心配と不安
夏休みも終わり10月を迎えて、大学の講義が再び始まった。
あの一件以降彼女を見ることもなくなり、電話もかかってくることはなかった。
カフェの中はいつものように平和なのに、心の中は不安と心配で渦巻いている。
葵も同じようで、口を開けば彼女を心配する言葉を並べていた。
カランカラン、とドアが開くと、
「戻ったよ」
マスターが外出から帰ってきた。
マスターはここ最近外出が増え、やたらと店を開ける時間も多くなっていた。
おかえりなさい、と言いながら食器を拭く手を止めて、マスターから買い物袋を受け取った。
「最近なんかあったんすか?マスター居ない時多いから」
「あぁ、ちょっと用事があってね。少し出向く時間が増えたんだ」
冷蔵庫に食材を詰めながら葵とマスターとの会話を聞き流していると、マスターは厨房に戻ってきた。
手伝うよ、と買い物袋を1つ取って、冷蔵庫へと食材を入れていく。
ふと、気になっていたことを聞いてみることにした。
「マスター、あの写真って?」
厨房のどこからでも見えるように、入口付近に飾られている写真立て。
そこにはマスターと小さな女の子が笑顔で写っているあの写真。
気になってはいたが、マスターが居ない時間が増えて聞きそびれていたのだ。
マスターはあれね、と笑って話をしていた。
「俺の娘だよ」
「娘さん居たんですか」
「あぁ。今はもう社会人でね、家を出たんだけど」
古い食材を取り出し、賞味期限を確認しては何やら調理に取りかかり始めた。
その間もずっと、娘の話をしてくれた。
マスターは娘が小さい頃に離婚して、男手一つで育てていたらしい。
当時マスターは会社員で、仕事で忙しくしている中、奥さんは別の男と不倫して娘を疎かにしていたのだ、と。
「だからね、本当はあの日見過ごしたくはなかったんだよ」
まるで、自分が仕事で家にいなかった時の奥さんと娘の状況を想像させるようで。
だがあの場で引き止めても意味がないと、苦渋の決断をしたのだと言った。
マスターの身の上話と彼女が重なった時、心が締め付けられるような思いだった。
「殴ってやりたい気持ちは、俺も同じだ」
あの日俺が母親に突っかかっていなければ、もしかしたら状況は少し変わっていたのかもしれない。
ずっと心の奥で引っかかっていた思いを見透かされたようで、少しドキッとした。
いつの間にかマスターは調理が終わっていたらしく、2枚の皿に均等にパスタを盛り付けている。
葵くんと三木くんの分ね、と渡され、時計を見ると既に17時半を回っていた。
カウンターでやたらと落ち込んでいる葵の前に皿を置くと、俺の方をジッと見つめる。
「賄い。マスターがお前にもって」
「......マジか。マスター、ありがと!」
友達かよ、と眉間に皺を寄せていると、奥からマスターがどういたしましてと返事をした。
葵の隣に座り、一緒に賄いを食べる。
最初こそ互いに無言だったものの、また会話は再開された。
どうやらレンタル彼氏のバイトはあれっきりで辞めたらしい。
無理もないか、と聞き流しながらスマホを何回も確認していた。
「ちせちゃんの連絡待ち?」
「おー。また電話来るかもしんねぇし」
「健気だね〜」
「......どういう意味だよ」
葵の方を睨むといつものように慌てるのかと思いきや、深い意味はねぇよとあっさりと受け流していた。
これをキッカケに、また彼女についてポツリポツリと話し始める。
互いに心配は募る一方だ。
また今日も連絡はないだろうと思い席を立った時、スマホが鳴り出した。
もしかしてと画面を見ると、やはり見慣れた番号が表示されている。
「......ちせちゃん」
「え、マジ!?」
葵は勢いよく立ち上がり、俺の様子を窺っている。
受信ボタンを押して恐る恐る、もしもしと呟いた。
すると電話の向こうでは泣きじゃくりながら、
「海にぃ、助けて......」
とか細い声が聞こえたのだ。
俺は慌てて席を立ち、荷物も持たぬまま店を飛び出した。
「え、おい!海斗!?」
彼女に何かあったのかもしれないと思ったらいてもたってもいられなかった。
店から彼女の家まで20分。
走れば10分程度で着けるだろうか。
「ちせちゃん、聞こえる!?電話切らないで繋げたままにしといて!」
切れる息の中そう伝えると、うんと小さな返事が聞こえた。
電話越しに怒号のような声は聞こえないことから、きっと母親はまた出歩いているのだろう。
隙を見計らって電話を掛けてきたのだと察した。
考え事をしながら走っていればあっという間に彼女の家に着いた。
インターホンを鳴らして電話越しの彼女に向かって着いたことを知らせると、ガチャリと扉は開いた。
中へ入るなり彼女は俺の名前を呼んで抱き着いてくる。
腕の中で泣きじゃくる彼女を宥めながら部屋を見渡した。
以前よりも汚れている上、彼女のランドセルらしき鞄はズタズタに壊されていた。
それを見た瞬間彼女にも危害が加えられたのではと不安になり、肩を掴んで引き剥がす。
顔や腕、脚にこれと言った痣や傷はない。
とりあえずその事実に安堵し、再び抱き締めて頭を撫でた。
落ち着いた頃、家の中で話を聞こうとしたが彼女は酷く嫌がった。
外に連れ出して欲しいと、お店に行きたいと言い始めた。
俺1人では判断しきれずに店に電話をかける。
マスターに事情を説明すれば、わかったと許可を貰えた。
彼女を抱き上げて外へと出る。
店に着くまでの間、彼女は俺の首に腕を回しギュッと抱き着いて離さなかった。
「マスター、戻りました」
「ちせちゃん......!?」
葵に事情を話していなかったのだろう、驚いて立ち上がり彼女に駆け寄った。
マスターも厨房から出てくるなり彼女の頭を撫でていた。
安心したのか、彼女は再び泣き出してしまった。
マスターは気を利かせて早めに店を閉めたらしく、店内に客はいない。
ゆっくりと彼女の話を3人で聞いた。
母親はあれから小学校にすら通わせるのを許さなかったらしく、ランドセルが壊れていたのにも納得した。
電話機も隠されて俺に電話が出来ないままずっと過していたようで、電話機の場所を見つけた今日、母親が居ない時間を見計らって連絡したらしい。
一通り話し終えたあと、彼女はまた泣き出しそうな顔をした。
また母親が店に乗り込んでくるかもしれないと不安になっていた。
次見つかれば何をされるかわからない、そう思うと連れていたことはやはり間違いだったかもしれないとまた考え込んでしまう。
だがマスターは、大丈夫の一点張りを続けた。
何の保証があるかはわからない。
それでも大丈夫だと言い続けた。
結局その日は店に母親が来ることはなく、1度俺の家で預かることになった。




