白旗の村
白のぼりを背負った禿げ頭についてあぜ道を進む。田んぼは黄金色の稲穂に埋め尽くされ、朽ち果てた神社跡までなだらかに伸びている。
「今日は辛い仕事になりそうです」
村長さんが苦く噛み零した言葉に、力なく揺れる背中に僕は白旗を握りしめて気を入れ直す。赤月党の奴らに軽く顎で使われた時も、西連の幹部共にお酌して夜を明かした時も、諦めきったようなニヒルな笑みすら浮かべていた村長がここまで露骨に辛そうにしているのは初めて見た。覚悟しておいた方が良さそうだ。
水桶を担いだおばさんとすれ違い水車小屋を抜けて坂を上がると、川沿いに小屋が連なっている。小屋の屋根はトタンだったり茅葺だったりと様々だけども、それぞれにきちんと白旗が掲げられている。白旗が川上からの風に靡いて風の通り道を真っ直ぐ示しているようだ。しかし違和感に目を折り返すと橋の傍の茅葺小屋だけ白旗が欠けている事に気付く。その白旗の無い茅葺小屋に向かって村長は歩を進めているようで、やっと僕にも今日の仕事が見えて来た。
先週、村が赤月党に移入された時、被害にあった女性がいたという話は村長から聞いていた。西連の攻勢によって赤月党の移入自体はすぐに終わり、被害の件も村長が内密に処理したようで漏れてはいないようだが、被害女性の家族には隠しようがない事だしやはり納得もできないだろう。そういった不満が形になって白旗不掲揚という違反行為に繋がってしまったのかも知れない。
そして村長は白旗の無い茅葺小屋の前に立つ。僕は唇を結んで見守る。白旗を握る手が汗で湿っていた。白旗不掲揚という言葉自体は知っていても、実際に見るのは初めての事だった。そんなことが実際にあるなんて考えたことも無かった。村長は地べたまで垂れ下がった麻のれんを揺さぶる。
「ごめんください。ごめんください。芦野さん、いらっしゃいませんか?」
しつこく「ごめんください」を繰り返したがやはり返事は無い。村長は息を吐くと、のれんに手を掛けて押しやり小屋に入り込んで行く。僕も続いて入り込むと、真っ暗な小屋の片隅に小男が座り込んでいた。姿勢も表情も何もかも弱々しく項垂れていたが、突き出した首から目だけが不気味に光っていて、異様な気迫があった。どういう訳か小屋のどこか一点を睨んでいるようだった。
「芦野さん。娘さんの件はご愁傷様でした」
男が瞬いて明滅があったが、やはり返答はなかった。
「芦野さん。白旗はどうされました?」
「……燃やして川に流したよ、あんな役立たずのゴミは」
「それは困ります」
「困ればいいだろ。今更俺にどうしろってんだ」
「白旗掲揚をお願いいたします」
「ごめんだね。死んでも断る」
「……芦野さん。どうかお願いいたします」
「なあ……俺の娘はなぁ、まだ15だったんだぞ?」
男の声は静かだったが、燃える様な怒りが滾っていた。
「俺は……俺はな、あの日……草刈りが終わって、水車小屋を抜けて、家に帰って、中から連中の馬鹿笑いが聴こえてきて、それで、俺はどうしてたと思う? ……俺はな、ただ待ってたんだ。連中が飽きて出て来るのを、ずっと待っていた。心配で仕方なかったが、ユミの声はしなかったから……大丈夫だろうって高をくくっていたよ。そしてあんたの下らない与太話を真に受けて、連中を刺激しない事を第一に考えてさ、頭の中に浮かんでくる反抗心を見つけ次第潰して行ったさ。そうやって白旗を見上げたり川を眺めたりで時間を潰して、奴らが消えるのを待っている間、誇らしい気持ちにもなったっけな。……今となっては、ただただ反吐がでるがね。本当に反吐が出るよ。自分にもあんたらにもこの村にも。何もかも反吐が出る。ふざけやがって……あのクズ共、楽しそうにニヤニヤ笑って出てきやがった! 死んでも奴らの面は忘れねえよ。そして俺は……あろうことかヘコヘコ引き下がって……道を開けて……ああ……反吐がでる! 俺は……俺はな……それから……家に入って……犯されて殺されて、散々弄られたユミの死体を見たんだ! 俺のせいだ……お前のせいだ……このクソ村のせいだ……!」
「尊い犠牲でした」
「ふざけるな……ふざけるなよお前……! おい、村長さん……あんたは、何なんだ? お前はそれでも人間なのか? 村の女がな、犯されて殺されてんだぞ!? どうしてそんな平然としてられんだ? ええおい? まだ15だったんだぞ? たった一人の娘だったんだ! ……それを……もう……止めてくれ……本当に反吐が出る。……ああ! 畜生! ……頼むからそのクソ旗を燃やしてくれ! すぐにでも燃やしてくれ! ……見たくないんだ……もう二度と!」
「何度もご説明して来たとおりです。私達の村は街道の要所に位置し戦略的価値が大きい一方で、平地で防衛には不向きです。人手も足りません。周辺の勢力がその気になればすぐに併呑されてしまいます。そういった状況の中で平和な村を存続させる為には白旗を掲げ、外交を駆使して緩衝地帯としての立ち位置を確立するしかないのです。そして実際に私達の戦略は成功し、ここ10年で大規模な略奪や破壊も無く一人の戦死者も出しておりません」
「……なあ……俺の娘は大した被害じゃないってのか? なあ……どうしてよりによってユミなんだ? たった一人の娘だったんだぞ? どうしてだよ?」
「私も12年前の戦いで息子を失っています」
「…………」
「今回の事件に関しましては仲介国を通じて赤月党に苦情を入れております。二度とこのような事がないよう、村長として尽力していく所存です」
「…………」
「ですから……どうか白旗掲揚のご協力をお願いいたします。娘さんの死を無駄にしない為にもど――」
突然男がとびかかって村長を張り倒していた。馬乗りになっていた。必死で引きはがそうとしてもびくともしない。「この野郎が……殺してやる……」背後から男の首に白旗の柄を引っかける。柄で首を絞める気で思い切り引き上げる。「が……がっ……」そうしているとやっと男の手が離れ、途端に嘘みたいに大人しくなった。村長が激しくせき込む音がする。その間も僕は男の首に柄を掛けて確保していたが、咳が落ち着いた村長が静かに首を振っていて、男が完全に脱力していたので拘束を解いた。男はそのまま力なく崩れ落ちた。
「そうだ……これでいいんだ……これがな、これが自然って事なんだよ。なあ、ガキ。お前は、どう思うんだ?」
「僕は戦争で親を殺されて、それでこの村に来て村長さんに助けてもらいました。戦争は良くないと思います。僕は……村長さんは間違っていないと思います」
「だがお前は村長を守る為に武器を取って戦ったんだ。違うか?」
僕は何も言い返せなかった。
「お前たちが言っている事は、全部理屈だ。理屈の為に心を殺しているんだ。そんなだったら、無駄死にだろうがなんだろうが誰かを守るために戦って死んだ方がずっとマシじゃないか。こんなクソ見たいな村で、こんなクソ旗掲げて、何が平和だよ! 最初から死んでるんだよ、心が死んでるんだよ、お前らは全員!」
「私は、この村を守らねばなりません」
「なあ……村長さんよ……俺は何が許せないって……ユミを殺したクズ共にヘコヘコしてた自分自身が一番許せねえんだよ……あの時鎌でも持って連中に突っかかって、斬り殺されておけば……ユミの為に戦って死ぬ事が出来ればどんなに良かったか……後悔してもしきれねえんだよ……なあ……村長さん……俺には娘の為に死ぬ事すら許されないってのか?」
「お願いします。どうか、ご自愛ください」
「……このクソを掲げて、またあのクズ共にへつらえってのか?」
「…………」
男は黙って曲がった背を見せ、土間の隅に向かっていった。棚からポリタンクを取り出して掲げ持った。口に流し込んだ。痙攣と共に異様に大きな咳を吐き出したかと思うと、男は土間にうつ伏せに倒れ伏した。泡を吹いていた。農薬を飲んだようだ。僕は反射的に助け起こそうとしてたが思いとどまった。
「村長さん。どうしましょう?」
「このままにしておきましょう」
村長の目配せを受けて、僕は白旗を差し出した。
「後の事は私がやっておきます……あなたは北区の見回りをお願いします」
河川敷を降って木立を抜けて、北区へと向かう道すがら僕は色んな事を考えた。村長さんの事、白旗の事、戦争の事。村長さんは間違っていたのだろうか。僕は、どうなんだろう。男の言葉にも一理あるのかもしれない……しかし、あの男も戦争を知らないじゃないか。彼はきっと殺された事も殺した事もない。だからあんなに平然と「戦って死ねば良かった」なんて言えるんだ。やっぱり、村長さんは間違っていない。僕も間違っていない。間違っていない筈だ。……しかし僕には、家の軒先に、屋根に突き刺さって靡く白旗の列が、ずっと見慣れて来た当たり前の光景が、どうにも不気味に感じられてならなかった。こんな事は初めてだった。
……次の日、あの男の茅葺小屋の屋根には他の小屋と同じように白旗が掲げられていた。どこまでも連なる白。川沿いの小屋には全て白旗が掲げられ、それぞれの白旗が川上からの風に靡いては風の通り道を示していた。