ガーティンロー正規騎士、ロクリン・ナ・ケルド
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夏の日が暮れようとしていた。
じきに夏至がくると言うのに、ここの土地はなんてひゃっこいんだ、とブランは思う。
だいだい色に染まる空の下、ひゅうんと涼しすぎる風が通り抜ける。七三分けがなぶられて、ばらばらのぼさぼさになっていた。じっと見つめる先に、どんどん濃くなる紺色の海。きれいなのに、かなしい景色。何にもないところだ……。
ブランは扉をくぐって、エメイ老人の家の中に入る。舟で一緒にやってきた人たちは、ギーオさん以外、磯織りの集落に戻っていった。明日また来ると言う。
「……呪われた集落と言っても、皆が避けるというわけではないのですね」
相変わらず吊り燭台を抱えたままで、ベッカはギーオと話していた。二人はロクリンの側にずっとついている、いつ彼が目を覚ましてもいいように。
「そうだね。この村の人と話したり、仲良くなったからって、すぐに精霊に取りつかれるわけでないのは、皆わかってるからな。特に俺たちはここの花々を染料に使うから、お互い助け合ってみんな友達みたいなものなんだ。昔から、東部はどこもそんな感じだったんだよ」
「いつもこうやって、火を持ち歩いて訪ねるんですね?」
「そう。闇を照らす、俺たちの太母さまの熱だよ。悪い精霊にその行いをかえりみさせ、ひと捕って喰う気を失わせると言われてるから、ここに来る時はいつも持ってくる」
老女がうすい杣粥を作った。それを皆で分けたべて、やがて夜が濃く満ちる。
元気にうろちょろしていた赤ん坊は、食べた後に盛大なお通じをもよおし、きれいにしてもらった後に舟をこぎ始めた。ゼールが部屋の隅で抱えている。
「俺、赤んぼのきげん取り名人で、寝かしつけ達人なんだ」
端正な顔をどやっとさせて、ひもの屋子息は言う。妹の世話でならしているらしい。
確かに、彼の口ずさむ子守唄には、なにかがあった……。知らず知らずのうちに、ベッカもブランも腰掛に座したまま、ロクリンの寝台足もと近くに顔を突っ伏して、……ぐうすか寝ていた。
ひゅうう……風の音がする。
「ベッカさん」
かすかに肩を揺さぶられ、ベッカはぷよんと顔を上げる。炉の火が燃え続けているが周りは暗い、……夜更けだろうか?
「ロクリンさんが呼んでるみたい」
隣から、ブランがそうっと囁いてくる。はっとして上半身を起こし見回すと、ギーオも老夫婦も赤ん坊を抱いたゼールも、毛布にくるまってその辺の床に丸くなっている。
寝台の中に横たわる男だけが双眸をひらいて、覚めていた。
穏やかな表情、……人間の顔。海の中で見かけた、けものじみたところは消え失せていた。
「……具合はいかがですか」
そうっと枕元へ近寄り、ベッカは囁きかけてみる。
「あまり芳しくありません。大変みぐるしいところを、お目にかけました」
かすれ声が応えた。弱々しいがしっかりした物言い、正イリー語である。
「ガーティンロー市庁舎勤務の文官、ベッカ・ナ・フリガンです。調査出張でファダンとオーランに来ましたが、なりゆきで東部にたどり着いてしまいました。何か、お手伝いできることはありませんか」
「……調査? 市職員の……文官の貴侯が、こんな所まで……??」
だいぶ驚いたらしい。少し目を丸くしたが、男はすぐに真顔になって言った。
「……失礼しました。私はロクリン・ナ・ケルドです。ガーネラ侯直命の任務遂行のため、ここに来……」
男は苦し気に顔をゆがめ、言葉の終わりを飲み込む。
「急がなくっていいんです。大丈夫ですか」
「……寒くて……」
これだけ毛布に巻かれても、男はやはり青ざめている。
「そうだ、お白湯をどうです? ケルド侯。体の内から温まるかもしれない」
小さくうなづいた男の上半身を、ベッカはぷよっと支え起こす、……やせてやつれてはいるものの、上背のある人である。ブランが炉の鉄鍋から、杯に白湯を注いで持ってきた。
両手でそれを受け取り、飲み、……男はほうっと息を吐いた。
もつれにもつれた長い髪の中から見てくる視線が、ベッカの外套の上に、そして水晶飾りの上をそよぐ。男を安心させるため、今は本来の表地、深い臙脂色を上にして着ているベッカである。
「……私の外套は、その辺にありませんでしたよね」
「海の中、何もまとわず泳いでらっしゃいました」
「……どこへやったのだろう。自宅のほうに置いてきたとは思うけれども、……それももう思い出せない……。ああ、何てことになってしまったんだ、私は」
ひどく衰えた容貌ではあるが、男はまだ若かった。ベッカより半回りくらい上だろうか。面識はないし、名にも聞き覚えはない。軍属の中でも主要職にある騎士の名は、ベッカも一通り知っているはずなのだ。それがないと言うことは……。表に出てこない部門、“外局”配属かと見当をつけた。
「ケルド侯、恐らく僕はあなたの後任者です。侯は精霊使いを探すべく、ガーネラ侯に東部へ派遣されたのではないですか?」
男は目をみはって、ベッカを見つめた。警戒心、……けれどいかんせん、力が入らないらしい。
「僕は今年に入って、文献方面からそれを調査するよう任じられました。その裏付けとしてファダンへ実地調査に来たのですが、ついでに細かい情報収集をしていた所、たまたまここへ来てしまったのです。あ、ちなみにこちらは僕の護衛をしてくれている、準騎士のブラン・ナ・キーン君です」
「……キーン侯の?」
かるく会釈をしたブランを見て、ロクリンは本当の笑顔になった。
「……大きくなったね! 君のお兄さんと同期だったんだ。家に遊びに行ったんだよ……憶えていないかなぁ。小っちゃかったものね」
ロクリン・ナ・ケルドはようやく人間らしくなってきた。どうも照れているらしいブランを前に、懐かしさで顔がほころんでいる。
「あの」
ひょろでかい少年は、思い切ったように言った。
「ベッカさんは、色んな問題をねばって調べて、解決するんです。あなたが呪われちゃったのも、たぶん助けてもらえると思います。なので何があったのか、詳しく話してくれませんか」
「……」
少しだけ生気の戻った顔を再びかなしく翳らせて、それでもロクリン・ナ・ケルドはうなづいた。




