ぷよひょろ、知らぬうちに東部入り
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シエ半島と、その先にあるいくつかの小さな岬を左にやり過ごしながら、ゼールの小舟はやがて湾の中へ向かって行った。
「あの白っぽい崖の先に、集落があるんだ!」
ひっそりたたずむ波止場が見えてくる。櫂を使ってたくみに接岸すると、ゼールはひょうい、と縄を放り投げる。
「すごいね……! もう着いてしまった。今何刻くらいだろう?」
「俺の腹ぐあいだと、まだ昼前です」
「ふふっ、今日はとびきり運も良かったよ。風が機嫌よく運んでくれた」
もやい綱を手早く結ぶと、ゼールは二人に向かい、あごをしゃくった。
「さ、ギーオさんちに行こう!」
草ぶかい小径をたどってゆくと、大きな楡の樹々に寄りそうようにして建った、石積み造りの小屋が数軒見えてきた。
「おや! ゼールじゃないの。福ある日を」
小屋の裏側で、何か厚い布ぎれをはたいていたおばさんが、声をかけてくる。ほっかむりの下は濃い金髪、イリー女性に見えた。
「こんにちはー」
三人そろって、挨拶を返す。
「ギーオさん、いるかい? お客を連れてきたんだよ」
ゼールが言った途端、おばさんはふくよかな顔を、はっとこわばらせた。
「ええとね……、ちょっとうちへ、お上がり。皆して……」
「どうかしたの? おばちゃん」
はやく早く、と彼女は手のひらをひらひらはためかせ、それで三人は顔を見合わせつつ、石積み小屋の中へ入った。
晴れた日、窓はどれも開け放してあって、狭い室内は明るかった。炉ではとろ火が燃えている。
「遠いところからいらしたのに、悪いのだけど……」
その炉のそばに立って、おばさんは話し始めた。
「……この先の、別の集落に重病の人が出てね。ギーオさんとうちの人は、助けに行ってるのよ。きのうの今日だから、どうなっているのかわからなくってさ」
このおばさんは、ギーオさんの弟の奥さん、つまり義妹だという。この辺にぽつぽつと一族で住んでいて、ほぼ全員が磯織りづくりに携わっている。
「職人さんは他にもいるけど、窓口係のギーオに会いに来たのでしょう? イリーの衣商さんですか」
おばさんが話すのは潮野方言だが、だいぶイリー語に寄っていてわかりやすい。
「ええと……。できれば磯織りに一番詳しい方に会いたいと、思ってきたのです。ちょっと見ていただきたいものもあるので」
おばさんは気の毒がって、せめてお昼を食べて待っていけば、とすすめてくれた。
その時ブランとゼールのお腹がぎゅーと返事をし、話が決まる。
おばさんは何だか嬉しそうに、とろ火をかき立ててお鍋の準備を始めた。ブランは中弓をその辺に置いて、火の世話を手伝い始める。
「皆、火のそばにいてね。火のそばにいれば、色々あっても大丈夫なのよ」
ここでは潮野方言に歌うようなふしをつけて、おばさんは言った。
「……?」
「このおばちゃん、髪がぱっと見イリー人にみえるけど、東部ブリージ系なんだよ」
炉のまわりにあった腰掛に座って、ゼールはベッカに話す。
「ギーオさんは暗色髪なんだけど、ここの人って皆こんな感じなんだ。イリーっぽかったり、ブリージっぽかったり。でも、同じ村の人なんだよね」
「ずうっと前にやってきたイリーの人たちが、一緒に守り合って暮らしませんかと言ったのよ。あたしのおじいさん達の世代の話」
「へえっ」
まさかそれって、とベッカには思い当たる節があった。
「その頃までは、あたしらの東部方のご先祖は、もうちょい東のほうに住んでいたのよ。けれどそのイリーご先祖と一緒になった辺りから、この岬かげに移り住んだ。ほれ、ここはだいぶ入り組んでいるから、海からも見つけにくいでしょう? それに……、おっと」
じゃかじゃか鍋の中を炒りながら、おばさんの言葉はなぜか尻切れとんぼになる。ベッカは普通の顔で聞いているけど、内心ではどきどきしていた。
――大昔、少数で開拓を挑んだと言う、イリー入植民の子孫なんだ……! テルポシエ側の辺境へ、移り住んでいたなんて……!
「あなたたちは、どこから来なすったの?」
ことこと、煮込みに入ったおばさんが聞く。
「僕らは……」
言いかけて、ベッカはちょっと躊躇した。
「ガーティンローからなんです。磯織りめあてで来ただけなので……その。周りの方や、エノ軍とかには、言わないでくださいね」
苦笑いしつつ言ってみる。
「何言うんだい、ベッカさん。あなたがここにいて危なかったら、オーラン人の俺だって、ばりばりやばいじゃないか」
ベッカを衣商人と思い込んでいるゼールが、横から口を出す。彼はいいのだ、平民なのだから。けれどベッカは文官と言えど、ガーティンロー騎士である。うっかり地方巡回しているエノ軍傭兵に見つかりでもしたら、ただでは済まない。
「どうして、あなたたちがここにいて危なくなるの? 何でエノ軍が出てくるの?」
不思議そうな顔で、おばさんがきょとんと問うた。
「だっておばちゃん、ここはテルポシエ領じゃないか」
「違うわよ?」
ぷよ、がたたたっ!!
ベッカは前のめりに、腰掛からずり落ちかけた!
「岬のわきの、白い崖を見たでしょう? テルポシエ領はあそこまでなんだから。ここはもう、東部ですよ」
ぱくぱく口を開け閉めしながら、ベッカは鞄の中から地図を取り出す。
後ろにあった、低い木の食卓にのせて開いた……おばさんがのぞき込む。
「ああら、良い地図ねえ! ええと、この大きいのがシエ半島でしょ? だから……ここが、うちの集落よ」
おばさんが示した箇所。それはまぎれもなく、テルポシエ領の線の、……外側だった。
ぷ・よーん!
ベッカは口を四角く開けた。四角く開けたまま、元に戻せなかった。
「何だぁ……。勘違いしてたの、俺?」
ものすごく恥ずかしそうに、ゼールが言った。
「ごめんよ、ベッカさん。いつのまにかイリー世界越えて、東部に来ちゃってたね」
「俺ら、すげッッ」
任せられた炉の火からぎーんと目を離すことなく、ブランが言い切った。




