初めてのお仕事
翌朝、目覚まし時計の音で視界がぼんやりとしていると、彼女は既に服を着ており早く行こうと俺を揺らして起こす。
体を起こしグーッと伸びをしてカーテンを開け、床で寝転がっていた葵を軽く足で蹴るとグゴッとでかいイビキで目を覚ましていた。
「おはよう葵くん!お兄ちゃん!」
「ふぁ〜...おはよ」
「おはよ」
元気のいい朝の挨拶につられるように挨拶を返すと、彼女は満足そうにふふっと笑う。
洗面所に向かって顔を洗い歯磨きを済ませてキッチンで朝食の準備をした。
トーストも目玉焼きもいつもと違って今日は3人分だ。
朝食を作っている最中も、彼女は早くお店に行こうと慌ただしく俺の周りをグルグルと駆けている。
出勤はもう少し後だよ、危ないから部屋で葵と待っててと言うと、少し不服そうに部屋に戻って行った。
テーブルに出来上がった朝食を並べ、手を合わせていただきますと挨拶をする。
セットしてない俺の髪がいつもよりペッタンコで面白いとか、葵のピアスがゆらゆらしてて可愛いとか、他愛もない話をしながら食べていく。
そろそろ出勤の準備をしようと皿を洗い場に入れて水を張り、洗面所で髪をセットする。
鏡を見ながらワックスを髪につけていると、ドアの隙間から覗き見ていた彼女と目が合った。
「トゲトゲ...!」
「トゲトゲ?」
鏡の自分を見れば全体にワックスを付けたまま下ろしていない髪の毛が視界に入り、これか、と笑ってしまった。
「今からまたかっこよくなるよ」
「お兄ちゃんはいつでもかっこいいよ」
まさか小学生に口説かれるとは思わず目を丸くしていると、彼女も自分で言って恥ずかしくなったのか葵の名前を呼びながら部屋に戻っていってしまった。
一人っ子だった俺にまるで妹が出来たようなそんな感覚がして、兄妹のいる生活は楽しいんだろうなと思った。
部屋に戻ると葵と彼女はあっち向いてホイをして遊んでいる。
そろそろお店に行くよ、と声を掛けると、遊びそっちのけで俺の所へと駆け寄ってきた。
早く早くと急かされながらタンスから服を引っ張り出し、着替えようと部屋着を脱ごうとしたとき葵が勢いよく止めに入った。
振り返ると彼女の目を手で覆っている葵がパクパクと口を動かしている。
「おお、お前!幼気な少女に裸体見せるつもりか!」
「なんでお前までちょっと顔赤いんだよ」
「らたい?」
「知らなくていいよ、ちせちゃん!」
そういうのはもう少し大人になってからー...と宥める葵を他所に、洗面所へと向かうことにした。
準備が終わっていよいよ家を出る。
彼女を真ん中にして3人で手を繋いで店までの道を歩いていると、
「あ、ママ...」
「え」
「えっ」
彼女の言葉に声を上げると、向かい側から彼女の母親が歩いてくるのが見えた。
「ちょ、海斗はちせちゃんと遠回りして行け!」
「は!?おい!」
葵は慌てて彼女を持ち上げて俺に渡し、グイグイと背中を押した。
「あれ、道子さんだ〜!」
「え、葵くん〜!」
なになに仕事帰り〜?と葵が気を逸らせている間に、俺は裏路地から1本向こう側の道へと出た。
この瞬間、葵が協力すると言ってくれたことに初めて感謝した気がする。
彼女を見るとどこか寂しそうな表情をしており、もしかしたら母親に会いたかったのかもしれないと思うと罪悪感が生まれた。
「ごめん。ママに会いたかった?」
そう聞くと彼女は首を横に振り、お兄ちゃん達といる方が楽しいからと言った。
遠回りしたせいで少し遅めに店に着いてしまった。
マスターに何かあったのかと聞かれ先程の出来事を伝えると、大丈夫だったかと心配してくれた。
葵が協力してくれたこともあり母親には気づかれなかったことを言うと、マスターは笑っていたが俺からすれば笑えなかった。
まるで誘拐犯のような気分に少し溜息が出たが、彼女を護る為にも仕方ないことだと割り切ることにした。
「さ、ちせちゃん。
働く前に、お店に着いたらまず挨拶をしないといけないよ」
「はいマスター!おはようございます!」
「元気のいい挨拶だ。
良い子にはお店のエプロンを貸してあげよう」
俺は鞄から自分のエプロンを取り出し身につけながら2人のやり取りを見ていると、彼女もまたマスターによってエプロンを着用していた。
何の変哲もない、ブラウンのシンプルなエプロンに彼女は目を輝かせている。
すると俺の方をチラッと見ると、同じエプロンを身につけているのを見てニコニコと笑っている。
「お兄ちゃんとお揃い!」
「ん、お揃いだね」
「嬉しい〜!」
クルクルと回りながら楽しそうにしている姿は、初めて会った日とは比べ物にならないほど子供らしくて可愛い。
開店準備の軽い清掃を手伝ってもらいながら、お店の仕事を少しずつ説明していった。
お客さんが来たらいらっしゃいませ、帰る時はありがとうございましたって言うんだよと教えると、わかった!と返事をする。
そしてマスターは彼女に特別な仕事をあげようと、席に常備してあるメニュー表を全て回収し、彼女の手に届く場所にまとめて置いていた。
「ちせちゃん。
お客さんが来たら、ここからメニュー表を1つ持ってお客さんに届けてくれるかな?」
「はい!」
「ありがとう」
開店5分前を切っている。
彼女にプレートを変えに行こうと外まで連れ出し、抱き上げる。
「このドアにかかったプレートをひっくり返してくれる?」
「うん!」
彼女がクルンとひっくり返すと、OPENの文字が見える。
これでお店が開くよ、と言うと、彼女は頑張らないとと気合を入れていた。
早速入ってきたお客さんは、幸いにも彼女と1度話したことがある常連の佐藤さんだった。
「い、いらっしゃいませ!」
「おや?可愛らしい店員さんだなぁ」
「うちの新入りちゃん、可愛いだろう。
じゃあちせちゃん、メニュー表お願い出来るかな?」
メニュー表を1つ持ち運ぼうとするのに合わせてお冷を用意し、彼女の後ろを着いて回った。
メニュー表です、と渡すと佐藤さんはありがとうと笑っている。
お冷どうぞ、とテーブルにコップを置いて一緒に厨房へと戻り注文を待つ。
縦長のバインダーに伝票を挟んでペンを置いていると、彼女がジーッと俺の様子を見ている。
ちせちゃんにはまだ注文取るのは早いよ、と諭すと少し頬を膨らませていた。
「ちせちゃん今日はお疲れ様。
はい、賄いだよ」
今日は平日の為かそこまで客足が多かったわけではなく、平和に1日が終わった。
マスターはいつものように賄いを作り俺達の前に並べる。
プレートの上にはナポリタンやハンバーグなど子供が好きそうな物が並んでいて、2人で手を合わせていただきます、と挨拶をした。
「ねぇねぇお兄ちゃん」
「ん?」
「まかない、ってなに?」
マスターが言っていた言葉が気になったようで、口の周りにケチャップを付けながら問いかける。
ナプキンで優しく口の端を拭いてあげながら、
「賄いは、ここで働いてる人だけが食べられる特別なご飯のことだよ」
と教えてあげると、特別という響きが気に入ったのか嬉しそうに足をパタパタさせながらご飯を食べていた。