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あざらしと行く! 東の果てへの航海譚:海の挽歌

 

・ ・ ・ ・ ・



「……」


「どうかしたんですか? ベッカさん」



 磯織いそおり集落を発って少しのち、一団は沖合を緩やかに進んでいる。


 今まで同様、小舟の中央部にある台にかけたまま、ベッカがしばらく空を見上げていることに気づいて、ブランは問うた。



「うん。空の色が何か、こう……違う気がしない?」


「え?」


「僕には、緑色に見えるんだけど……」



 言われて少年が見上げると、確かにそうだった。夏の朝、今日も澄みわたった空は空いろ……でも青じゃないのだ。あたたかい陽の黄金をふんだんに含んだ、萌黄もえぎのような色をしていた。



『ずうっとこうではないけれど、この先はこういう空色の時が多いのよ』



 ナノカが脇から、言ってよこす。



『そろそろ、“岩々”が見えてきたぞーい』



 頭にふたつ、小さなお団子こぶの出ている、ハムアおばさんがもっそり言った。これらは耳ではなくて、長年しつこく居残るいぼ・・であるらしい。


 ブランとベッカは、空から目線を落とす。まだうっすらとした影ではあるけれど、右前方にいくつか小島が見えている。


 ベッカは地図を取り出した。


 東部大半島を、南の沿岸ぞいに伝ってゆく今回の旅、島々がくっついている部分は主に二カ所ある。


 ここが一つ目、もうひとつは先端部の“ダビル鼻”付近……、最終目的地である。



「もうじき、“ネメズの集落”跡ですね」



 ブランも横からのぞき込んで、言った。



『海賊どもは、ああゆう小っさい島や岩にかくれて、色々と悪さしたもんなのよ……。念のため、この辺りからは注意していきましょ……』



 ウイスカが低く言う。首の長ーい、としま・・・あざらしである。



『どうする、ナノカちゃん。一応陣形をつくるかあ?』



 灰色の頭全体にごま斑が散って、ひょう・・・柄に見える派手な見た目のルルナおばちゃんが、声高に言った。



『そうしよう、あたしが先にゆく。ヨウカや、お前はバーべお婆ちゃんと一緒においで』



 赤ん坊あざらしは巨大な母のそばを離れ、ひげの長いしわしわ老あざらしの近くに寄った。



『ゼール、あんたは風が聞けるのでしょ。舟の進み方に合わせるから、言ってちょうだい』


「わかった! ……ちょい後で、追い風がくるよ」



 黒い小舟の先にナノカ、左舷脇にハムアとバーべ、赤ん坊、右舷脇にウイスカとルルナ。



「二人も漕ぐ?」



 言われて、すぐにブランは立ち上がった。ベッカもどきどきしているが、立ち上がってごついかいを握る。市職員なりに、がんばるつもりである! これまでゼールや、ギーオがやっていた動作を、見よう見まねで試してみた。


 左前のブラン、右中央のベッカ。



「前から後ろに、へらでお粥よせる感じでねー。げえっ、ベッカさん、まじでいいすじッ」



 たとえの表現が適切だと、ものごと色々うまく行きやすいのである。


 しばらく後、右方向に小さな島嶼部がかなり迫ってきたあたりで、ゼールは二人に漕ぎ方やめ、とどなった。



「追い風くるよー! つかまって、……そーれー!!」



 ぎゅうんと速度がはやくなる! 小さな帆いっぱいに風をはらんで、舟はものすごい勢いで水上をすべり始めた。



「ぬううっ、すごいッ」



 ベッカの頬のおにくが、後方へびんびん引っぱられる!


 ひょろーい腕が伸びてきて、救命胴衣で二割増になっている、ベッカのまるい肩にふれた。



「何だい、ブラン君?」



 ブランは、七三分け目のなくなった栗金髪を総立ちにさせて、何やら口ぱくである。進む速度がすさまじ過ぎて、何を言っているのかわからない! 指さす方向の陸地をふり返って、はっとベッカは理解した。


 じぐざぐと入り組んだ海岸の一画、深緑色の森を後ろに、高台になった丘地がある。


 呪われていた集落と同じく、ごろりと岩肌が白くのぞくその地に、あきらかな村の死骸が横たわっていた。


 長年の風雨に洗われて、あたかも白骨のようになった、野ざらしの石組み壁の崩れかけ。


 ほとんど基盤しか残っていないらしい、……けれどそのかなしいむくろは、確かにそこに在った。かつてそこに人びとが生きて暮らしていたことを証明しようと、無言で泣き叫んでいた。



――ここは、ネメズの集落跡だ!



 先ほど見た地図、そこに記した位置とも一致する。ガーティンローで終わってしまったレグリのいのちは、ここで始まったのだ……こんな遠くで!


 ベッカは外套の中に手を差し入れ、革鞄の表面に触れた。レグリのてがらを入れたところ、なめらかな高級豚革を通して……なにかが、何かの気持ち・・・が弾けたのがわかった。




 一瞬のことである。


 ベッカの周囲から音が、風が消えた。前進する舟は海上にぴたりと停止し、静寂がひろがる。



――えっ?



 ベッカは身動きできず、ただ指先に鞄の中の“熱”を感じている。



♪ 波に抱かれ ねむるあなた


♪ 永遠に生きる あなたはここ



 その歌声がどこから来てベッカの耳に入ったのか、彼には見当もつかなかった。


 知らない女の声が高らかに紡ぐその歌は、イリー語ではない。潮野方言ともちがうようだった。


 それなのに、ベッカにはなぜだか意味が理解できた。



♪ わたしの中の 海にいる


♪ わたしとともに あなたは在る



 明緑色の空とはなだ色の海のあいだに佇む、亡き白い故郷――


 そこに向かって何かが、誰かが見えない手をのばす。




 ……ひたすら優しい感覚だった。


 ふうっと風が、……音が戻ってくる。ずざー!


 ベッカは目をしばたたかせ、左後方へと過ぎ去るネメズの集落跡を見た。



「もうひと吹き、来るー! ベッカさん、ブラン、つかまってー!」



 ゼールの大声に、はっとして舟べりをつかむ。……今のは、一体?


 怪異とするにはあまりに短く、あまりにやさしい一瞬だった。


 そして、思い返すひまはなかった。追い風にぐいぐい押されて、小舟は鳥より速く、南の海をひた走る。


 あっという間にレグリのふるさとは見えなくなり、ベッカの指先に不思議なあたたかさだけが残った。





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