嵐の晩に、海を呪う男
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ベッカとあざらし達がかたまって眠る、裏返した小舟の上を過ぎ去っていった嵐は、その妙ちくりんな黒いつやつやを見て、何これと思った。
今日は変なものばっかり見ちゃった、やっぱり人間ってよくわかんなーい、とも。
ここ東部大半島の南沿岸地域を吹き抜ける前、この嵐はテルポシエの東側辺境をびゅうい、と突っ切ってきたのだ。
ごちゃごちゃしたイリー人の町を横目に見て、じぐざぐ入り組んだ岸が始まるシエ半島を通り過ぎたあたり、小さな岬の先っぽに、黒っぽく佇む姿を見た。
かなり大きな馬と、その手綱を握る大きな人間の男。
ばしばし強い雨に叩かれていると言うのに、そいつは平気な様子で、……わらって海を眺めていた。
人間たちが、自分をきらい恐れていることを、この嵐はよく知っている。
自分が通り過ぎるところに、人間たちはあまりいない。町のものも村びとも、皆こぞって小さな巣の中へ入ってかくれてしまっている。
だから嵐は、人間をよくよく見たことがない。
その日はじめて、わらっている人間の顔、というものをまじまじと見た。
あまり若くもないその男は、樹も石もなにもない岬の端から、じっと海を見ている。
日が沈み残光も消えかけた闇の中で、頭巾もかぶらずむき出しにした顔に、ぎゅうっと笑いじわを寄せて、海を見ている。
ぶひん、と馬がいななく。
「何だよう、せかすなって」
広い肩をすくめて、男は巨大な雄馬を見る。
「とんでもいい陽気じゃねえか。海も空も陸も、ごったまぜに真っ暗でさ」
ふふふ。男は目を細める。
「ほんとに、いい嵐だ。陸と海が、まぜこぜになる」
大柄な男は、外套から何から、全身びしょ濡れだった。短く切った黒い髪の先から、雨水が滴り始めている。
馬の前たてがみも、やはり濡れそぼっていた。……それをうるさく振り払うようにして、雄馬はもう一度、きげん悪くいなないた。
「ま、腹減ってんのはどうしようもねっか。そんじゃ行こかい」
男は鞍に手を掛けた、べしょべしょのももんが袖がよれる。ひらり、と飛び乗った。
ようやく巣に帰るのかな、と嵐は思う。よく見れば、鞍のうしろ側に大きな魚があぎとに細縄を通されて、括りつけられている。
「……」
馬の鼻先を内陸側に向ける前に、男はもう一度、じっと海を見た。
風雨によって、その境界を曖昧にしている、海――。
嵐はどきりとした。
男の左目元、ひたいから頬にかけて大きく入ったただれ痕のような傷の上、そこに笑いじわをぎゅうっと寄せて、わらい続けている男。
そのつめたさ、暗さ。
今まわりに満ちている闇よりも、ざわつく海の波よりも、はるかに濃く黒いものが、男の瞳の中にあった。
「ほんとに。生まれてどうしようもねえ、世界だよ」
思わず、その瞳の中に引き込まれそうになって、嵐はぐうう、と持ちこたえる。
それでそそくさと、退散することにした。なんだか、とてつもなく、こわい……。東に向かって、吹いて行った。
「ごたごたに混じって、こわれて、みじんに消えちまえ。……海から、女から生まれた、こんな世界なんざ」
やはり笑顔で、馬上のエノ軍大隊長、ギルダフは呟き続けた。




