ぷよひょろ・海の子、あざらし女を探す
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「……だからって。こんな暗い中、行く必要あるの……?」
かなり機嫌の悪い声で、ゼールがこぼした。
「ブラン、もっと強くこいでよ」
「だって相手は精霊じゃないか。昼間に行って、会ってくれるわけないだろ」
小舟の反対側で櫂をあやつりつつ、ブランが反論する。
「そんなの、精霊の好きずきによるんじゃないかなー……。今は誰でも寝てる時間だよ、風だってねてるよ」
ふあー……。
ゼールのあくびを聞き流し、舳先に立って、ベッカは闇の海を見まわしている。ひもの屋子息が言うとおり風がない、黒々とした海面は凪いでいた。
暗闇の中で、ベッカが両手に抱え込んでいる吊り燭台の灯りだけが、強くあかく輝いている。
三人をのせた小舟は、湾の奥まった部分、岩城の近くをゆっくり進んで行く。
「ナノカさーん! いらっしゃいませんかー!」
もう何度めだか、ベッカは暗い海に向かって呼びかけた。
「ご主人のことで、お話がありまーす!」
ベッカの声はよく通るのに、それに応じるものは何もなかった。
「……やはり、だめかな。明日また、来よう……」
ぷよん、とベッカは頭を振った。
赤い光に照らされた横顔が、ブランの目に入る。ファダンの集落で石を投げられた後と同じ顔、全くこたえちゃいない平静なベッカの顔。あきらめない市職員の表情だった。
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いちど帰って、エメイの家で寝直す。
夏の朝は早い。かたい床に外套だけで寝たブランは、あんまり眠った気もしなかったけれど、それより何よりお腹が空いているのである。
お婆さんのお粥は、例のうみごけでふるふるしていた。壺の中からさじで落としてくれたのは、野いばらの蜜煮。たぶん彼女の“とっておき”なのだ。祖父のところで食べ慣れているから、ブランはよけいにうまいと思う。
ロクリンもほんの少しだけ食べて、また眠ってしまった。いまだに青白いままの顔。
ギーオと老女がそばについていることになった。また、乱心して海に入られてはたまらない。
ベッカはブランとゼールを連れて、波止場に向かう。
「ところで、エメイさんは?」
「今朝早くから村の人たちと、みれし草の花を採りに行ったよ。いま摘んで乾かさないと、染料にする分が足りなくなるからな……。エメイさんが帰って来たら、交代で俺も採りに行くかな」
戸口で見送りながら、ギーオが言った。
たしかに、岩肌ののぞく地べたを割って、淡い赤紫の多弁花が咲きあふれている箇所がある。
海へ通じる小径わきにも、ところどころに密集していた。
「……ブラン君。これ、摘んでいこう」
言って路傍にしゃがみ込むベッカに、ブランは無言で従う。ゼールが不思議そうに二人を見た。
「どうするの?」
「女性に、お腹を割った話をしてもらいに行くんだ。手ぶらで行くより、ずうっと印象が良くなるからね」
「ああ、そうか! うちのお父さんが、お母さんとけんかした後によく使う手だ!」
海の少年もその辺にしゃがんで、みれしの花をぶちぶち摘み始める。
こんもり丸く出来上がった、赤い野の花束をブランが持ち、一行の小舟は明けきった日の下を、湾奥の岩城に向かって進んで行った。
「ナノカさーん! ロクリンさんの奥さーん!」
ベッカは何度も、声を張り上げる。
ぐうーん!
やや大きな波が、小舟をどついた。
「ぬうッッ」
よろめいて舟べりにつかまったけれど、ベッカはもう慣れてしまっている。しょうがなしでも大丈夫だった。
「おおっ、良い感じに陽がさしてきたね!?」
本当だ、低い白雲をかきわけて、金色の陽光がうすい青色の空にたゆたう。
「何で、いい感じなんですかー?」
「だってブラン君、相手は“あざらし女”じゃないか。あざらしなら岩の上で、日向ぼっこがしたいに決まっているよッ」
「そうかー!」
なんか夜中に言ってたこととだいぶ違うなと思いつつ、ゼールは縦帆の綱を繰っている。
「にしても、ベッカさん! その“あざらし女”って、全然わけわかんないです! あざらしなのか、女の人なのか。……めすのあざらしってわけじゃないんでしょ?」
「うーん。僕の読んだ資料にも全く載っていなかったから、エメイさんの話しか参考にできないんだけどね。たぶん、人間の姿をしたあざらしなんだろう!」
でなきゃ、ロクリンがあそこまで恋まみれになるわけがないのである。
「どっちみち、精霊なんだよね? 姿を変えたり、消したりとかできるのかなあ……?」
「ゼール君は、みえる方なんでしょ? 頼りにしてるから、何とか見つけてよ」
「うえーっ、自信ないよ、そんなの」
言ってる間に、昨晩やって来た岩城の辺りへ来る。海に乗り出した大きな黒い岩礁の周辺には、たくさんの窪みがあるらしかった。
――人の住めるところじゃない……。ロクリンさん、どうやって暮らしていたんだろう?
「ねえ、ベッカさん。ちょっと沖の方にある、あっちの岩礁、まわってみようか?」
ゼールの声に、ベッカは顔を向ける。
「あっちの方が、平べったい足場が多いみたいだし、陽当たり良さそうだよ。それこそあざらし向けには、居心地良いんじゃない?」
「おや、本当だね! 行ってみよう」




