第十二章 三年前
夕日はほとんど沈んでいた。
川の水が黒く光っている。
ベンチの上で。
500円玉が静かに転がっていた。
杉本はそれを見ている。
そして呟いた。
「決まったって言ったな」
ミカは頷いた。
「うん」
杉本は聞く。
「何が決まった」
ミカは答えない。
代わりに言った。
「三年前」
杉本の表情が少し動いた。
ミカは続ける。
「あなた、こう言った」
ミカは杉本の声を真似する。
低く、静かに。
『続ける』
杉本は目を閉じた。
覚えている。
忘れたことはない。
ミカは言う。
「でも」
少し間を置く。
「本当は違った」
杉本は何も言わない。
真田が横で息を呑む。
ミカは静かに続ける。
「三年前」
「あなたはもう」
「やめたかった」
杉本の拳が少し握られる。
ミカは言った。
「奥さんが死んだ年」
真田が杉本を見る。
杉本の顔が固まった。
「調べたのか」
ミカは首を振る。
「調べてない」
「わかるだけ」
杉本は笑った。
乾いた笑いだった。
「便利な能力だな」
ミカは答えない。
杉本は川を見る。
流れる水。
遠くの橋。
そして言った。
「事故だった」
声は低かった。
「飲酒運転」
「トラック」
「信号無視」
真田は何も言えない。
杉本は続ける。
「死んだ」
短い言葉。
だが重かった。
「そのあと」
煙草を取り出す。
火をつける。
深く吸う。
「仕事だけになった」
ミカは黙って聞いている。
杉本は言った。
「家も帰らない」
「寝るのは署」
「事件だけ」
煙を吐く。
「そうしてないと」
少し間を置く。
「考えるからな」
ミカは小さく頷いた。
「うん」
杉本は言う。
「だから三年前」
ミカを見る。
「お前に聞かれたとき」
続ける?
杉本は笑った。
「続けるって言った」
ミカは聞く。
「本当は?」
杉本は答える。
「やめたかった」
真田の胸が重くなる。
杉本は言った。
「全部」
「仕事」
「人生」
「この世界」
そして。
少し間を置く。
「でも怖かった」
ミカは静かに聞く。
「何が」
杉本は答えた。
「何もないこと」
風が吹く。
川の匂いが流れる。
杉本は言った。
「だから嘘をついた」
ミカは微笑んだ。
「知ってる」
杉本は苛立つ。
「なんでも知ってる顔するな」
ミカは首を振る。
「知らないよ」
そして言った。
「だからもう一回聞いてる」
杉本の目を見る。
真っ直ぐに。
逃げ道を与えない目。
そして。
同じ質問。
「今の人生」
少し間。
「続けたい?」
夕方の光がほとんど消える。
街灯が一つ点いた。
杉本はしばらく黙っていた。
長い沈黙。
そして。
ゆっくり言う。
「……わからない」
ミカは頷いた。
「それでもいい」
杉本は聞く。
「お前は何なんだ」
ミカは少し考える。
そして言った。
「最後の確認」
杉本は眉をひそめる。
「確認?」
ミカはベンチの500円玉を指で回す。
カラン。
小さな音。
そして言った。
「後悔するかどうか」
真田は思い出す。
久保田の部屋の紙。
後悔してない。
杉本は聞く。
「消えた三人」
ミカは言った。
「後悔してない」
その言葉。
静かな夜に落ちる。
杉本は言う。
「どこに行った」
ミカは空を見た。
暗くなり始めた空。
そして答える。
「自分の人生に」
杉本は笑った。
「意味がわからん」
ミカは言う。
「今の人生を捨てただけ」
「別の人生に行った」
真田が思わず言う。
「そんなことできるんですか」
ミカは肩をすくめる。
「できるよ」
少し間を置く。
「覚悟があれば」
そのとき。
ミカのスマートフォンが鳴った。
ミカは画面を見る。
そして小さく言った。
「来た」
杉本が聞く。
「誰だ」
ミカは答えた。
「五人目」
真田の背筋が凍る。
「杉本じゃないのか」
ミカは首を振った。
そして言った。
「本当の五人目」
遠くの橋の上。
一人の男が立っていた。
街灯に照らされた影。
その男は。
ゆっくりこちらへ歩いてくる。
真田は目を凝らす。
そして。
息を止めた。
その男は。
三年前に失踪したはずの男だった。




