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過去の超難題「麗しの黒百合亭」事件について

 

 海面をすべるようにして進んで行く、小舟の中。


 心の内で、ベッカは激しく自問していた。



――呪われた集落……。ファダンで二番目に訪れた東部流入民集落オレンゼで、病気のおじさんが出身地と言っていたところと同じなのだろうか? ……ってさっき、おばさん達に地図を見せた時にちらっとしるしを確認したっけ……だいたい同じ位置だった気が……する……。



 何がどう呪われているのか……ベッカはオレンゼで聞いた話を思い返そうとした。



――確か……、そう、お母さんが子どもと、その父親をすてて出て行ってしまうという。何だそれ? 必ず夫婦不和になる呪いなんて、あるの? おじさんはエノもそこ出身とか言っていたな。その辺はたぶん、本当じゃない。それにしたって、何だってまたそんなところに、ガーティンローの人が住んでいるんだ……?



 黙りこくったベッカを見て、不安になったと思ったゼールが、船尾の方から言ってよこす。



「ベッカさん。ここの人たちはね、火が皆を守ってくれるって、信じているんだ」


「……火……?」


「さっきおばさんも、あの集落のこと話す時に、炉の近くに寄ったでしょ。ああやって火を側に置いておけば、悪い精霊とか呪いが近寄って来ないんだって」


「ああ、だからこの吊り下げ燭台を?」


「そうそう」



 確かに、火は大切な存在だ。


 身体を温め、食べものをつくり出し、さらに光をうみ出して周囲を照らす火は、どこのイリーの家でも中心に据えられている。しかし火が悪霊や呪いよけになる、という話は初めて聞いたような気がした。



――まあ、異郷に入ってはその地の律に従え、と言うわけで……。炎さま、厄介ごとからどうか我々をお守りくださーい……。黒羽の女神さまも、今ここ領域外でしょうが、どうぞひとつよろしくお願いしまーす……。



 ベッカは膝の上の吊り下げ燭台を、ぷよん・きゅうと左手に抱きしめて、同時に右手を外套胸元に差し込む。叙勲章の脇部分に刺繍されている、ぶったがいの二本黒羽の意匠に触れた。


 言うまでもなく、これはイリー守護神・黒羽の女神の象徴である。


 市庁舎で、めんどうさ特大級の相談に入る前、彼がいつもやる動作だった。



――いやー……大丈夫、だいじょうぶ。去年のレグリさんの事件と、それに次ぐ“麗しの黒百合亭”の相談以上に面倒な案件は、そうそうないはずだよ!



 どちらも、ベッカの評価を高めた事件であった。


 二つ目のは、べつに死人が出たわけではない。だがベッカにとっては人災であった。


 “うるわしの黒百合くろゆり亭”は、陥落後にテルポシエから移転してきた高級料理店である。もともと貴族向けの店だったが、中心客層が全員抹殺と追放でいなくなってしまったために立ちゆきならなくなり、富裕層のかたい・・・ガーティンローで再起をかけた。なかなか評判は良く、順調に売り上げを伸ばしているらしかったが、再三の勧告にもかかわらず、店主一家が市民登録をしないのである。



「ここに住んで生計をたてるからには、ガーティンロー市民となっていただかなければ困るのです」



 同僚たちに泣きつかれ、とうとうベッカが出ていって事情をきき、説得することになった。それでも、市税はおさめますからと言うばかりでらちが明かない。


 何度も足を運んだ末、ようやく店主の奥さんが重い口を開いた。



「次男が、包囲戦で行方不明になったままなのです。生きていることは人から伝え聞いて知っておりますが、……。どこぞの荒野にわび住まいをして隠れているあの子を置いて、わたしども三人だけがガーティンロー市民になるわけには参りません」



 ううう、と泣き出す奥さんの左横、次期店主と言う息子の料理人は、しぶい顔つきで腕組みをしたまま何も言わない。店主はおろおろと、右脇から奥さんの背に手を添える。



「……では、市民籍は移って来た時のそのまんま、なのですか?」


「何も手を付けておりません」



 移転先の住所だけ伝えてきたから、引っ越して数年たってもいまだにテルポシエから市民税の請求が届く。全部払っているという。ベッカはその控えを見せてもらった。



「あれっ? これ……。市民税は三人分になっていますけどね?」


「えっ」


「旦那さん奥さまと、ご長男の三名分ですよ。次男さんの分がない」


「……」



 どうしてその辺を見落とせるのだろうか……。


 何を聞いてもさっぱり要領を得ない店主夫妻にしびれを切らして、とうとうベッカはテルポシエ市民会館へ、直接問い合わせのたよりを書いた。結果、“麗しの黒百合亭”次男はすでに個人別世帯へと切り離された状態で行方不明者届が提出され、しかも定期的に更新されていることが判明したのである。



「役所書類に慣れた頭の良いどなたかが、最善の状態で管理して下さっているようですね。身元引受住所も、きちんとしたところのようだし」



――乾物商、“べにてがら”だって……。



「あの、それではわたしどもは……?」


「安心して、ガーティンロー市民になっていただいて問題ありません。もし将来、このご次男アンリさんがご家族に合流したいという場合は、行方不明者届をテルポシエで解除した後で、ガーティンロー市民籍を取得すればいいだけの話です。難しくはありませんよ」



 ふッ! やはり無言、長男の料理人が鼻息をついた。



「よかったわ! あなた」


「よかったね! おまえ」



 難しい話を全て他人に丸投げしているらしき親子三人は、それぞれの反応を示した。


 ちなみに次男も、苦手なことを丸投げするという点では全くおんなし性質である。


 ともかく、ようやく一家の市民籍取得にこぎつけてくたびれたベッカは、その日の食事を“麗しの黒百合亭”でたべた。お値段に見合う、いやそれ以上の感動の載った皿……かなり気に入った。堅物かたぶつの息子はしかし、腕は立つのである。ティエリさんという。




 悶々とそんなことを思い返しているうち、小舟は吸いこまれるようにして、奥まった小さな湾へと進んで行った。




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