1938年9月 ソビエト ハバロフスク第17秘密設計局
ep.30への誤字報告ありがとうございます。(1月13日)
1938年9月 ソビエト ハバロフスク第17秘密設計局
凍てつく秋の朝、霧に包まれた秘密設計局の演習場に、その異形がようやく姿を現した。
『TN-36(1936年型石油発動機式トラクター)』
それは天津の町工場が設計した「土ポンポン」を、ソ連の過酷な大地に合わせて再定義したものだった。
満州の平原を「軽便鉄道」として直走る日本軍の焼玉エンジンの軍用車両の思想に対し、ソ連軍はあまり関心をを示さなかった。
だが、中国の農村地帯の土ボンボンに対し、共産党から「曲がりくねったタイガの小道」を通るために小回りを最優先して開発せよとの命令が下った。
その最大の特徴は、車体が二つのユニットに完全に分割されていることだ。運転席がある前部ユニットと、巨大な焼玉エンジンを積んだ後部動力ユニット。この二つが、大腿骨のような分厚い鉄製のピボット(旋回軸)で繋がっている。
その最小回転半径は、天津の町工場で産まれた「土ポンポン」の半分以下にまで縮められていた。
シリンダーが空気を叩くたびに、白樺のロッドが「ガチッ、ガチッ」と小気味よい音を立てて車輪を回す。
幾層にも重ねられ、特殊な樹脂で硬化された白樺の集成材。その強靭な木製ロッドが、後部ユニットの二軸を連結し、焼玉エンジンの巨大なトルクを受け止める。
極寒で破断しやすい鋼鉄ではなく、あえて「柔軟性のある特製合成ゴム(ソビエト・ネオプレン)を積層したベルト」と「遊星歯車」の組み合わせに変更しようと試みたが、結局、最も信頼できる「ボルト締め強化木製ロッド」という、航空機のプロペラ技術を応用した奇策に辿り着いた。
この「木製サイドロッド」は、鋼鉄のように凍てついて割れることがなく、エンジンの激しい振動を自らしなることで吸収する、ソ連の知恵の結晶だった。
後部ユニットの最後尾には、農機の連結器を極限まで強化した巨大なフックが突き出している。そこに木製フレームを金属で補強した「多目的ソリ」や、泥濘専用のトレーラーを数珠つなぎに連結するのだ。
荷物が重ければ切り離し、トラクター単体で泥沼を脱出してから、ワイヤーで再び手繰り寄せることもできた。
「コン、コン、コン……」
木製サイドロッドによるTN-36の鼓動が、ハバロフスクの空に響く。
「第3次5カ年計画」の下、鋼材の大部分をBT-7やT-34(開発中)といった戦車、およびシベリア鉄道の拡充に振り向けてられ、民間用や後方支援用のトラクターに、戦車1両分の鋼材を消費することは許されなかった。
マイナス40度以下の酷寒地では、鋼鉄は「低温脆性」によりガラスのように砕けやすくなる。一方、シベリア産の良質な針葉樹(パラミツや白樺の集成材)は、極寒下でも柔軟性を保ち、焼玉エンジンの激しい振動を「いなす」減衰材として機能する。
そこでの「代用材としての木材」であるTN-36のフレームに、重要な接合部やピボット周辺、そしてエンジンマウント部には、旧式戦車の残骸から回収された「バナジウム鋼」のプレートが、ボルトで執拗に補強されている。
木材が焼玉エンジンの破壊的な振動を「しなり」で吸収し、その結合を金属プレートが担保する。この「木鋼混合」構造により、TN-36は「重い鉄骨」を使わずとも、同等の剛性を手に入れていた。
この「木製であることの必然性」が、TN-36の外見を特異なものにしていた。
車体全体は、腐食防止のタールで黒々と塗られ、金属補強のリベットが不気味に並ぶ。それは、まるで中世の攻城兵器を機械化したかのような、ソ連独自の「生存のための工学」の結実であった。
「……遅すぎたのではないか、同志コトフ? これは『党』のプロジェクトだ」
革コートを着たNKVDの全権委員が、白い息を吐きながら冷ややかに問いかけた。その胸元には、内務人民委員部の冷徹な紋章が刻まれた銀のバッジが光っている。
「民生品の開発」と「軍事転用」の区別はなく、全ての技術開発にはNKVDの管理下にあり、共産党が直接主導する「TN-36」のような重要プロジェクトには、失敗=反革命行為とみなされていた。
やつれた顔の主任設計者コトフは、震える手でTN-36を指した。
「1936年の初期設計図は……前任者が例の件(大粛清)で拘束された際、反革命的な欠陥と共に散逸しておりました。我々に残されたのは、天津の町工場レベルの稚拙な模倣案だけだったのです」
コトフは一息つき、言葉を絞り出した。
「これを単なるコピーで終わらせれば、こいつはどこにも行けず、ただシベリアで立ち尽くしていただけでしょう。我々はこの二年間、死んだ前任者の過ちを拭い去り、『連結牽引式』として心臓部以外をゼロから作り直したのです。
タイガの森を蛇のように通り抜け、どんな泥濘からも自力で這い上がる――この『柔軟性』を手に入れるためには、二年の歳月という代償が必要だったのです」
将校の視線が、TN-36の「連結ピボット」に注がれる。日本軍の車両とは対極にある、白樺の集成材と廃材のバナジウム鋼が歪に組み合わされた、野蛮なまでの機能美。
「日本軍は、満州に『動く線路』を敷いたと聞きました」
コトフは、タールを塗りたくられたTN-36を愛おしげに見つめる。
「ですが、我々が作ったのは『動く森の獣』です。道など必要ありません。このTN-36は、日本人や中国人が『通行不能』と記した地図の上を、蛇のように這いずっていくでしょう」
その瞬間、TN-36が「くの字」に身をくねらせ、泥濘を蹴り上げた。
航空機のプロペラ技術を転用した「白樺のサイドロッド」が、爆発的なトルクをしなりで受け止め、三両の重たい補給ソリを力任せに引きずり出す。
2年前の「古い思想」を、2年間の「血と泥の試行錯誤」で塗り替えたこの異形は、もはや日本や中国の「焼玉車両」とは違う進化をしていた。
それは、ソ連独自の「生存のための工学」の進化であった。
ソ連軍が「列車的運用」を拒絶した理由
ドクトリンの相違
日本軍(石原莞爾)の「仮想ナローゲージ(列車的運用)」は、「決まったルートを確実に維持する」兵站維持の思想です。一方、史実のソ連軍(トハチェフスキーらの「縦深攻撃理論」)は、広大な戦線を突破するために「道なき場所を四方八方に機動する」ことを重視しました。固定ルートに縛られる「列車的運用」は、ソ連軍にとっては「敵に標的を与えるだけの鈍重な標的」に映りました。
ソ連軍の反応
史実のソ連は、1930年代に「コムソモーレツ」や「STZ-5」といった、戦車部品を流用した「高速・履帯式トラクター」を大量生産していました。彼らにとって、時速12kmで固定ルートを走る「焼玉車列」は、「南北戦争時代の遺物」に見えたはずです。
TN-36(Neftyanoy-36)性能諸元表
項目. 性能・仕様. 備考
形式. 連節牽引式トラクター. 前部操縦席と後部動力部がピボットで連結
エンジン. 単気筒 横置焼玉エンジン (約 6L). 土ポンポンより大型化。低速・強トルク重視
最大出力. 約 30 hp / 500 rpm. 数値は低いが、泥濘から這い出す粘り強いトルク
フレーム. 木鋼混合構造. 白樺集成材をタールで塗り、廃材のバナジウム鋼で補強
駆動方式. 後部ユニット二軸・木製サイドロッド駆動. 航空機技術を転用したボルト締め強化木製ロッド
旋回機構. 中央ピボット旋回(油圧または人力アシスト). 車体を「くの字」に曲げて旋回。小回りに特化
最小回転半径. 約 3.5 m. 九四式八輪車(約 8.5m)の半分以下。狭い林道に対応
巡航速度. 10 ~ 12 km/h. 荷物を牽引した状態での「確実な進軍速度」
最大牽引力. 約 5,000 kg (5トン). 自重より重い荷物ソリを数珠つなぎで牽引可能
車両重量. 約 2,800 kg. 鉄骨を廃したため、サイズの割に軽量で接地圧が低い
特筆装備. 後部大型牽引フック & 回収用ウィンチ. 荷物を切り離し、トラクター単体で脱出後に引き上げる
耐寒性能. マイナス 50 度対応. 木製フレームによる低温脆性回避 & トーチ予熱始動
「木製サイドロッド」の合理性:
極寒のシベリアでは、鉄の棒は振動と寒さで結晶構造が変化し、ある日突然「パリン」と割れます。しかし、樹脂を浸透させた白樺の集成材は、適度なしなり(減衰性)を持ち、焼玉エンジンの強烈な打撃音のようなトルクを柔軟に受け止めます。これは当時のソ連の木製航空機技術(LaGG-3等)の先駆けとも言える設定です。
アーティキュレート(連節)構造の利点:
タイガ(針葉樹林)の小道は、日本軍が想定する満州の平原ほど広くありません。TN-36が「くの字」に曲がることで、前輪の通った跡を後輪が正確にトレースし、倒木や岩を避けることができます。
「荷台を持たない」というドクトリン:
ソ連では「車両が泥に埋まること」を前提としています。荷台一体型だと全重量が泥に沈みますが、牽引式なら「まず動力部だけ脱出させる」という戦術が取れます。これは「規格」で押し通すアカギに対し、「泥との共存」を選んだソ連流の回答です。
1. 「白樺サイドロッド」が破砕しない理由:デルタ木材の魔法
1930年代、ソ連はフェノール樹脂を浸透させて熱圧成形した強化木製材料(デルタ木材)の先進国でした。
衝撃吸収性: 鋼鉄の弾性係数に対し、強化木材は非常に低い(しなりやすい)ため、焼玉エンジンの「ガツン!」という一撃の衝撃圧を、ロッド全体が弓のようにしなって分散します。鉄ならクランクシャフトを折ってしまうような異常燃焼でも、木製ロッドが「ダンパー」として機能し、エンジンを守ります。
比強度: 重さあたりの強度は、当時の安価な鋳鉄よりも優れており、航空機(LaGG-3)の主翼桁に使われるほどでした。
2. 耐久性(寿命)の比較
項目. 土ポンポンの鉄製ロッド. TN-36の白樺製ロッド
寿命(稼働時間). 約2,000〜3,000時間. 約500〜800時間
破損の予兆. ボルトの緩み、金属疲労のひび割れ. 表面のささくれ、積層の剥離
環境耐性. サビに弱いが、乾燥に強い. 腐朽に強いが、乾燥による「割れ」に弱い
致命的な故障. 結晶脆化による「突然の破断」. 繊維のへたりによる「折れ・曲がり」
現場修理. 溶接または丸ごと交換が必要. ナタとボルトがあれば自作・補修可能
3. なぜ「最強」と言えるのか
「折れること」を前提とした運用:
ソ連のTN-36は、サイドロッドを「消耗品」と割り切っています。車体側面に予備のロッドを1対縛り付けておくのが標準装備です。鉄のロッドが極寒で折れたら戦場では修理不能ですが、白樺ロッドなら「村の大工」が予備を削り出せます。
摩擦部分の工夫:
木材そのものを軸受けにすると摩擦熱で燃えるため、クランクとの接合部には、廃材の真鍮や砲金、あるいは「含油木材(リグナムバイタ等)」のブッシュが噛ませてあります。
4. 政治的な要求
1939年当時のソ連において、バナジウム鋼などの特殊鋼はT-34戦車の開発や航空機エンジンに優先配分されており、トラクターごときに回す余裕はありませんでした。
したがって、「軍需物資を食いつぶさない木製ロッド」を採用したTN-36は、スターリンにとっても「国家資源を浪費せずにシベリアを近代化する画期的な解決策」として映りました。
1937年から1938年にかけての、北支平原(天津系)とシベリア・ソ連国境付近(ソ連系)における「村の動力源」としての比較です。
ソ連のTN-36は「極限環境での生存」に特化した進化を遂げています。
万能焼玉エンジン:民生運用比較諸元(1938年時点)
項目. 土ポンポン(天津系). TN-36:民生用(ソ連系)
設計思想. 農村の発電所. 「泥の海の船」・極北の牽引車
フレーム. L字鋼(アングル材)ボルト留め. 白樺集成材+バナジウム鋼補強
小回り性能. 最小回転半径:約 7.5m(長い). 最小回転半径:約 3.5m(半分以下)
駆動伝達. 鋼鉄製サイドロッド(露出型). 強化木製ロッド(ボルト締め)
動力取出し. 側面のフライホイール(ベルト掛). 後部PTO軸
泥濘期運用. 車体ごと泥を押し切る. 荷物を切り離し、ウィンチで手繰り寄せる
村での副産物. ホッパーの熱湯(炊事・洗面). 排気熱による集団暖房(ダクト接続)
修理難易度. 鍛冶屋レベル(鉄を叩けば直る). 大工レベル(木を削れば直る)
騒音. 100〜105 dB(ポンポン音). 105〜110 dB(木製ロッドの打撃音混じり)
TN-36走行騒音推定値(単位:dB)
木製ロッドによる「吸音」と「打撃」が混ざるため、数値以上の「異質さ」が際立ちます。
速度 (km/h). 騒音レベル (dB). 音の特徴と周囲への影響
3~5 km/h. 約 92 dB. 【深泥地・登坂】 低速ギヤで白樺ロッドが「ミシミシ」と鳴り、排気音は「ドッ、ドッ」と重い。数キロ先の狼が警戒するレベル。
10 km/h約 105 dB. 【標準巡航速度】. 「コン、コン」という乾いた音が支配的。天津製の土ポンポン(108dB)よりわずかに静かだが、音の通りが良い。
12 km/h約 112 dB. 【限界巡航速度】. 木製ロッドの振動が最大化。車体フレームの白樺材が共鳴し、巨大な木琴を叩いているような不気味な音がタイガに響く。
【村での運用実態】
1. 「鉄の土ポンポン」 vs 「木のTN-36」
北支の村(土ポンポン): 鋼鉄フレームは直射日光や湿気に強く、北支の乾燥した大地に適しています。村では「鉄の馬」として親しまれ、脱穀機へのベルト掛けが主な用途です。
シベリアの村(TN-36): 鋼鉄が貴重なソ連では、フレームが「木製」であることが最大の利点でした。万が一折れても、村の木を切り出し、バナジウム鋼の補強プレートをボルトで締め直せば、翌日には稼働できます。「鉄は国家のもの、木は我らのもの」というソ連農民の現実的な感覚に合致しています。
2. 「小回り」がもたらした村の変革
土ポンポン: 旋回半径が大きいため、村の広場や広い農道でしか運用できませんでした。
TN-36: 中央のピボット(関節)で折れ曲がるため、家々が密集する古い集落の路地や、切り株だらけの開墾地でも自在に動き回れます。これにより、ソ連では「個別の農家の玄関先まで物資を届ける」ことが可能になりました。
3. 燃料の「悪食」性能
両機ともに焼玉エンジンのため、燃料を選ばない点は共通しています。
北支: 大豆油、菜種油が主燃料。
ソ連: 劣悪な重油に加え、「松根油・ひまわり油・菜種油」や「魚油」が多用されました。TN-36の木製サイドロッドは、こうした粗悪燃料による不規則な爆発振動を、しなりによって吸収し、クランクシャフトへの致命的なダメージを防ぐという隠れた利点を発揮しました。
4. 騒音の質
土ポンポンが「ポン、ポン」という湿った音なのに対し、TN-36は木製ロッドがフレームと共鳴し、「コン、コン」という乾いた打撃音が混ざります。1939年冬、中ソ国境の農村では、この「音の質」の違いで、どちらの勢力の車両が近づいているか、数キロ先から判別できたと言われています。
極寒と吹雪で視界がゼロになる中ソ国境の冬で、「音」だけが唯一の情報源となるため、農民や兵士が音の質(金属音か木製打撃音か)で敵味方を識別することができました。
TN-36の中国での名称は「土コンコン」でしょう。
1939年冬のソ連のシベリアなどの僻地は、スターリンのダイヤグラムと呼ばれたANT-32(AFF Type 32)で繋がり、TN-36による文明化が始まろうとしていました。




