エメイ老人のかなしき話
「……私はここで生まれましたが、長らく北部で農奴として使われてきました。ごく幼い時に、私は父に連れられてこの集落を出て……、そのまま知らずに、向こうの豪族のものになってしまったのです。妻は内陸部の出身で、向こうで知り合いました」
エメイ老人は、ゆっくり話しだした。
「十年ほど前に、近しい農奴仲間に誘われて脱出をこころみたのです。けれど外の世界のことは、もう何もかもわからなくて……。それで、一緒に逃げてきた者どうし何人かで、テルポシエ領とファダン領の境あたりをうろついていました。けれどある時、賊のようなのにつかまって、殺されかけたんです」
「その時ロクリンさんが、助けて下さいました」
赤ん坊におもちゃを触らせながら、老女が言う。
「ロクリンさんは、本当に強かったのよ。敵は何人もいたのに、馬の上から鞘入りの長剣をぶんぶん回して、こてんぱんにやっつけちゃった」
低く語る声にほんの少し、嬉しさ誇らしさがにじんでいた。エメイ老人が話を継ぐ。
「……それで私たち皆、この人を好きになったんです。たくさん話をして、この後どうしたいのと聞かれました。私が思い切って、妻を連れて故郷に帰りたいと打ち明けましたら、……自分も東に行くつもりだから、一緒に行こうと」
ベッカはうなづく。
「それは、いつ頃のことでした?」
穏やかな問い方に、老人は動揺せず答える。
「二年前です。テルポシエの北側辺境にある湖沼地帯を抜けて、内陸の方から東部に入りました。“緑の首環道”は荒れ果てていましたけれど、何とか見分けはついたので、そこをたどってきたのです」
「たいへんな旅でしたね。長い道のりを、ロクリンさんとご夫婦は、一緒に歩いて来たんですね」
「はい。途中、何度も危ない目に遭いましたが、そのたびにロクリンさんが守ってくれたのです。ここにたどり着いた時、私たちはもう、心底この人を最惜しく思うようになっていた」
エメイ老人は、背後の寝台に横たわる男を、ふっと見た。
「……ロクリンさんはしばらく私たちと暮らして、東部のことを色々と知りたい、と言いました。着いた時、ここには十人ほどの年配男性が、ぽつぽつ住んでいるだけだったのですが。ロクリンさんは皆とお喋りをして、すぐに仲良くなったんです」
灰白ひげに包まれた老人の口元が、微笑んだ。
「子どもの頃に暮らしただけの私より、よっぽど早くここの村になじんだかもしれない。特に、不思議な話や昔からの言い伝えを、ずっと住んでいる堅物じいさまによくせがんでいました……」
――精霊使いの話、とか?
ベッカは内心思うところがあるが、……顔には出さず、ひたすらうなづいている。ぷよん。
「それで、時たま探検してくるよと言って、何日か家をあけることも多かったんです。強い人だから、私たちは心配しませんでした。けれどある時、……ものすごく嬉しそうに言いました。とっても好いひとをみつけた、この先の村に住んでいる女性で、近く一緒になりたいと。もちろん私たちは祝福しました。ロクリンさんがだんだんその人の所で長く過ごすようになっても、やっぱり良いことなんだと思っていたんです。……」
うわん、あーん。
ぐずり始めた赤ん坊を抱き上げて、老女は外へ出て行った。
「そうして今年の春、嵐の晩にロクリンさんはやってきた。ほんとうの本当に、久し振りでした。……扉口に立った人が誰なのか、はじめ私にはわかりませんでした。そのくらいひどくやつれて……、ロクリンさんは全身ずぶ濡れで、……あの子を抱いて立っていたのです」
「……赤ちゃんは、ロクリンさんのお子さんなのですね」
エメイ老人はうなづく。
ロクリンは何も話さないままその場にへたり込み、数日間眠り続けたと言う。嵐の中を抱えてきた赤ん坊は、ずぶ濡れだったにもかかわらず、まるまるして元気に粥をたべた。
ようやく目覚めてからも、一体何があったのか、ロクリンは語らず哀しげに首を振るばかり。やがて、とぼとぼと出て行ってしまう。
そんなことが、幾度か繰り返された。そうして最近、彼は老夫婦のもとにやって来ると、赤ん坊を二人に預け、海に入ってしまうようになった。
入水ではない、なにかを……誰かを探してひたすら、岩場周辺を泳ぎもぐる。老人たちの知らない名前を悲痛に呼ぶ声が、岸辺にいる彼らの元にも届いた。いつまでもいつまでも、海の中にいる。
わび住まいをしている集落の男たちが、舟を出してようやく引きあげ、やがてその場に居合わせた磯織り集落のギーオたちも引きあげるようになる。そんなことが続いていた日々なのだった。
「……ロクリンさんは以前、俺たちのところにも時々やってきた。海路オーランへ磯織りを売りに行くことを思いついて、すすめてくれたのもロクリンさんだ。どうにか、助かって欲しい。このまんまじゃ、丘の向こうへ行っちまう」
ギーオが低く、口を挟んだ。染め材料となる花の密集地があるため、磯織り集落とこのまずしい集落とは、深いつながりがあるという。いつ絶えてもおかしくないような儚い庵の集まりに、新しくやってきた朗らかな男。イリー人なのに、東部の人びとの話に熱心に耳を傾けるロクリンは、どちらの集落でも好かれているようだった。
「……エメイさんは、ロクリンさんの奥さんを、ご存知なのですか?」
うあああああん!
家の外で、かなしげに長く泣く赤ん坊の声がする。
ゼールが立ち上がり、すいっと静かに出て行った。
「誰も知らないのです。……いえ、」
老人は下を向いて、むせんだ。
「……私の母と同じ。海の女なのです」
老人は脇の寝台の中で眠る男の髪を、そっとなでた。




