バーべお婆ちゃん怪異談・南の海の謎の船
潮のにおいの湿気が、少しずつ濃くなってゆく。周りの闇も、どんどん濃度を増していた。そして焚火は、ますますあかく強く輝く。
「お婆ちゃん、いっぱい泳いで疲れたろ」
隣に座り込んで、ブランは老あざらしをいたわった。
『へいきだにょ。お前たんこそ、いっぱいこいで疲れたにょ』
ひょろひょろのっぽ少年としわしわ婆あざらし、組み合わせは珍妙でも、お互いがおたがいをいたわり合っているのは、やさしい風景である……。
「何か昔の話で、思い出したことなかったかい。海賊だとかエノだとか、精霊使いの話でさ」
『にょん』
バーべお婆ちゃんは、ふるふる頭を振る。否定らしい。
『すまんにょ。ナノカが話した以上のことは、知らんにょ。けど……』
「けど?」
『もひとつむかーしの時代に、ふしぎな舟を見たことはあるにょん』
「?? エノとかが来る、ずーっと前の話ってことかな」
『そうそう。わたしがぴちぴち若い娘だった頃、わたしのお母たんと祖母たまと、群れのみんなといっしょに、精霊使いの村……ブリガンティアの民の集落へ、お花たべに来たにょん。その夜、だれかが南の島々の方から、妙な音がすると言い出してにょん……』
「南ですか……?」
もちもち・ぷよん、と赤ん坊をゆすり上げ、ベッカがたずねた。片手で鞄を探り、地図を引っ張り出す。焚き火によせて広げた、バーべが顔を近づける。
『おおう! すごいにょん、世界がちっちゃく絵になってるにょーん』
「この辺の地図なんです。今いるあたりはここなので……、こっちの方、でしょうか?」
ベッカは太い指で、ネメズの集落付近の海に浮かぶ島々をさした。
『ちがうにょん、それは“岩々”って呼んでるところにょん。もっと遠くの方にょんよ』
「えっ、じゃあこっちなの?」
ブランが指さす島嶼部、東部大半島の先端“ダビル鼻”のずっとずっと南にある、島のかたまりに向けてバーべはうなづいた。
「そうとう離れているよ? 何で聞こえちゃうの」
『むふん、妖精の聴力なめたらあかんにょ。とくにわたしらは海の中、音が伝わりやすいとこに居るからにょー。たぶん、ダフィル鼻の声音つかいにも、聞き取れんかったと思うにょ』
ベッカはぷよ・ぴくんとした。
「ダフィル鼻? お婆ちゃま、ダビルでなくってダフィルと呼ぶんですか。この半島の先っちょは?」
『そうそう。ダフィル、にょ』
風土誌を書いたイリー人は聞き取り間違ったか。あとで直しておこう、とベッカは思った。それに声音つかい……精霊使いほどには強そうでもないし、興味もうすいが、精霊使いと並んで東部では重要だった人たちだ。ベッカはバーべの話に、ぷよんと身を入れて聞き入る。ブランも引き込まれたらしい、子どもらしくお婆ちゃんに話をせがむ。
「それで、変な音がして、どうしたの?」
『みに行った』
「……こんな所まで?」
ブランとベッカはたまげた。未知の部分ばかりの東部地図である、正確ではない。けれどバーべの言う“島々”はその布地図の端にある、雑に見積もっても四十愛里は行った所だ。
『わたしもその頃はやんちゃでにょん、お母たんの反対を押し切って、“東部爆泳連合”の娘たちと、ぶいぶいつるんどったにょん。なので当然、夜中にその仲間たちとようす見に行ったにょん』
どっちかというと小柄、しわしわながらにかわいらしい外見のお婆ちゃんなのに、ずいぶんと鳴らした過去をもってるらしい! あざらしは見かけによらない。
『静かに凪いでた夜だったから、割とすぐ着いたにょん。わたしらはどんどん音に近づいていった……。島々の間に入る前、ちょうどよいとこに岩礁があったから、そこ乗って、変なものがないかどうか、見張ったにょん。南の方のお空が、妙にあかるかったにょん』
「……夜なんでしょ? 月や星々が出てたんでなくて?」
『にょんにょん、お空ぜんたいが広ーく、ひらひらみどり色に光ってたにょん』
空がひらひら光るとは、これ如何に。バーべの表現をブランとベッカはどうにも理解できなかった……とにかく、不思議である! ひょろぷよ二人は顔を見合わせた。
『そこへ、いっっっきなーり!!』
バーべお婆ちゃんが、ぐわっと上半身をたかーく伸ばした。ベッカとブランはびっくりして、ぷよ・ひょろんと波うった。
『ほそながーい! 黒い舟が、いきなーり現れて! 目の前ずどんと横切って、これまたいきなり消えたにょん!!』
「現れて、消えたっ!?」
「お婆ちゃま、前後の切り抜き部分はどうなったのです!?」
『わたしら、何も切りとってないにょん! ほんとに唐突にあらわれて消えて、ほげーと口あけてたまげていたら、今度はだいぶ先の海の上に、またぱあっと現れてにょん!? そいでまた消えたにょん!』
何と言う迫真の語り、さすがあざらし女の最長老!
「えええ!?」
『おんなしことを四回くらい、くり返して見たかにょ……。現れるたんびに、舟は遠くなっていって、いちばん最後にぽつんと見えて消えて……それでおしまい。途切れとぎれに聞こえていた変な音も、一緒にしなくなった。気がついたらお空も、いつものくろい闇に戻っておったっけ、にょん……』
「なんて不思議なんだ……! お婆ちゃま、舟のようすは憶えておいでですか?」
『うむん。ほそ長くって、かなり大きかったにょ。あたまの方がこう、にょうーんと突き出してて、うみへびがかま首もたげてる感じだったにょ。ばしばし水を叩く音が脇からいっぱい起こってて、……あれは櫂って言うんにょ?』
「え……じゃあ、人がかなりたくさん乗ってたってこと?」
『にょ!』
肯定である、老あざらしはうなづいた。
『妙な音は、そのばしばしする櫂の音と、男どもの声だったんだと、後からわかったにょん。でも、意味はさっぱりにょん。ブリージの言葉でも、潮野方言でもなかった……。人間たちの姿かたちまでは、さすがにわかんなかったにょ』
何なんだそれは、とブランは話に引き込まれっぱなしである。
『それでお母たんの所へ帰って、めちゃんこ怒られたにょん。南のあの“島々”は、行ったら何が起こるかわからん神たま方の場所だから、これっきり近づいちゃいかんにょ、と』
バーべは両脇にたれたひげをもぐもぐ上下させて、神妙な顔つきで言った……。




