1938年初頭 満洲国 新京・関東軍司令部
1933年2月熱河作戦以後の日ソの紛争は、偵察員の潜入、住民の拉致、航空機による偵察目的での領空侵犯といった小規模なものだったが、1935年に入るとその規模が拡大していた。
これは、北満州鉄路売却問題を優先して、不可侵条約提案を拒絶していた日本に対するソ連側の外交姿勢の変化にあった。ソ連軍の極東兵力増加が進むと、陸軍参謀本部と関東軍司令部のいずれも国境紛争の不拡大方針で意見が一致していた。
この時期の関東軍は、支那派遣軍に戦力を引き抜かれ、九二式双発機シリーズや焼玉軍用車両の拡充に血道を上げていた。
1937年末になると、満洲方面における日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連側が優っていた。
朝鮮軍・関東軍・支那派遣軍を合わせての11個歩兵師団に対して、ソ連は30個歩兵師団。なお、満蒙国境地帯では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満洲国軍とモンゴル軍に警備を委ねている。
それに応じて関東軍は、モンゴル方面からシベリア鉄道奥深くを目指す体制を取っていた、西部戦線担当のハイラルの第23師団から、九四式六輪乙の約4割、八輪の約6割を東・北へ抽出した「戦力集中型」へと切り替えようとしていた。
石原は「西を空けるのは危険だ」と警告したが、関東軍は「東部・北部集中」に軍事的・経済的合理性を見出していた。
絶対防衛線でもある東部(ウラジオストク方面)は、ソ連極東の心臓であり、「空襲の拠点」でもある。
焼玉車両群は、東部の険しい山岳・湿地帯で、重砲弾薬を24時間「絶え間なく」供給し、ソ連軍の物量を上回る火力を維持するには、ガソリン車ではなく焼玉車両群による「定時輸送」が不可欠と判断。
攻勢の槍になる北部(アムール川方面)では、シベリア鉄道が最も国境に接近しており、ここを遮断すればソ連極東軍を窒息させることができる。
焼玉車両群は、アムール川の氾濫による泥濘地を突破し、重火器を運びこみ「一撃でソ連を止めるための戦略的集中」として、最良の機材をここに集めた。
「第二戦線」とした西部では、関東軍は西部の「平原」という地形をこう評価した。
「西部は障害物のない草原だ。ここなら、焼玉車両のような特殊な鈍重車両を張り付かせるのは宝の持ち腐れである。フォードやGMの高速トラックを配備し、足りない分は中央(新京)から『機動援護』させれば、焼玉車両の1/2〜1/3のコストで同等の防衛線が引ける」
新京の関東軍司令部。ストーブが赤々と燃える作戦室で、参謀たちが広大な満州の地図を囲んでいた。かつて石原莞爾の置き土産となった兵站網の青写真は、今や現場の慢心によって塗り替えられようとしていた。
「満洲国の東部・北部・西部国境地帯への焼玉車両群による補給もある程度目処はついた」
一人の参謀が、地図上のハイラルから東部・北部へと伸びる「焼玉車両群」の駒を、無慈悲に中央へ引き寄せた。
「だが、これを見ろ、ソ連軍の動向を。彼らはシベリア鉄道の支線から、最新鋭のZIS-5トラックとSTZ-5高速トラクターを大量に投入し始めている。彼らの機動力は、我々の『焼玉車両』の3倍――時速40キロを超えているのだ。
それに対して、我々の九四式八輪が時速12キロで『ガチャコン』と這っている。これでは戦術機動において一方的に包囲されるのは明白だ」
参謀たちの背後には、アカギと石原が提示した「コストパフォーマンス」の数字が躍っていた。だが、その解釈は歪んでいた。
「東部(牡丹江)と北部(アムール川)は、焼玉車両という『太い動脈』が既に完成している。ならば、その終末点からは、焼玉車両の半分以下のコストで量産できる高速トラックに積み替え、一気に敵陣に突き刺さるべきだ。焼玉はあくまで『動く倉庫』に過ぎん」
彼らが「高速機動」の根拠としたのは、ソ連軍のSTZ-5だった。履帯を持ちながら時速20キロ以上で疾走し、重砲を牽引するその姿に、関東軍は焦燥を感じていた。
「フォードやGMなら同じ予算で2.5倍の台数が買える。その数があれば、多少の故障は数でカバーできる(機動援護できる)」
日本法人のフォード・GMは、横浜や大阪の工場で、米国から持ち込まれた最新のベルトコンベア方式により、流れ作業で組み立てられていた。1934年時点で、日本フォードは年産1万台を超えており、1台あたりの固定費が極めて低かった。
ガソリン車の部品は小さく、規格化されていて、大量のネジやピストンが安価に供給されている。
一方の焼玉車両は、町工場のネットワークによる「バイパス生産」で、頑丈な「バナジウム鋼フレーム」や、巨大な鋳鉄製の「焼玉エンジン」は、一つ一つ熟練工の手作業に近い形で組まれている「オーダーメイドの特注車」だ。
焼玉車両の部品は、9,000ccもの巨大なシリンダーや、鉄道技術を転用した「サイドロッド」など、一つ一つの部品が巨大で重く、材料費だけでもガソリン車の数倍かかっている。これでは勝負にならない。
焼玉車両は、今関東軍で、日本製米国トラックに主役の座を奪われようとしていた。
「問題は西部、ハイラルだ。あそこは平原だ。泥濘さえなければ、焼玉などという特殊な車両を張り付かせる必要はない。西部からは焼玉の6割を抽出して東部へ回し、西部は『いざとなればトラック部隊が中央から駆けつける』第二戦線として定義する」
参謀の一人が、石原が残した「レールのない軽便鉄道」を冷笑した。
「石原少将は『面で支配せよ』と言ったが、広大な不毛の地を時速12キロで這い続けるコストは、もはや帝国の赤字だ。ソ連の高速トラクターが草原を駆けるなら、我々はそれ以上の速度で応戦せねばならん。焼玉の煙突は、もう時代遅れなのだよ」
支那派遣軍・仙台・陸軍省に行ってからも、関東軍に口出ししてくる石原莞爾の満州事変で得た「作戦の神様」という威光は、熱河作戦から僅か数年で消え失せようとしていた。
1935年以降、ソ連軍はBT-7快速戦車やSTZ-5高速トラクターを大量配備。時速20km〜50kmで動く彼らの「機械化の足」に対し、時速12kmの焼玉車両は、関東軍参謀の目には「静止している標的」でしかなかった。
1937年末の関東軍参謀たちが陥った「コストの罠」と「稼働率の無視」は、組織が陥る典型的な合理的失敗と言えます。
車種. 初期取得価格(1台). 参謀たちの評価
日本フォード・1.5tトラック. 約 2,500円. 安くて速い「1万台規模で即納可能」
九四式六輪自動貨車(乙:焼玉). 約 5,500円 ~ 6,000円. 「高価で鈍重。町工場の限界で増産
1. ガソリン車の方が「カタログ価格」は安い
当時の工業統計に基づくと、参謀たちの「半分以下のコスト」という主張には、数字上のトリックがあります。
焼玉車両: 巨大な鋳鉄製シリンダー、複雑なサイドロッド、耐寒・渡河用の特殊装備(シュノーケル等)。これらはアカギの町工場ネットワークでも、材料費と工数がかさみます。
ガソリン車(日本フォード・日本GM等の民生ベース): すでにデトロイト式の大量生産ラインが確立されており、「1台あたりの部品単価」だけを見れば、焼玉車両の40〜50%程度で製造可能です。
燃料代: ガソリンは輸入に頼る高価な戦略物資ですが、焼玉が使う重油や大豆油はガソリンの数分の1の価格です。
稼働率: 冬のマイナス40度で「始動しないガソリン車」は、軍事的には「価格は安くても、価値はゼロ」です。
参謀たちは、石原やアカギが提示した「維持費(燃料・故障)」や「稼働率」といった「運用コスト(ライフサイクルコスト)」をあえて無視し、「初期取得コスト(イニシャルコスト)」のみを算盤に弾いたのです。
2. 「量産可能性」の幻想
1937年当時、支那派遣軍向けにトヨタや日産(当時の戸畑鋳物系)の生産ラインが急速に拡充されていました。
参謀たちは、「満州の特殊な焼玉車を作るラインを、標準的なトラック生産に振り向ければ、倍の数の車両が手に入る」と計算しました。
「数こそが力(戦術機動)」と信じる彼らにとって、「動かない100台の焼玉より、動く(はずの)200台のトラック」という選択肢は、極めて魅力的な「数字の魔術」として映ったのです。
3. 関東軍参謀たちの「致命的な計算」
彼らの論理構造は、以下の3つの「楽観的予断」で構成されていました。
参謀たちの主張. 隠されたリスク(現実). 整合性チェック
「トラックは安くて数が多い」. 維持費(高価なガソリン)と、専用部品の供給難を無視。 運用コストで逆転する。
「冬季は道路を整備すれば動く」. マイナス40度ではオイルが凝固し、整備以前に「始動」すら不能。 焼玉のトーチ加熱の優位性を「野蛮」と切り捨て。
「西部は平坦だからトラックで十分」. 豪雨が降れば、平坦な草原こそが「底なしの泥の海」と化す。 環西部の泥濘を甘く見た。
4. 結論:彼らはなぜ「焼玉」を捨てたのか
彼らにとって、焼玉車両は「石原莞爾という煙たい上司の遺物」でした。
「アカギのコストパフォーマンスは、あくまで貧乏な時代の苦肉の策だ。これからの帝国は、アメリカに倣った高速トラックと戦車でソ連を圧倒すべきだ」という、根拠なき「近代的虚栄心」が、経済合理性という言葉を借りて暴走しました。
「動かないガソリン車を、書類上は『機動力』としてカウントする」
この1937年末の机上の計算が、1939年の豪雨で草原が泥沼化した際、タイヤ式のフォードが全滅し、ソ連の「STZ-5(履帯式)」だけが動ける状況になります。
1938年初頭:関東軍 補給ドクトリン「高速化」
戦線・拠点 新運用ドクトリン. 焼玉車両の扱い. 隠れたリスク
東部・北部. 焼玉トラック(低速) + 高速トラック (高速). 終末点までの「動く倉庫」として固定。 【積み替えのボトルネック】物流の「流れ」が寸断され、ターミナルでの混雑と混乱が発生。
西部. 第二戦線(予備). 最低限の維持(100台程度)に削減・実質撤廃。 【冬季の稼働率ゼロ】配備されたガソリン車は冬に完全に停止。戦力が消滅する。
中央予備. 機動援護軍. 抽出した焼玉・ガソリン車を大量集積。 【泥濘地の無力化】1939年夏、豪雨で中央からの援護部隊(ガソリン車)は泥に埋もれて動けなくなる。
この戦略転換により、「補給の神様」石原莞爾が築いたシステムは、以下の致命的な矛盾を抱え込みます。
「乗り換え」という自己破壊:
焼玉車から高速トラックへの積み替えは、石原が追求した「途切れない流れ(フロー)」を止める行為です。これは、戦場で最も恐ろしい「補給の停滞」を自ら作り出すことになります。
「西部への過信」が招く空白地帯:
参謀たちは「いざとなればトラックが来る」と考えましたが、彼らは1939年の夏、ハルハ河を「底なしの泥の海」に変える豪雨と、ソ連軍が秘密裏に開発したTN-36(土コンコン)の存在を計算に入れていませんでした。
音のない国境線の恐怖:
ハイラルの草原から、兵士たちに安心感を与えていた「ガチャコン、ガチャコン」という焼玉の音が消えていきます。
代わりに聞こえるのは、冷たい冬の風に混じる、始動しないガソリンエンジンの虚しいセルモーターの音だけです。




