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海獣になりかけた男

 

「止まれ、ゼール」



 ギーオがふいに声をあげた。


 前を進んでいたもう一艘の舟の後ろの方で、男性が大きくこちらに手を振っている。


 陸地側にごわごわした黒い岩が連なる辺り、小さく突き出た波止場が見えてきていたのだが、先導舟は岩場の方に向かって行く。



「あーあ、また海に入っちまって」



 かいを握りしめて、ギーオは岩場の先、緑色にたゆたう海面を見つめた。



「あそこにいるの、わかるかい? あの人なんだ」



 ベッカとブランは、ギーオの指が示す方向を視線でたぐる。水面をやぶってにゅうと丸く出た、ひとの頭を見つけた。


 ギーオはゆっくり櫂を扱いながら、近づいてゆく。



「おーいっ! ロクリンさーん!」



 ベッカが見ていると、頭はまた、たぷんと水面下にもぐってしまう。


 自身浮けるが泳げないベッカは、ぞぞっとした。ギーオは構わず、向かってゆく。



「ロクリンさーん! 話のわかる人を、連れてきたよーッ。ガーティンローのお人だよ、出てきてくれーッ」



 もう一艘の舟からも、男たちが同様に呼びかけて、頭がまた海の下からにゅうと出た。


 べたっと貼りついた長い髪の下から、目玉らしきものがぐるんと光ってこちらを見る。


 ベッカはさらに、ぞぞぞとした。人間でないものを見ている気がした……あざらしとか。


 それでも吊り下げ燭台を抱いたまま、そろっと立って舟べりに寄ってみる。ブランは気を利かして、反対側のへりに寄った。



「ベッカと申しまーす。陸にあがって下さい、お話をしましょうー!」



 ガーティンロー的、市職員的な調子の正イリー語にて、呼びかけてみた。


 海獣のようなその双眸がこちらを向く。未知のものを脅威すなわち敵とみなす野性の視線、……それがふうっ、と人肌の温度をかぶったようだった。



「……侯?」



 そのひと言は、ゼールの耳にだけ届いた。


 ベッカには聞こえなかった、しかし彼の目には海獣になりかけているその男の唇が、“侯”の形にゆがめられたのが、はっきり見えた。


 そこで叫んだ。


 外套胸元をまくり上げて、叙勲章の水晶飾りが見えるようにする。



「ガーティンロー市庁舎総務課勤務、文官のベッカ・ナ・フリガンです! こちらへ来て、上がっていただけますか!? 侯ッ」



 その声に吸い寄せられるように、頭を水上に出したまま、男はするすると小舟に泳ぎ寄ってきた。


 ベッカは慌てて燭台を座台の上に置き、両手をさしのべる。びしょ濡れの男はベッカとギーオに左右から引き上げられて、ずるりぺたん、と小舟の床の上にのびた。裸だった。



「ゼール坊! 毛布、毛布おくれッ」



 その毛布にくるまれても、男は動かない。かなしげな顔は真っ青にやつれて、ひげも髪も伸び放題である。目を閉じて、ほとんど眠りかけているようだ。



「ベッカさん。このひと……」



 氷のように冷えた身体がせめて温まらないか、と男の背を毛布の上からさすりながら、ブランが言った。


 なめらか眉間にぐっとしわを寄せ、ベッカは低く囁き返す。



「そうだね。この人は、ガーティンロー騎士だ」




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