1929年11月 ニュージャージー州ニューアーク ペンシルバニア鉄道(PRR)沿いの倉庫
ニューアークの工業地帯にあるその倉庫は、元は蒸気機関車の部品を鋳造していた古い町工場だった。床を覆うのは、数十年の油が染み込み、黒光りする分厚いコンクリート。
窓の外の通りを走るのは、黒塗りのフォード・モデルTや新型のモデルA、そして重い荷を積んだ商用トラック。高級車キャデラックがたまに通り過ぎるものの、活気はなく、街全体が「灰色の停滞」に包まれていた。
「アカギ、いい加減にしろ! ここの高すぎる家賃を払い続けるくらいなら、バラしてジャージー・セントラル鉄道(CNJ)の安倉庫に引っ越すべきだ!」
ジムが怒鳴り声を上げたが、アカギは製造中のその機体から目を離さなかった。
まだ車輪の取付けられていない機体は、鉄道車両用または建築用の大型ネジ式ジャッキと太い材木を組み上げた馬に、その巨体を支えられていた。主翼の主桁は、凹凸が噛み合う「櫛形継手」になっており、そこに直径20mm以上の高強度SAE(自動車技術者協会)規格ボルトを、上下合わせて20〜30本ずつ叩き込まれている。
全金属製のセミモノコック構造の骨組みの機首には、鋳造で作られた800kgの「化け物エンジン」が鎮座していた。カタログ雑誌に載っているトラック用の「油圧計」や「水温計」には、航空用の精緻な目盛りはないが、動いているかどうかさえ分かれば十分だった。
「ジム、こいつは『鉄骨』だ。数マイル運んだくらいで歪むような柔な作りはしていない。ボルト連結式の左右の外翼の主桁を外せば、胴体幅は3.3メートルに収まる。
この2.3トンの鉄塊を解体し、トラックを何台も手配して、あのぬかるんだ泥道を通ってCNJの倉庫へ運び込み、またこの巨大なジャッキを据え付ける。
……その『引っ越し代』だって、大恐慌前の積み替えの荷役作業員の強気な賃金と比べれば、あいつらへのチップみたいなものさ。……だがな、これを見ろ」
アカギは、PRR(ペンシルバニア鉄道)のキーストーンの紋章が入った長期賃貸契約書を指先で弾いた。全米最強の企業体であるPRRの不動産契約は極めて保守的で厳格だった。
「この契約書には『中途解約時の違約金』がびっしりと書き込まれている。景気が良かった去年の俺たちは、PRRのブランドと物流網に目が眩んで、大した重さの部品でもないのに、銀行並みに堅牢なこの『鉄の契約』にサインしてしまったんだ。今ここを出れば、違約金だけで三号機から四号機の材料費が吹き飛ぶぞ?」
ニューアークは鉄道の要所だ。エンジンブロックのような大物やシリンダーブロックは「鋳造所」へ、クランクシャフトのような回転体は「鉄道工場の旋盤職人」へ、翼の桁は「橋梁建設業者」へというように、既存の産業に仕事を振り分けるだけで機体の主要コンポーネントが揃う。
壁際の机の上にある油で汚れた『チルトン(Chilton)』の卸売りカタログと、『シアーズ・ローバック』の分厚いページからは、点火プラグはチャンピオン(Champion)社の自動車用。ベアリングはティムケン(Timken)社のカタログから選んだ産業用の円錐ころ軸受。パッキンやシール材は、テキサスの石油掘削機用。
カタログ販売にある大型トラック用のクランクシャフトだってそう悪いものじゃない。この機体の9割は、ガソリンスタンドの親父でも注文できる部品でできている。
ドナルド・ダグラスやジェームス・マクドネル。あるいはハワード・ヒューズも、最初は既存の工場の片隅や倉庫で、汎用部品を組み合わせた「化け物」のような機体を作り、それが後の大メーカーへと発展していった。
ジムは、ひび割れたコンクリートの床を忌々しそうに蹴った。
「……つまり、この高すぎる家賃は、俺たちが『好景気の夢』を見ていた代償ってわけか」
「そうだ。一度組み始めてしまった以上、こいつは重すぎて簡単には動かせない。そしてこの契約書も、一度サインした以上は俺たちを逃がしはしない。……皮肉なもんだ。今や俺たちの足をコンクリート漬けにする重石になっている。ニューヨーク・ギャングのコンクリート・シューズよりも重たい事は間違いない」
アカギは、カタログから届いた12ドルのグッドイヤー(Goodyear)のトラック用「バルーンタイヤ(低圧幅広タイヤ)」を見つめていた。そのタイヤは、広い表面積で荷重を分散し、泥濘地でも機体を支えられた。
ジムもトラック用バルーンタイヤに視線を合わせる。
「知ってるか? グッドイヤーの最新カタログにはな、なんと航空機用には専用の『エアホイール(Airwheel)』が載ってる。超低圧で衝撃吸収も最高だ。一輪で80ドルもする最高級品だぞ。それをわざわざ、この一輪12ドルの商用トラック用で済ませるつもりか?」
「ジム、その差額の68ドルで何が買えるか考えてみろ。航空専用の『エアホイール』は確かに素晴らしいが、専用の幅広ハブ(ハブ一体型ホイール)と特殊な空気入れが必要だ。一方、この12ドルのトラック用なら、全米のどのガソリンスタンドにも予備が転がっている。パンクしても数分で交換できるんだ。トイレを借りるついでに給油もできる。陸海軍が取り替えたいというなら、80ドルを払えばいいさ」
航空用よりも重いが、厚いサイドウォールだ、未舗装路での酷使に耐えるとアカギが続けた。
「そいつは素敵だ! 空は冷えるからな!」
ジムのわざとらしい笑い声がガランとした作業場に響いた。
「動かせないなら、ここで完成させるしかない。家賃という名の絞首刑の縄が、俺たちの喉を締め切る前に、この40,000ccの心臓を動かしてみせるさ」
大型の薪ストーブが赤々と萌えていた。
1929年という大恐慌下の米国です。まだ一ヶ月ですが。
1930年当時のアメリカの工業背景を鑑みれば、その手法でワンオフ機はもちろん、十数機程度の小規模量産は「極めて現実的に可能」です。
1. 「カタログ買い」が可能なインフラの存在
1930年代のアメリカは、すでに世界最大の自動車・農業機械の市場でした。
汎用パーツの宝庫: プラグ、ベアリング、タイヤ(車輪)、油圧ホース、各種計器類などは、自動車用やトラクター用の既製品が「カタログ販売(シアーズ・ローバック等)」で容易に入手可能でした。
整合性: アカギの設計が「低回転・肉厚」であるため、航空専用の超軽量・高価なパーツではなく、「トラック用の高耐久パーツ」をそのまま流用できる点が最大の強みです。
2. 蒸気機関車と自動車の「間」にある技術
当時の町工場(鉄工所)は、蒸気機関車の重厚な鋳造技術と、自動車の量産技術の両方に精通していました。
外注の容易さ: エンジンブロックのような大物は「鋳造所」へ、クランクシャフトのような回転体は「鉄道工場の旋盤職人」へ、翼の桁は「橋梁建設業者」へというように、既存の産業に仕事を振り分けるだけで機体の主要コンポーネントが揃います。
ガレージでのアセンブリ: 最終組み立ては、広い倉庫があれば十分です。丸頭リベットを打つための「空気圧リベッター」も、当時の鉄鋼建築現場ではありふれた道具でした。
3. 歴史的先例(ガレージ・メーカーの時代)
実際、この時期のアメリカでは、ガレージから始まった航空機メーカーが多数存在します。
1930年代のアメリカにおいて、サトシ・アカギの「AFFタイプ30」が安価かつ迅速に製造できた背景には、当時のアメリカが世界に先駆けて確立していた「規格化(Standardization)」と「通信販売(Mail Order)」のインフラがあります。
「航空専用」という聖域を破壊し、既存の巨大な民生品市場から部品を「略奪」するアカギの手法について、当時の工業状況を詳しく解説します。
1. 巨大カタログの存在:シアーズ・ローバックとカタログ文化
当時、アメリカのあらゆる町工場や農家に置かれていたのが、『シアーズ・ローバック(Sears, Roebuck & Co.)』や『モンゴメリー・ワード』の電話帳ほどもある巨大なカタログです。
何が買えたのか: 工具、ボルト、ナットはもちろん、エンジンのピストン、車輪のベアリング、電気配線、さらには「家一軒の建材キット」まで注文可能でした。
航空機への転用: アカギが目をつけたのは、自動車用やトラクター用の「ヘビーデューティー(重荷重用)」セクションです。
計器類: 航空機用の高価な高度計ではなく、トラクターや定置式エンジンの「油圧計」「温度計」「回転計」を流用。
パッキン・シール材: 石油掘削機や蒸気機関用の、耐熱・耐油性に優れた厚手のガスケットをそのままエンジンに使用。
2. 部品専門の卸カタログ:オートモーティブ・カタログ
町工場や自動車整備会社向けには、さらに専門的な『チルトン(Chilton)』や『モーター(Motor)』といった整備・部品カタログが存在しました。
プラグ: 当時の「チャンピオン(Champion)」や「ACデルコ」のプラグは、高級車や大型トラック向けに信頼性の高い製品を量産していました。アカギのエンジンは低回転(1800rpm)のため、高回転での「熱価」を気にせず、これら安価な民生品をそのまま、あるいはネジ径を合わせただけで使用できました。
ベアリング: 「SKF」や「ティムケン(Timken)」のカタログから、大型の円錐ころ軸受を選択。これは本来、重機や鉄道車両の車軸用ですが、AFFタイプ30の「肉厚なクランクシャフト」には、これら「重く、頑丈で、安い」ベアリングが最適でした。
3. 「航空機」を「農機」の延長で捉える
アメリカの町工場にとって、AFFタイプ30の図面は「最新鋭の戦闘機」ではなく、「空飛ぶ大型トラクター」に見えました。
タイヤ(車輪): 航空機用の細いタイヤではなく、グッドイヤー(Goodyear)の小型トラック用や多目的車輪を流用。2.3トンの重さも、路面の悪い農地を走るトラックの車輪なら耐えられます。
ボルト・ナット: 航空規格(AN規格)が成立しつつある時期でしたが、アカギはあえて「自動車規格(SAE規格)」や「一般産業規格」の、どこでも手に入る鋼鉄ボルトを指定しました。
4. 日本でのライセンス生産の「悲劇」と「可能性」
この「カタログ買い」モデルを日本(中島飛行機)へ持ち込むと、構造的な矛盾に直面します。
日本の現状: 当時の日本にはシアーズのような巨大な民生部品市場もカタログ文化もありません。全てのネジ、全てのベアリングを「航空機専用」として職人が一つずつ合わせ、検査官が判子を押すスタイルです。
アカギの狙い: アカギは、中島のような「エリート航空メーカー」に任せるとコストが跳ね上がることを予見しています。
そこで彼は、軍とのベッタリな関係を逆手に取り、「クボタ(大出鋳造所)」や「イセキ」、あるいは「鉄道省の苗穂工場や大井工場」といった、日頃から「厚肉の鋳物」と「大型の旋盤」を扱っている現場に、エンジンのサブアッセンブリー(部分組み立て)を外注させるよう誘導するはずです。




