あざらし女側の話と驚愕の新事実
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海は完全に凪いで、静かだった。
ななめに海面に入れ込んだ岩棚の上、あざらしに言われる通りに小舟を乗り上げて、いま三人はナノカの前に立っている。
「ベッカ・ナ・フリガンと申します。あなたの旦那さま、ロクリン・ナ・ケルド侯と同郷のものです」
『ふうん。そんなとこだろうと思ったわ。あいつと似た服、着てるのね』
「ええ。これはガーティンロー騎士団の外套なんです。僕は本当に偶然、こちらへやって来たのですが……たまたま、ロクリンさんの危機にゆき当たりました。あの人が今、生死の境目にいることをご存知ですか?」
『……』
雌あざらしは、ふいと顔を横にむけた。表情は見てとれない、……と言うかあざらしの表情はそもそも人間と同じなのだろうか。
「ロクリンさんはあなたを失った絶望から、いま死にかけているんです。気を失うまで海に入って、あなたを呼んでいる。……どうでしょう? あの人のもとへ帰っていただくわけには、行きませんか」
『嫌よ。あのひと、きらいになったの』
きっぱりと、低く静かに言ったあざらしは、紛れもなく女だった。
「……そこまでおっしゃるからには、何かよっぽどのことがあったのでしょう?」
全然押しつけがましくない市職員の声は、あざらしの耳(? どこだ)にも和らかかったのだろう。
『そうなの、聞いて!』
むしろ食いついてきた。
『はじめは、本当にすてきだったんだから! どんなおさかなを持って行っても、おいしいって食べてくれたし、とってもとっても優しかった。それなのに、だんだん白身の方がいいとかあぶりたいとか、煮たり焼いたりしようとか、細かく言い出すようになってね!?』
――なまで、食べてたのかーッッッ。
あざらしの言葉から判明したそっちの事実の方に、魚介の生食習慣のないイリー人三名は震撼した。
「それは実に、おつらかったでしょうね!?」
――ロクリンさんが!!
心の中だけで、ベッカは付け加えた。
『そうよ! でも細かいことはまあ、我慢できたの。どうにもならなかったのは、“げんちづま”だったってことよッッ』
「……?」
三人の目が点になる。
ふぁッ! 気づいてベッカの顔が揺れたった、ぷよん!
「現地妻ぁッッ!? どういうことなんですか、それはッッ」
「それどういう意味なの、ベッカさん」
純真無垢なる十四歳の海の子ゼールが、きょとんと聞いた。
「えーと、君らには後で説明しますッ。ナノカさん、ロクリンさんがそう言ったのですかぁッッ」
『言わなかったら、あたしみたいな大海原の可憐な妖精が、そんないやらしい言葉知ってるわけがないじゃないの! ロクリンには、ふるさとに残してきた奥さんがいるのよ! それなのにあたしとこうなって! こどもが生まれてから聞かされたのよ、ふざけるなと言いたいわッ』
何と言う新情報! ベッカは口を四角く開けかけ、すんでのところで止める! ぷよ!
「……何かのまちがい、思い違いということも……」
「ベッカさんっ」
横から、ひょろっとブランが囁いた。
「あざらし母ちゃんの言ってること、たぶん本当です。勘ちがいとかでなく」
「……は? なんでわかるの?」
「大兄ちゃんのよしみで、うちのお母さんがロクリンさんにお見合い話もってったこと、思い出しました」
ぎゅううううー!!
声にならない音が、ベッカの喉奥からもれ出た。
『ロクリンは謝ってきた。それでこのまんま君を“げんちづま”にしたくないから、一度くにに帰って、離縁をしてもどってこようかと言ったの。けれど、彼のこころがそんな風に幾重にも女を想えるってことがわかって、あたしの心はもう冷たくなったわ。あのひとへの恋が、死んじゃったの』
「ナノカさん……」
『ベッカ・ナ・フリガン。あなたは、何人の女を想える?』
「そりゃもう一人こっきりですけどッッ?」
ここは自信をもってぷよ・きりっと言い切った。瞬時、脳裏にうかぶ青きくびれが、彼に力をあたえる!!
『……そう。そういうあなたになら、教えたげよう。あたしたちあざらし女の種族はね、一生のうちに一回しか、ひとりの男しか想えないのよ』
大きな黒い瞳が、ぐうんと丸く、さらに大きくなったように見えた。
ひげがふるふる、左右でふるえている。
『だから、そのたった一つの恋が心のうちで死んじゃったら、もう終わり。もともと同じ世界に住めない人間の男とは、別れて離れて生きるしかない』
「……ロクリンさんは、あなたを唯一のひとと想ったからこそ、ふるさとと訣別する覚悟を決めたんです。騎士の地位も過去もすてて、あなたのためだけにここで生きたいとも言ってるんですよ」
やましい部分を話さなかったロクリンへの好感度はぶち下がり、しかしどうにかこうにか、ベッカは冷静に語りかけた。
「他の人にはできなくても、ロクリンさんになら、もう一度恋ができるのではないですか?」
『だめ』
ナノカはふるふる、ひげごと頭を振った。
『もう恋はできない。もとには、もどれない』




