1937年8月 中国大陸 上海上空・高度3,500メートル
とりあえず、一応は完結ということで。
また、時間と場所をランダムに、何か書くとは思います。
これをep.15話から、フォード・トライモーター誕生の衝撃から始まる時系列順に書いていたら、今でもep.7 の1931年12月にたどり着いていたのか怪しすぎる。
アカギとジムの出会いとか書いていたらそうなっていたかもしれない。
その代わりに、後書きでの設定の羅列は殆どなくなっていたでしょうから、それも良し悪しですね。
1937年8月18日午後1時30分。上海上空、高度3,500メートル。
中国空軍第四大隊、通称「志航大隊」の大隊長・高志航は、愛機カーチス・ホークⅢの風防越しに、白銀に灼ける空を睨み据えていた。
台風が去った後の上海は、皮肉なほど澄み渡った高気圧に覆われている。
高度3,500メートルの大気は峻烈に冷え、連戦の疲労で過熱した高志航の意識をかろうじてなだめていたが、天頂から突き抜ける直射日光と、鏡面と化した黄浦江の照り返しは、その冷気すら焼き尽くさんとする勢いだった。
酸素不足なのか疲れによる眠気なのか、高志航の瞼がわずかに痙攣する。
視界の端、内陸の地平には巨大な積乱雲が白亜の城壁のようにそそり立ち、どこまでも続く大陸を押し潰そうとしていた。
高志航は、そんな空で激しい乱気流に跳ね回る操縦桿を力任せに抑え込んでいた。
台風が去った後の上海上空は、湿った暴風がうねり、第四大隊の精鋭たちの編隊は、維持することさえ困難なほど無残に乱れている。
そんな風の中、ホークⅢの機体全体が、自機のエンジンとは異なる異質な「震え」を帯び始めた。操縦桿を握る手のひらに、腹の底に重低音の周期が伝わってくる。
「……また来たか。あれだけ落とされてもまだ飛ばせる機体があるとは羨ましい」
高志航は、ゴーグルの奥で鋭く目を細めた。視界の先、高度3,000メートル。北の空から近づく「異形」の群れを捉えた瞬間、異変はまず耳から訪れた。
自分の愛機が奏でるライト・サイクロンエンジンの「バリバリ」という軽快で高速なリズム。信頼すべきその旋律が、外側から迫りくる圧倒的な「音圧」によって無慈悲に塗りつぶされ始めた。
地鳴りのような重低音。それは排気量40リットルの「ハ号一型(ハ一)」が、わずか1800回転で大気を踏みつける、傲慢なまでの足音だった。
さらに、風切り音に混じって、強制空冷ファンが空気を切り裂く「ヒュンヒュン」という特有の高周波が四発分重なり、共鳴箱と化したホークⅢのコクピット内をガタガタと共振させ始めた。
「この音……ハ一か? それが、四つも載っているだと……! まさか、九六式重爆(撃機)!」
逆光の中に浮かび上がったのは、巨大な四発のシルエット。その厚い翼の上に、剥き出しの鉄塊のように鎮座するエンジンナセル。そして、空中に突き立てられた門のような武骨なH型双垂直尾翼は、関東軍の誇る新型爆撃機だった。
高度3,000m。V字型の小隊が3つ。階段状に高度差をつけている一個中隊。
高度2,800m。前の中隊の「影」に入るように、わずかに低く、かつ後方に同じようなV字型の小隊が3つ、階段状に高度差をつけて一個中隊。
荒れ狂う風の壁を切り裂いて現れた四発の重爆撃機18機の二個中隊は、まるでレールの上を走る巨大な機関車のように、水平を保ったまま悠然と進撃してくる。その巨体は大気の揺らぎを強引にねじ伏せていた。
日本海軍の「陸攻」のような優雅さなど微塵もない。そこにあるのは、九二式双発軽爆撃機や九三式偵察機で中国空軍を絶望させてきた、あの「日本陸軍」の翼上エンジンが悪夢の形で巨大化した姿だった。
「……(九六式重爆撃機は)奉天から日本に向けて飛んだとは聞いていたが、まさか海の上を飛んできたのか」
主翼に描かれた鮮血のような日の丸が、太陽の照り返しを受けてぎらりと光った。
眼下には、台風の最中も戦闘を続けていたのか、煙や土埃で覆われた上海の市街地と、眩い光を放つ川面が広がっている。だが、その上空を東から侵入してくる四発機の巨大な影は、大陸の運命を強引に書き換える鉄の定規のように見えた。
黄浦江が急角度で曲がる上海南西の龍華付近は、上空から見ると巨大な銀色の蛇のように輝いて、龍華塔が浮いているようだ。
高志航は、冷気で冷静さを取り戻した手で操縦桿を握り直し、九六式重爆撃機へと機首を向けた。かつてない「嫌な予感」が、冷たい汗となって彼の背中を伝った。
「全機、突撃! 敵の背後、尾翼の隙間を突け!」
高志航が喉頭マイクに叫んだ命令は、激しい電波ノイズを突き抜け、第四大隊の僚機たちのレシーバーに届いた。
同時に、高志航のホークⅢが鋭く翼を翻し、死神の鎌のような四発機の影へと急降下を開始する。
九六式陸攻なら、その単垂直尾翼が邪魔をして銃座の死角となるはずの場所。そこに、精鋭たちのホークIIIが吸い込まれていく——。
しかし、その瞬間、第四大隊のパイロットたちが目にしたのは、「死角そのものが存在しない」という絶望的な光景だった。
H型尾翼の広い隙間から、そして胴体各所に設けられた銃窓から、見たこともない数の機銃が一斉に火を吹いた。それは彼らが慣れ親しんだ7.62mmの淡い光ではない。
空を切り裂いて迫るのは、網膜を焼き潰さんばかりに輝く、白熱した12.7mm曳光弾の奔流だった。
「馬鹿な……あの距離から!?」
高志航の僚機が、800メートル以上離れた位置から放たれた火線の束に絡め取られる。
7.62mmなら小さな穴を開けるに留まる距離だが、重い12.7mm弾の運動エネルギーは別次元だった。一連なりの眩い光の尾が僚機のエンジンカウルを叩いた瞬間、鋼鉄の破片が飛び散り、一撃で主翼の支柱がへし折れた。
僚機は爆発する暇もなく、紙細工のように無残に空中分解し、曳光弾が残した光の残像の中に消えていった。
高志航自身も必死に肉薄し、7.62mm機銃を敵の主翼へ叩き込んでも、弾丸は跳ね返されるか、吸い込まれるだけで、黒煙すら上がらない。
「……墜ちない。空砲でも撃っているのか! この機銃は!」
高志航は、歯が砕けんばかりに奥歯を噛み締めた。
その時だった。
龍華付近に布陣する対空陣地が、ようやくその重い口を開いた。
「ボッ、ボボッ!」
澄み渡った青空に、墨をぶちまけたような不吉な黒煙が突如として咲く。ドイツのラインメタル社製「7.5 cm Flak L/59」の重い破裂音だ。だが、その弾幕はあまりにも疎らで、なによりも「低い」
時限信管が導き出した炸裂の半分以上は、階段状に組まれた編隊の、一番下の機体よりもさらに数百メートル下の空間を少し遅れて追いかけるように黒い花を散らしている。
時折、それに混じるような少し大きな黒煙は「8.8 cm Flak 18」だろう。南京や上海といった重要拠点に優先的に配備された「虎の子」のはずが、一緒になって明後日の方角で炸裂していた。
高志航は、激しい乱気流に揺られる愛機を抑え込みながら、苦々しく舌打ちした。
(馬鹿め! 見かけの大きさに騙されるな。あれは九二式双発軽爆撃機より二回りも上だぞ!)
地上の砲手たちは、その巨体に幻惑されていた。彼らはステレオ式測距儀のレンズの中に溢れんばかりの巨影を捉え、その巨大さゆえに、標的が実際よりもはるかに「遅く、低く、近く」にいると錯覚しているのだ。
網膜に映る虚像の大きさに、高射計算機のアナログな歯車が狂わされる。信管規正盤が導き出す秒数は、四発機の圧倒的な巡航高度に届く前に、空虚な空間を叩く命令を弾丸に与えていた。
だが、その焦燥をなじる心は、すぐに冷酷な自省へと変わった。
(……いや、笑えるのは私の方か)
高志航は、自分の指先に残る感触を思い出していた。
先ほど、自ら肉薄して放った七・六二ミリの連射。九六式陸上攻撃機なら火だるまにできたはずの距離で、確かに手応えはあった。だが、あの巨体は火を噴くどころか、一欠片の羽布すら撒き散らさなかった。
地上の高射砲兵が「高度」を読み違えているように、自分もまた、この「異形」の質量と防御力を読み違えていたのではないか。
黒煙の中を、四発の重爆撃機は何事もなかったかのように突き抜けてくる。
炸裂した弾片をその厚い防弾鋼板で弾き飛ばし、煤けた黒煙を強制冷却ファンの咆哮で切り裂きながら、死神の行進は続いた。
高志航の眼下では、九六式重爆撃機が爆弾倉を開いたのか、次々と巨大な爆弾を3発づつ投下していく。
それは、ゆっくりと周囲の低い民家や農地の中にポツンと浮かぶコンクリートの四角い塊に吸い込まれていくようだった。
20秒から30秒の間に。
龍華の上海警備司令部が巨大な火柱と共に消滅するのを背景に、四発重爆撃機の編隊は何事もなかったかのように悠然と北へ向かって去っていった。
広大な飛行場や訓練所が併設されていた司令部の土煙は、いつまでも冷めやらなかった。
司令部を呑み込んだ爆塵の柱は、夏の高気圧に押し潰されるように横へと広がり、その周辺には月の痘痕のようなクレーターが見え隠れしている。
高志航は、銃身が焼き付いたホークⅢの機上、震える手で操縦桿を握り直すしかなかった。一機も撃墜できず、逆に精鋭数機を失った屈辱。
「……集まれ。全機、編隊を組み直せ」
喉を焼くような虚脱感に抗いながら、襟元に固く締め付けられた喉頭マイクの圧迫感に伝えると、その応答は、往路の三分の二ほどしか返ってこない。
生き残った僚機が、翼を翻し、高志航の愛機の後ろに滑り込んでくる。だが、その動きには先ほどの精悍さはなく、傷ついた鳥のように痛々しく揺れていた。
高志航は、操縦桿を握る手の震えを抑えるために、指が白くなるほど力を込める。
茶色く濁った黄浦江を見下ろしながら、第四大隊は逃げるように杭州・筧橋飛行場のある南西の方角へ機首を向けた。
戦闘中に響き渡っていた「ハ一」の重低音は、今や高志航の耳の奥にこびりつく呪縛となり、強風に煽られるホークⅢの悲鳴をどこまでも嘲笑っているようだった。
そして、「日本海軍による世界初の九六式陸上攻撃機による渡洋爆撃の栄光」は、その日本海軍の大損害にも関わらず、「満州から来た日本陸軍の九六式重爆撃機への恐怖」に書き換えられ、上海の市民と世界中の記者たちの脳裏に刻み込まれた。
アメリカのメディアでは、速報のように『Ford-Douglas FD-42 "Sky-Master』の胴体を丸くしたような爆撃機というニュースが流れ始めていた。
上海停戦および中立監視に関する取極(1937年8月28日)
8月18日の「九六式重爆撃機」による龍華司令部への一撃は、上海に駐留する列強各国に「既存の防空概念の崩壊」を突きつけました。英米仏の各国領事は、日本軍の5個師団が上陸して上海が焦土と化す前に、蒋介石に対し「妥協」を、日本側には「自制」を強く迫り、この奇跡的な即時停戦が成立しました。
1. 上海大中立地帯(Greater Shanghai Neutral Zone)の設置
軍事空白域: 上海共同租界およびフランス租界を起点とし、半径30km圏内を完全な「軍事活動禁止区域」とする。中国中央軍は即刻、同区域外(蘇州・南京方面)へ撤退する。
駐留の凍結: 日本側は、海上待機中の3個師団の上陸を中止し、内地へ帰還させる。海軍陸戦隊は現状の駐留区(北四川路付近)の維持に留める。
2. 中支那共同航空監視委員会(S.A.S.C.)の創設
上海における不測の衝突を回避するため、多国間による監視組織を設置する。
哨戒実施機(九三式偵察機の指定):
哨戒活動には、日本側が供出する「九三式偵察機」のみを使用する。
理由: 九二式司令部偵察機のような「南京まで数十分で到達する戦略的脅威」を排除しつつ、複座で後部銃座(防御用)を持つ九三式の「堅実な低空視察能力」を、各国が「治安維持に適した機体」として公認したため。
共同管理と識別標識:
機体には日本軍の日の丸に加え、委員会の紋章(中立監視を示す白帯)を付与する。運用の決定権は日中両軍が等分に持ち、飛行計画は事前に委員会へ提出される。
3. 各国武官による「オブザーバー」派遣
合同査察団: 哨戒機の後部座席、あるいは地上監視所に、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの駐在武官が「オブザーバー」として交代で同行・駐在する。
情報の共有: 九三式偵察機が撮影した航空写真は、委員会を通じて各国に共有される。これにより、日本軍の独走を防ぐと同時に、中国軍の再集結を国際社会が監視する。
参謀本部(下村定作戦部長・武藤章作戦課長コンビ)が、九六式重爆撃機による「対中一撃」を決行した理由は、単なる軍事行動ではなく、「国家破綻を回避するための残酷な算盤」に基づいたものでした。
その理由は、以下の4つの戦略的合理性に集約されます。
1. 「5個師団投入」という財政破綻の回避
すでに朝鮮軍・関東軍・支那派遣軍を合わせても、極東ソ連軍相手に兵力数は3対1の劣勢で、焼玉車両軍による『軽便鉄道』とAfFライセンス機による内線作戦での対応で手一杯であることと、北支が安定していて、史実の『対中一撃論』は論外であること。
参謀本部の計算: 1933年石原莞爾の「稼働率」と1934年の永田鉄山以来の教えである「コストパフォーマンス」に基づき、数万人の兵士を海に送り、数億円の弾薬を消費する前に、「数万円のガソリンと爆弾」だけで敵の司令部を消滅させれば、経済的に「黒字」で事変を終わらせられると判断しました。
大蔵省への回答: 陸軍大臣や大蔵大臣が「戦線拡大」を恐れて反対する中、下村・武藤コンビは「これは拡大ではない、終わらせるための最小コストの投資である」という論理で海軍と総理を抱き込みました。
2. 「九六式重爆撃機」による戦術的パラダイムシフト
海軍の九六式陸攻が甚大な被害を出していたことで、蔣介石は「日本の航空機は墜ちる」と確信していました。
衝撃の付与: そこで、7.7mm機銃ではびくともせず、12.7mmの火網で敵空軍をアウトレンジから粉砕する「九六式重爆撃後」を突如出現させることで、中国軍の軍事常識を根底から破壊しました。
「南京の無防備」を突きつける: 上海の司令部を一撃で消し去ることで、「次は南京だ。お前の持っている欧米製の戦闘機では、この九六式重爆撃機を止められない」というメッセージを、蔣介石の喉元に突きつけたのです。
3. 「引くに引けない状況」が生まれる前の幕引き
日本陸軍の主力(3個師団)が上陸して市街戦が始まれば、兵士の血が流れるほど世論は激昂し、政治的な停戦(妥協)は不可能になります。
タイムリミット: 輸送船団が海の上にいる「8月18日」が最後のチャンスでした。まだ日本軍が本格的な出血を強いられる前に、圧倒的な力を見せつけて停戦合意に持ち込むことで、日本側にも「勝利の体面」を保たせたまま兵を引き揚げる口実を作りました。
4. 海軍の「失態」を利用した主導権争い
海軍が渡洋爆撃で大損害を出し、陸戦隊が全滅の危機に瀕している状況は、陸軍参謀本部にとって絶好の機会でした。
「陸軍の翼」の誇示: 海軍が救えなかった上海を、陸軍の九六式重爆撃機が救うという構図を作ることで、その後の国家戦略における主導権を陸軍が完全に握ることを狙いました。
参謀本部にとって、九六式重爆機による「対中一撃」は、「戦争を始めるための爆撃」ではなく、「全面戦争という巨大な赤字事業を未然に防ぎ、黒字のまま外交交渉に切り替えるための、冷徹な経営判断」だったのです。




