海の子ゼールのかなわない夢
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ぷよよ……。
すごく良く寝た感触。ベッカがふわっと目を開けると、まわりが明るい。
ブランがいたはずのところが空いていて、あざらし達もいなかった。小舟天幕の中に自分ひとり、……違った。お腹わきにぴっとりくっついて、仔あざらしが寝ていた。それがもぞついて、くわーとあくびをする。
上半身を起こして、ベッカは両手のひらで顔をこすり、赤ん坊を抱き上げて外にでる。
ずしーん! ……昨日より、重い?
髪から衣から、ぱらぱら砂が無数に落ちた。
「ベッカさん、おはよう」
「おはようゼール君」
とたん、赤ん坊が腕の中でじたばたする。下ろしてやると、焚き火の世話をしているゼールの所へ、べちべちべち……とまっすぐ這って行った。
「ブランはその辺、見回って来るってさ。おばちゃん達は皆、魚とりに行ったよ。俺らは、朝はしょっぱいの食べない派だから、いらないって言っといた」
「そうかい、ありがとう」
見上げる空はもも色、嵐が行ってしまった後の泡乳みたいな雲が、壮大に頭上を取り巻いている。
――ちがった。これはここでは、あけぼの色って言うんだったね。
ゼールとわかした白湯を飲んでいるうちに、ナノカとバーべが帰ってきた。巨大あざらしは、小さめのたらを娘にやっている。
『今日じゅうには、精霊使いの集落跡へ行けるからね。帰りは沖合に出て、西向き海流に乗っかるから速いわよ!』
「風むきも、つくと良いんだけどな」
「……あざらしの皆さんと、ゼール君と。あなた方が同行してくれて、僕は本当に幸運です。でなきゃとても、こんな奥深いところまでは、来れませんでした……」
少し冷たい風が吹き抜けて、ベッカはぷよんと身を震わせた。濃い臙脂外套の頭巾をかぶる。
「俺だって、こんなとこ来たの初めてだよ。ほんと、すごい旅になっちゃったな!」
ゼールも作業着の頭巾をかぶっている、丸く抜かれたその顔が、屈託なく笑う。
『あんたも、舟の扱いがうまいわよね。大きくなったら、ゼールは漁師になるの?』
ナノカが何気なく問いかけた。
「ううん。親のあとを継がなきゃいけないから、ひもの屋になるんだよ」
その答えの最後の方に、寂しさ……少年なりのやるせなさがにじんで、ベッカはぷよんと小首をかしげた。
「……そうなんだ?」
「うち、自前のひもの工房もあるし、ファダンとか他のところからもたくさん卸しているから。自分だけじゃ、将来とても手が回らないだろうって、兄さん言うんだ。俺も手伝わなくちゃ」
兄さんと言うのは義理の父親の連れ子だろう、とベッカは見当をつける。
ゼールの口調からして、仲の良い家族ではあるらしい……けれど。
「偉いね」
「……ほんとは。ずうっと舟に、乗っていたいんだけど……」
『船乗りになりたいんにょ?』
バーべお婆ちゃんが、のんびりと聞いた。
「……ううん、違うんだ」
『言ってごらんよ?』
ナノカが優しくうながす。
「オーランの……俺の国には、沿岸警備隊があるんだ。ほんとはそれに、なりたい」
――やっぱり、ねー!
内心で言いつつ、ベッカはうなづいた。
シエ湾を横断した時にゼールが見せた、あの誇らしさ。警備隊のことを話した顔がぎらぎら輝いていた、この子は“海上の騎士”に、憧れているのだ!
「……お母さんやお父さんに、相談してみたかい?」
「まさか」
少年は瞬時、怒った顔になる。次いで、かなしげな瞳。
「話してもいない。言ったってどうにもならないじゃない。そもそも俺には、資格がないんだ」
「ええ?」
「ベッカさんてば、あの人たちは騎士なんだよ! 平民の俺が、騎士になれるわけないじゃない」
「でも君、出身は貴族って言わなかった?」
「テルポシエの貴族だもん。身分剥奪されたんだから、もう何にも意味がない。お母さんと一緒に、ゼール・ツルメーになったんだ、だから……」
より一層のやるせなさに唇を引き結んで、少年は顔を伏せてしまった。
『にょん……』
バーべお婆ちゃんの低いささやき、……皆しずまり返る。
「ああ……、ブランが帰って来るよ。おばちゃん達も、じきに上がって来る」
ほんの少し後に、思い切って上げたような顔は、いつも通りの冷静な海の子・ゼールだった。
口のまわりを魚の鮮血であかくした赤ん坊ににじり寄られて、ひょーいとよけて立つ。
「ベッカさん、ぱん食べようよ」
仔あざらしは、ナノカに顔をべろべろなめられている。




