第一章 500円の噂
「五百円でやれる女がいる」
最初にその話を聞いたとき、真田直人は笑った。
地方紙の記者になって七年。
街の噂や都市伝説は嫌というほど聞いてきた。
幽霊の出るトンネル。
夜中に鳴る電話。
消えるタクシー。
だが、そのどれもが記事になったことはない。
今回の話も、どうせ同じだろうと思った。
「いや、マジなんだって」
居酒屋のカウンターで、酔った男が身を乗り出してくる。
「五百円だぞ? ワンコイン」
「安すぎるでしょ」
真田は笑いながらビールを口に運んだ。
男は首を振る。
「値段の話じゃない」
「じゃあ何です?」
男は一瞬、言葉を探すように黙った。
そして低い声で言った。
「人生が変わるんだよ」
真田は思わず笑った。
「五百円で?」
「そう」
「宝くじでも当たるんですか」
「違う」
男は真顔だった。
「本当に変わるんだ」
真田はグラスを置いた。
酔っぱらいの冗談にしては、妙に真剣だ。
「どう変わるんです?」
男は少し考えてから言った。
「人による」
「曖昧ですね」
「でも必ず変わる」
「何をする女なんです?」
「何って……」
男は声を落とす。
「寝るんだよ」
真田は黙った。
「五百円で?」
「そう」
「一回だけ」
男は続けた。
「中でも外でも五百円」
真田は苦笑した。
「ずいぶんサービスいいですね」
「だから怖いんだよ」
「何が?」
男はグラスの氷を指で転がしながら言った。
「その女と会った奴、みんな人生変わってる」
「例えば?」
「ギャンブル中毒だった奴が、次の日から一切やらなくなった」
「それはいい話ですね」
「結婚直前だった男が婚約破棄した」
「それは……微妙ですね」
男は続ける。
「売れない漫画家が、そのあと大ヒット出した」
真田は少しだけ興味を持った。
「成功率高いですね」
「でもな」
男はそこで言葉を止めた。
「何です?」
男はグラスを飲み干した。
そして静かに言った。
「消える奴もいる」
真田は眉をひそめた。
「消える?」
「行方不明」
「家出とか?」
「わからん」
男は肩をすくめる。
「でも、そいつら」
少し間を置いて言う。
「全員その女に会ってる」
真田は黙った。
記者としての感覚が、わずかに反応した。
都市伝説にしては、妙に具体的だ。
「その女、名前は?」
「知らん」
「どこにいる?」
「決まってない」
「じゃあどうやって会うんです」
男は笑った。
「向こうから来る」
「ナンパですか」
「違う」
男は首を振る。
「人生が詰んでる顔してる奴の前に現れる」
真田は思わず笑った。
「それはずいぶん便利な能力ですね」
「俺もそう思った」
男は頷く。
「でもな」
そして言う。
「俺の知り合いが会ったんだよ」
「人生変わりました?」
「変わった」
「どう変わったんです」
男は少し迷ってから言った。
「消えた」
真田は黙った。
店のテレビでは野球中継が流れている。
誰かの笑い声。
氷の音。
普通の夜だ。
だが、なぜかその話だけが妙に引っかかった。
「その女」
真田は言った。
「ルールあるんですか?」
男は頷いた。
「ある」
「何です」
男は指を一本立てる。
「一回だけ」
「二回目は?」
「絶対ない」
「値段は?」
「五百円」
真田はメモ帳を取り出した。
記者の癖だ。
思いついたことをすぐ書く。
ページの一番上にこう書いた。
ワンコインの女
都市伝説かもしれない。
くだらない噂かもしれない。
だが、もし。
もしこの話が本当なら。
それは記事になる。
いや。
もしかしたら。
事件かもしれない。
真田はビールを飲み干した。
「その女」
男に聞く。
「どうやって見分けるんです」
男は笑った。
「簡単だよ」
そして言った。
「必ず言うんだ」
真田はペンを止めた。
男の声は妙に静かだった。
「五百円」
「一回だけ」
「それで終わり」
真田はメモ帳を閉じた。




