ぷよひょろ、海の道をゆく(酔い止め効果発揮)
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「何と言う、ことだーッッ」
外套の頭巾をあごまでぴっちりしめて、そこから丸く抜き出された顔でベッカは言った。ふちから、おにくがはみ出している。
「テルポシエ領に赴くことになってしまうとはッ。敵地なのに!」
こんもり丸い身体をこわばらせて、ベッカは小舟の真ん中あたり、ブランとくっつき合って台の上に座っている。
二人とも外套の上から、牛皮の筒に黄色い染料をまぶした救命胴衣をつけていた。ベッカは通常二割増しくらいで、ぷよぷよ膨張している!
そのすぐ後ろにゼールは立って、ゆるやかに細縄を引いたり、ゆるめたりしている。それは短く立てられた帆柱、そして船尾にかかる小さな帆へと続いていた。
今その帆はいっぱいに風をはらんで、黒い木っ葉のような小さな船は、おどろくべき速さでシエ湾を横断しているのだ!
「すごいねぇっっ! 本当ーに、速いねえー!」
ブランは顔を紅潮させている。楽しそうに、後ろ向けにどなった。
「馬の早駆けが、ずーっと続いてるみたいだ!」
彼らの足元には、がっしりした櫂が二本置いてあるが、ゼールはこれを波止場でしか使わなかった。
沖合に向けて進み出したところへ、ぴーんと小さな帆を張って、……小舟はとんでもない速度で爆走し出したのである。
ふろーん!
ちょっと大きい波が来る、高みにのぼるその一瞬の気ッ色わるさ。
「ファダンから乗った荷馬車で、あのおじさん達に出会えていたのは、幸運だったーッ」
ベッカもブランも、口の中がひりひりしょうが味である、こびりつく辛さ!
しかし酔う気配は、今のところない。昨日オーラン市内でブランのために買っておいたものが、ベッカまで救ってくれた。
デリアドに母の友人を訪ねたり、陥落の心配がまだなかった頃のテルポシエへ、母方祖母の実家マトロナ家を訪ねて、ベッカは何度も船旅をしたことがある。しかし利用したのは超高級中型船だった。揺れのわからない船内で、ほほほとお香湯をすするようなのんびり快適旅しか知らないのだから、こんなむちゃ荒行にそのまま直面していたら、間違いなく船底にへたり込んでいたことだろう。
ありがとう、でこぼこおじさん達! 見かけがおぞましくっても、我々は優しいあなた方のことを忘れません!
「ねえ、海賊の心配って、ないのー?」
また、ブランがどなった。
「ないよ! オーラン沿岸警備隊のお膝もとにいるんだもの、あいつら手なんか出せやしないさ!」
言い返すゼールの声には、誇らしさがまじっていた。
オーランは水軍を持たないが、精鋭ぞろいの警備隊が水際治安を守っている、とベッカは伝え聞いていた。
離れた国の一文官の身分では、戦略上の力量まではわからない。けれど地元民ゼールにとっては、また違った存在なのだろう。英雄なのかもしれない。
「と言うか、俺たちがあやしまれないのかなー!?」
「あっはっは、だからこうして小っちゃな舟を使うんじゃないか。四人も乗ればいっぱいの舟に、賊だの軍人だのがのるかい。どう見たって、漁師か小商いだよ! だからどこからも見逃されること、間違いなしなんだ」
「なーるほどー」
現在エノ軍支配下にあるテルポシエと、オーラン以西のイリー諸国とは、交戦こそないものの戦争状態にある。街道の境に双方の監視拠点が置かれて火花を散らしているが、実は一般人の通行には問題がなかった。
さすがに騎馬で乗り込む危険をおかすイリー貴族はいなかったが、行商人や農家が荷馬車や驢馬連れで通ることは、全くとがめられない。
それは、“海の道”にも同じことが言えるらしい、とベッカは思った。
「ほーら、テルポシエ市を過ぎるよ!」
どかんと平べったく座り込む灰白色の城塞のまわりを、やはり白っぽい建物が無数に取り囲んでいる。
遠目に見ても堅牢な、どっしりとした都市である。
――しかし、かの地が“イリー東の雄”と呼ばれていたのは、すでに過去の話なのだ。
ゼールの小舟は、全く速度をゆるめない。
ぴゅーう、とシエ半島の緑色の先っぽを目指して、風の速さで走ってゆく。




