慣らされている。しかも、俺の方まで少し反応してしまうのが腹立たしい。こんな男のことで心がざわつくなど、将棋指しとしては実に不本意だし、人としてもかなり不本意である。
だが、そこでさらに厄介な通知がひとつ増えた。
『いいねが増えました』
それだけで、今度は胸の奥が、ぽっと温かくなる。
「……は?」
思わず出た声は、もちろんみるくの声で、しかも少し間の抜けた、でもちょっと嬉しそうな声だった。
最悪だ。
俺は棋聖と言われた将棋指しだぞ。
勝負の世界を生きてきた人間だぞ。
なのに、たかが通知ひとつで気分が変わるなど、こんなものは将棋でいえば序盤の端歩一つで心を乱しているようなもので、俺なら普段なら「実に浅い」と切って捨てるところなのだが、今の俺はその「いいね」を見て、少しだけ口元が緩んでしまった。しまった、では済まない。なぜなら、その瞬間、鏡の中の女まで同じように少しだけ嬉しそうな顔をしていたからである。しかも、その顔が嫌に可愛い。ひどい。非常にひどい。自分で自分に負けている気分になる。
「……ちょっと、かわいいんだけど」
誰だ今の。
俺か。
この身体か。
いや、たぶん両方だ。
そう気づいた瞬間、ようやく俺は理解した。
この女の人生は、ただの記憶として残っているわけではない。癖も、感情も、欲望も、全部まとめて、俺の中に居座っている。しかも厄介なことに、宗歩としての俺はそれを冷静に観察できているつもりで、実際にはところどころ引っ張られている。承認を求める衝動。誰かに見られたい衝動。愛されたい衝動。ひとりにされたくない衝動。そういうものが、まるで盤外からじわじわと寄せてくる攻め筋のように、俺の判断を狂わせ始めているのだ。
そして何より、スマホの画面を見ているだけで少し楽しい、という事実が最悪である。
「……いや、ないだろ」
思わず独り言が漏れた。
だがその声は、この女-天野みるく-の声で、しかもほんの少し照れている。
つまり、俺は今、天野宗歩としての理性で地雷系女子の承認欲求を軽蔑しながら、その承認欲求の入口でちょっと足を止めてしまっている、という、実に救いのない状態にあるらしい。
最悪だ。俺と同じ苗字なのも最悪なのを際立たせる。
けれど、面白い。
そう思ってしまった時点で、もうだいぶ遅いのだろう。
俺はスマホを握りしめたまま、鏡の中の地雷系女子を見返し、そして、こんなふうに人生の盤面がひっくり返ることもあるのかと、少しだけ笑ってしまった。




