理性
大学の夏休みも佳境に入りつつある。
土日には彼女が来て働いて、葵も心配なのか時間を作って必ず会いに来るようになった。
レンタル彼氏もずっと続いていて、彼女が寂しいと言った日は家に行って話を聞いたりもした。
平和にこのまま彼女の成長を見守れると、どこかで思っていた気がする。
だが現実はそうも簡単に行かないことを思い知らされることになった。
カランカラン、とドアのベルが鳴り、カウンターの奥から彼女と2人でいらっしゃいませと声に出したところで、彼女は慌てて俺の背中に隠れてしまった。
どうしたのかと問いかけると、彼女はママが来たと言う。
最悪なタイミングだと思った。
きっと母親もわかってて来店したのだろう。
「ちせ!居るんでしょ!出てきなさい!」
店内には客もいる。
だが母親は構うことなく声を荒らげた。
背中ではギュッと俺の服を握り、涙目で震えている彼女。
変わらず彼女の名前を呼び続ける母親を止めに行こうと一歩踏み出すと、行かないでと必死で服を引っ張っている。
しゃがんで彼女と目を合わせ、小さな声で話した。
「ちせちゃん、ここで隠れて待てる?」
「.......行っちゃうの」
「すぐ終わるから大丈夫だよ」
優しく頭を撫でて立ち上がり、母親の元へと向かう。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので。声を荒らげるのはお辞め下さい」
そう言うと母親が俺の胸倉を掴み揺さぶる。
隣で見ていた葵も立ち上がり、母親の名前を呼んでいた。
「道子さんストップ!ここお店だから!」
「うるさい!アンタもグルだったのね」
うちの子を唆しやがったな、と一向に怒りが静まる気配がない。
生憎マスターは今買出し中で店には居ない。
俺だけでどうにか場を収めなければならなかった。
すると、ママやめて、と叫ぶ声が聞こえる。
まさかと思って振り向けば、彼女は泣きながらカウンターから出てきていた。
「ちせちゃん、隠れてないとダメだって......!」
「ごめんなさい......でも、海にぃ達が悪く言われるのは嫌!」
いつもなら言葉を詰まらせてしまう彼女も、今日はすんなりと自分の気持ちを伝えられていた。
母親は彼女の姿を見るなり、再び怒りのボルテージが上がっていくのがわかった。
最近おかしいと思ったんだ、後をつけてみればこのザマだと散々文句を言ったあと、
「その歳で色気づいてんじゃないわよ!このクソガキ!」
と言い放った。
今まで冷静を保とうと当たり障りのない言葉で場を収めようとしていたが、母親の言葉を聞いた瞬間、俺は母親に掴みかかってしまった。
「実の娘に言うセリフじゃねぇだろ」
「た、他人が家のことに首突っ込んでんじゃないわよ!」
「お前がちゃんとこの子を見てねぇからだ!この子が毎日どんな思いでいると思ってんだよ!」
「おい海斗、落ち着け!道子さんも、ね!?落ち着こ!?」
葵が間に入って止めようとするのを見て、彼女も同じように母親の服を引っ張って俺から引き剥がそうとしていた。
母親は俺の肩を持とうとする彼女が気に食わないのか、邪魔だと言いながらパンッと頬を叩いていた。
一瞬、時が止まったような感覚がした。
気が付けば拳を握り、母親目掛けて振りかざそうとしたその時だった。
奥からマスターが出てきて、俺の肩をグッと後ろへと引いてくれたおかげで母親を殴らずに済んだ。
「あなたがちせちゃんのお母さんですか?」
「何よアンタ!」
「私はここの店の店長をしてるんです。ちせちゃんは真面目でね、よく働いてくれて常連からも人気なんですよ」
「は?」
「何も知らないでしょ、君。ちせちゃんのこと、何も知らないでしょ」
マスターがそう言うと、母親はギリギリと歯を食いしばっていた。
「1人でガキ育てたこともないくせに......知ったような口聞いてんじゃないわよ!」
ちせ帰るよ、と無理矢理彼女の腕を引いて店から出ようとする。
去り際に助けを求めるような顔をした彼女と目が合い、引き止めようと踏み出したがマスターに止められてしまった。
カランカラン、とドアが閉まり、早足で去っていく彼女を見送ってしまった。
「お客さん、すみませんね。見苦しいところをお見せしました」
マスターはそう言って俺の手を引いて厨房へと入っていく。
何故あのまま帰らせてしまったのか、疑問でならなかった。
あの後彼女がどんな目に遭うのか想像しただけで怒りが湧いてくる。
厨房でマスターは俺に怒りを収めるように促した。
どうして帰らせたのか聞くと、マスターはあのままじゃお客さんにも迷惑がかかると言い、俺は反省してマスターに謝った。
「すみませんでした......俺、あの場であの母親を殴ろうと......」
「それが正しい感情だ、謝ることはないよ」
「......大丈夫ですかね、ちせちゃん」
「大丈夫、とは言いきれないけど。まぁ、後は俺に任せて。仕事戻れる?」
「......はい」
厨房からフロアに出る時、ふと上に飾られた写真立てが目に入った。
そこには若かりし頃のマスターと、小さな女の子が写っていた。