第五章 ミカ
電話は切れていた。
真田はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま立っていた。
今の声。
間違いない。
あの言葉だった。
五百円。
一回だけ。
真田はすぐにかけ直した。
だが、呼び出し音すら鳴らない。
番号はすでに使われていなかった。
「どうした」
横から杉本が聞いた。
真田は答えた。
「電話です」
「誰から」
真田はゆっくり言った。
「たぶん……例の女です」
杉本の表情が変わる。
「内容は」
真田は言った。
「五百円」
「一回だけ」
杉本は煙草を落としそうになった。
「どこだ」
「場所は言われてません」
「番号は?」
「もう繋がらない」
杉本は舌打ちした。
「ふざけてやがる」
そのときだった。
ホテルの自動ドアが開いた。
夜風がロビーに流れ込む。
そして。
一人の女が入ってきた。
ヒールの音。
カツ、カツ、と床を叩く。
真田は無意識に振り向いた。
女は二十代後半くらいに見えた。
長い黒髪。
白いシャツ。
黒いスカート。
派手さはない。
むしろ地味な印象だった。
だが。
なぜか目が離せない。
女はまっすぐフロントに向かう。
そして静かに言った。
「部屋、空いてます?」
フロントの男が答える。
「空いてますけど」
女は軽く頷いた。
「じゃあ一時間」
その声を聞いた瞬間。
真田の背中に寒気が走った。
同じ声だ。
電話の声。
間違いない。
杉本も気づいたらしい。
小さく言う。
「……あいつか」
女は財布を取り出した。
そして。
テーブルに置いた。
五百円玉。
真田は目を疑った。
フロントの男も驚いている。
「いや、部屋代は三千円ですけど」
女は首を傾げる。
「あ、そうでした」
少し笑う。
そして普通に三千円札を出した。
鍵を受け取る。
そのとき。
女は振り向いた。
真田と目が合う。
黒い瞳。
表情は穏やかだった。
だが。
その目は妙に静かだった。
まるで。
すべてを見ているような目。
女は少しだけ微笑んだ。
そして。
まっすぐ真田の前まで歩いてきた。
杉本が一歩前に出る。
「ちょっといいか」
刑事の声だった。
だが女は杉本を見ない。
視線は真田に向いたまま。
そして言った。
「五百円」
ロビーの空気が止まる。
真田の喉が乾く。
女は続けた。
「一回だけ」
杉本が言う。
「おい」
女はゆっくり首を傾げる。
「何ですか?」
杉本は警察手帳を見せた。
「少し話を――」
女は首を振った。
「あなたじゃない」
そして。
真田を見た。
「この人」
真田は何も言えなかった。
女はポケットから小さなコインを取り出す。
500円玉。
それを指で弾く。
コインは空中で回転する。
カラン、と音を立ててテーブルに落ちた。
女はコインを見た。
そして小さく頷いた。
「うん」
真田は思わず聞いた。
「何が?」
女は笑った。
本当に、ただ普通に笑った。
そして言った。
「あなたでいいみたい」
杉本が腕を掴もうとする。
だが女はすっと一歩下がった。
まるで避けることが分かっていたみたいに。
「逃げるな」
杉本が言う。
女は首を振った。
「逃げないよ」
そして。
静かに言った。
「だって一回だけだから」
真田は気づく。
この女。
噂の通りだ。
だが。
それ以上に。
何かがおかしい。
女は真田を見て言った。
「来る?」
「来ない?」
真田の心臓が強く打つ。
都市伝説。
失踪事件。
そして。
この女。
もし断れば。
真相はわからない。
だが。
行けば。
何かが起きるかもしれない。
真田はゆっくり言った。
「……行きます」
杉本が叫ぶ。
「真田!」
だが女は笑った。
そして言う。
「大丈夫」
少し間を置いて。
「後悔するか聞くだけだから」
真田はその言葉に引っかかった。
だが。
その意味を理解するのは。
まだ先のことだった。




