あざらし女ナノカ、ついにあらわる
ゼールが示した陽当たり良好の岩礁は、いくつかの大岩の集まりだった。
陸側の一番大きな岩が平べったく傾いていて、あざらしが横たわるにはおあつらえ向きの物件である!
見たところ誰も何もいないが、それでもベッカは声を張り上げて叫んだ。
「ナノカさーん! ガーティンロー市庁舎の、ベッカと申しまーす! ちょーっとだけお時間、いただけませんでしょうかぁーッッ」
「ロクリンさんの、奥さーん」
「出てきてくださーい」
少年二人も、呼び続ける。
「……あっ?」
船尾のゼールが、ふと気づいた。海面にさし入れた櫂に、こつんと何かの感触があって、見下ろすと小さな頭が水面に浮く。
「あー! あざらし赤ちゃんだ」
まるきり無警戒で、ゼールは破顔した。
「かっわいいなあ! まだ白っぽい」
「えー、どこどこ」
「うわ本当、小っさいなあ」
ぷよひょろ両人も、無防備に目を細める。
櫂のまわりをゆるゆる泳いで、その仔あざらしはどうもゼールに興味を持っているらしい。
「ゼール君、子どものきげん取り名人なんでしょ。何か歌ってあげたら?」
「えー、あざらしに聞く耳あるのかな……」
「これだけ笑ってる顔なんだよ、歌っておやりよ」
「うーんと……じゃあ」
♪ ゆきよのぷうか だいじにされる
♪ ゆたんぽ あかんぼ ばあさまぬくい
ほんとに良い声なのである。
明るい陽光そのものみたいな、透き通る少年の声に、仔あざらしはくるくる黒い瞳を輝かして喜んでいる。
ぱやっと生えた頬ひげをふるわせて、さらに笑顔になった(と、ベッカには見えた)。
♪ ひとくり ふたくり くりみっつ
♪ らんらんらららん たまごのこ……
『ちょっとー!!』
その素敵な節おわりに、しょっぱ辛い大人の女性の声が割って入った。
『何してんのよ! あんたたちーッ』
ぎくり! として、三人は顔を上げた。
すぐ目の前に迫った、平たい岩棚の上に、強烈な存在感を放つ灰色の巨大なけものがそびえていた。
『うちの子に、かまわないでちょうだいッ』
……小山みたいにもりもりした身体、ぐわあと威嚇してくる口の中にするどくおっかない歯、ぎらぎら嫌悪感を燃やしているでっかい黒目!!
どこからどう見ても成獣のあざらしが、小舟の上の三人に向かって怒鳴りつけて来るのである。……人語で!!
びとっ! すすす……!
ベッカの左右両脇に、少年二人は寄り添った。ブランはかろうじて前である。
「怒ってるよう」
ゼールはびびっている、囁き声に恐怖がにじんだ。
「ことば話してるしッ……何あれ!?」
一方のブランは無言だ。びきびきした彼の闘気が、背中からベッカにも伝わってくる。
彼が手にした花束を座台の上に置き、背に引っかけた中弓を降ろそうとしているのを見て、ベッカは慌ててブランの右腕をつかんだ。
「どうーも!! ナノカさんで、いらっしゃいますかぁー!?」
ひるまない、市職員の落ち着きぐあい!
『だったら何だっつうのよ、おでぶぅうううッッッ』
語尾はうおおおおんと獣の咆哮である、空気がびりびり震えるくらいのど迫力!
「うそだろぉぉッッ! あんなおっかないのが、ロクリンさんの奥さん!?」
ゼールは完全に、ベッカの厚い体の後ろにまわってしまった。
怯えきるゼールとは反対に、ベッカはきらりと活路を見出す。ぷよっ……口角を片方あげる、まじめな市職員なりに脈ありの読み!
――でぶと呼び捨てず、おでぶと言うからには! このひととは、話ができるッ。
他人には全然わからない基準だ、しかしとにかくベッカは自信を持って、大声を放った。
「これを、あなたに! ちょーっっとお話、うかがえますかッ」
ブランの腕ごと、花束をかざしてみせる。
…… ぴくっ!
巨大な雌あざらしは、吼えかけてとどまった。目をぱちぱち、しばたたかせている。
「あっ、そうだ……。ね、お母ちゃんに、もっていってくれるかい」
ブランがはっとして、いまだ小舟の横に浮いている仔あざらしに花束を差し出す。
赤ん坊は、あーんと口を開けた。そこに束の茎部分をくわえさせてやると、ゆるゆる泳いで母親のいる岩の方へ行く。
じゃぼん、上陸してぺたぺたよちよち這ってゆくと、母のてまえに花を置いた。
巨大あざらしは、頭をさげてふんと花の匂いを嗅いだらしい。……そのまま、もしゃっと口にした。
もしゃもしゃ……もしゃ……もしゃ……そしゃく……。
ブランとベッカ、ゼールは無言、動けずにいる。
ごくり、と飲み込む音がした。
『甘いものを持ってきてくれるなんて、気が利いてるじゃないの』
ずうっとやさしい口調になった。
『何の話がしたいの?』
長いひげ付きの顔を、ふいとしゃくる。
『……そこ、岩棚がのびているから、舟をのりつけられるわよ。あがってきたら』




