1931年4月 ニュージャージー州ニューアーク AFF社・第2応接室。
窓の外には、世界恐慌の影を引きずりながらも活気を見せ始めているアメリカの工業地帯が広がっている。この東海岸の片隅で、日本の命運を決める密談が行われようとしていた。
陸軍駐在武官の永田少佐、三井物産のニューヨーク支店員、そして中島飛行機の技術者が、サトシ・アカギを囲んでいた。
「……なるほど。米陸軍は『重すぎて舞えない』と切り捨て、海軍は『重すぎて甲板が抜ける』と鼻で笑った。だが、その理由はすべてこの『重さ』に集約されているわけですな、アカギさん」
永田少佐は、卓上のタイプ30の模型を鋭い眼光で見つめた。隣に座る中島飛行機の技術者は、手元のメモに「全金属製・片持ち式単葉・手動引き込み脚」と、戦慄と共に書き込んでいる。パンフレット上のスペックは知っていたが、実物の設計思想を目の当たりにした衝撃は大きかった。
中島の技術者は、手元のパンフレットに記された「引き込み脚」という文字を二重線で囲み、震える手でその横に書き加えた。
(……雑誌の誤植ではなかった。本当に、主桁をここまでぶ厚く作っているのか!)
彼は、アカギが広げた主翼断面の青写真を食い入るように見つめた。
「アカギさん。……この翼、雑誌には『片持ち式』とだけありましたが、中身はこれ……まるで橋梁の鉄骨ではありませんか。これでは重すぎる。これほどの強度、今の7.7mm機銃を支えるだけなら半分で済むはずだ」
「さすがですね。いずれこの翼の中には、12.7mm、あるいは20mmの機関砲を詰め込むことになるでしょう。その時、翼を設計し直す時間は我々にはない。今、この『重さ』を受け入れておけば、5年後の日本は無改造で世界最強の火力を手にできる」
技術者は絶句した。単なる「新鋭機」の設計図だと思っていたものは、数年先の軍拡競争を見越した、おそろしく冷徹な「拡張計画」そのものだったのだ。5年後なんて先の未来は、新型戦闘機のテスト飛行が始まっている。
さらに、アカギはエンジンのカットモデルを指して付け加えた。
「それから……この強制空冷ファンのギア比だ。パンフレットには『冷却効率の向上』としか書いていないが、実はこのファン、エンジンの回転数が落ちても一定の冷却風を送れるように設計してある。つまり、上昇中の過熱を恐れず、未熟なパイロットがスロットルを滅茶苦茶に扱っても、このエンジンは焼き付かない」
技術者のペンが止まった。
雑誌で見たときは「無駄な重いギミック」だと思っていたものが、現場の整備兵の質の低さや、パイロットの焦りまでを計算に入れた「絶望的なまでに現実的なインフラ」としての設計であることに気づき、彼は戦慄したのである。
「……これは、飛行機を売っているんじゃない。『失敗する権利』を売っているのか」
その呟きに対し、アカギは否定も肯定もせず、ただ静かに次の図面を広げた。
「左様です。米海軍が納得したのは当然でしょう。空母という限られた揺れる床に、この2.3トンの怪鳥を降ろすのは、今の技術では曲芸に近い。私は最初から、海軍に媚びるつもりはありません」
サトシ・アカギは淡々と答えた。三井物産の店員が身を乗り出す。
「しかしアカギさん、日本陸軍もまた『軽快な格闘戦』を信奉しております。この重さ、そして『沈頭鋲を使わない無骨な表面』は、各務原の将校たちにも叩かれる要因になりかねませんが……」
沈頭鋲の技術も得られればという下心が透けて見える。アカギはさらりと流した。
「商社の方、ビジネスの話をしましょう。日本が今、最も恐れているのは何だ?」
アカギは立ち上がり、壁に貼られた防空マップを指差した。
「ウラジオストクから飛来するソ連の重爆撃機による、帝都・東京への焼夷弾攻撃だ。紙と木でできた東京を火の海から守るには、優雅に舞う燕はいらん。一秒でも早く高度5000メートルに駆け上がり、爆撃機の強固な防弾鋼板を粉砕する『6丁の牙』、そして敵の旋回機銃を浴びても止まらない『鉄の心臓』が必要だ」
中島の技術者が、エンジンの図面を見て唸る。
「この750馬力の星型エンジン……カウリングをここまで絞り込みながら、この『強制空冷ファン』で冷やすという発想。そして、あえて1000馬力級を750馬力に抑えるという『デチューン』……でしたか? これは、今の日本の未熟な鋳造技術でも、絶対に壊れないエンジンが作れるということですね?」
「その通り。君たちの工場の職人が少しばかりリベットを打ち損じても、ガソリンの質が悪くても、この機体は墜ちない。米軍が『過剰な重量』と笑ったマージンこそが、日本の工業力への『救済策』だ」
中島の技術者は、青写真の末尾にあるプロペラハブの構造図を見て、思わず身を乗り出しました。
「アカギさん。これは、油圧式2段可変ピッチプロペラですか? これを標準装備にするというのですか。日本にはまだ、この複雑な油圧機構を量産できる環境はありません」
アカギは、模型のプロペラを指先で弾きながら、静かに首を振りました。
「いいや。現時点では『固定ピッチ』でも運用できるよう、エンジンの減速比とトルクカーブを調整してあります。このハブの設計図を見てください。将来、可変ピッチを作れるようになったとき、このエンジンは『何ら改造することなく、そのままボルトオンで可変ピッチプロペラを装着できる』ように設計されています」
中島の技術者は、その息を呑みました。
「……つまり、今は固定ピッチで『並』の性能で飛ばし、数年後に技術が追いついた瞬間、この機体は魔法のように化けるというわけですか」
「その通りです。今の日本が60オクタン燃料と固定ピッチプロペラしか持たなくても、5,000mまで6分30秒で上がれるのは、この1,800rpmという低回転大トルクのおかげです。低回転だからこそ、固定ピッチでもプロペラの先が音速を超えず、効率が落ちにくい」
アカギは図面を指し示した。
「それに、この大直径プロペラを見てください。脚を引き込み式にして地面とのクリアランスを稼いだのは、この『巨大なプロペラ』を回すためです。低速上昇時、この巨大なプロペラが強制空冷ファンと連動して、低オクタン燃料で熱を帯びやすいエンジンに無理やり風を送り込む。この『脚・プロペラ・エンジン』の三位一体こそが、低質素材をカバーするんです」
「5000メートルまで6分半……。これなら、房総半島で敵爆撃機を捉えた瞬間、高度を稼いで上空から一撃を加えられる。格闘戦などいらん。敵が火を吹くまで撃ち込み、そのまま速度で離脱すればいい。……中島君、このエンジンはどうだ? 日本で作れるか」
「……作れます」
技術者は呻くように答えました。
「この『強制空冷ファン』があれば、我々の未熟な鋳造技術でシリンダーのフィンが多少太くなっても、冷却不足で焼き付くことはない。それに、この素材の指定……高級なクロム鋼ではなく、不純物が多い並の鋼材でも厚みで強度を持たせる設計になっている。これは……航空機を『精密機械』ではなく、『工業製品』として設計している……!」
三井の店員が、静かに契約書を差し出しました。
「米軍が『重すぎる』と笑ったこの2.3トンの重量こそが、日本のパイロットにとっては『鋼鉄の防壁』になるわけですな。アカギさん、この図面一式……三井が責任を持って、日本へ届けさせていただきます」
永田少佐は沈黙の後、小さく頷いた。
「米軍が『洗練されていない』と捨てたものを、我々が拾う……。皮肉な話だが、理にかなっている。これこそが、資源に乏しく、しかし切羽詰まった我が国が求める『防空』かもしれん。アカギさん。三井を通じて、この『帝都の盾』を日本へ持ち込む準備を始めよう。陸軍技術本部の頑固者たちには、私が直接この『鉄塊の合理性』を叩き込んでやることにしましょう。
【極秘資料】AFFタイプ30(帝都防衛迎撃機)性能諸元
全長 / 全幅8.5m / 11.5m. 単葉機として非常にコンパクトだが、翼厚が異様に厚い。
全備重量2,300 kg. 九一式(1.5トン)より800kgも重い。この重量が全て「盾」と「牙」に割かれている。
翼面荷重92 kg/m². 当時の日本の常識(50kg前後)の倍近い。「巴戦」を完全に捨てた数値。
エンジンAFF 1930 750HP. 星型複列14気筒。1000馬力級をあえて750馬力で運用する贅沢さ。
最高速度340 km/h. 300km/hの壁を軽く突破。丸頭リベットの抵抗を「力業」でねじ伏せている。
上昇力5,000mまで6分30秒重いにもかかわらず、低回転大トルクのプロペラ効率で垂直に近い上昇が可能。
武装7.7mm機銃 × 6丁. 日本の標準(2丁)の3倍。翼内にこれだけの重量物を積める剛性に戦慄。
燃料対応60オクタン(最低保証). 粗悪な「松根油混じり」でもノッキングせず全力運転が可能という異常な懐の広さ。




